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2015年7月 8日 (水)

私をつくるもの

何冊読んだことになるのか数えたこともない本。映画館で、あるいは自宅で観てきた映画。レコードやCDだったり、時にはラジオから、あるいはライブコンサートの会場で聴いてきた音楽。さまざまな場所で、さまざまな季節の中で出会った人たち。

たぶんそれらの総体が、自分という人間を形作っている。物心ついた頃から今に至るまで、何も変わらない。おそらくこの先も同じように、本を読み、映画を観て、音楽に耳を傾け、誰かととりとめもなく話をしているのだろう。それらを取り去ってしまったら何も残らない。そういったものが無くなれば、自分ではない存在になってしまう。息を吸って吐くのと同じように、活字を追い、映像を眺め、音の響きを聴くことが日常のひとこまの中に収まっている。

何かの折に、ふと昔観た古い映画の一場面が思い出されたり、過ぎていく季節の替わり目にジャズのフレーズが浮かんできたり、そういえばどれかの小説で同じような情景があったなと感じたりすることがある。人との出会いにしてもそうだ。すっかり忘れていたような過去の一瞬を、何かの拍子に思い出すことがある。特別に印象的だったわけでもない、何気ない日常の一瞬を、鮮明に。

おそらくそのような膨大な参照元が、どの人の足許にも広がっている。氷山の水面下の巨大な部分のようなものかもしれない。直接に見えるものは、その人の一部でしかない。見えない部分を支えている膨大な参照元が、誰の足許にも広がっているのだと考えると、つくづく人間という存在は分からないものなのだと思う。自分にとっての自分自身もそうだし、自分から見た他の人間もそうだ。自分のことだから自分が一番よく分かるだろうというのは、違うと思う。自分のことが自分で見えていないから、「あなたはこうこうこういう所がありますね」と誰かに指摘されて初めて「あっ」と気がつくのであって、足許の広がりは自分にも見通すことはできない。まして他の人の氷山の水面下など分かるはずがないだろう。つかめたとしても、ほんの一部だ。

一人の人間のかけがえのなさというのは、この見えない部分のことを言うのだろう。他の誰ひとりとして同じ足許の広がりを持つ人間はいない。入れ替え可能性が高くなってきた社会に暮らしていると、「あなたでなくても他にいくらでも替わりはいますよ」と有形無形のメッセージを受け取るが、いくら入れ替え可能性が高まっても、その人の人となりを支えている膨大な参照元は、入れ替えがきかない。個の重みというのは、それ以外には考えられない。

圧倒的なシステムの前に立つと、個の無力さを思い知らされる。それでも、そのときに無力な個を支えてくれる最後の砦は、それぞれが抱え込んでいるこの膨大な足許の広がりなのではないか。私が私であってあなたではないゆえんのもの。誰もが持っていながら入れ替え不可能なもの。個の個たる根源。システムの圧倒的な力に抗していくために、今必要なものは、個のかけがえのなさへの自覚ではないか。私という人間の個だけではなく、違うものを抱えたあなたという個と、それからまた別なものを抱えた別の誰かという個が、今生きている共同体を形作っている。

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