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2015年5月11日 (月)

とりとめもなく

四月は限りなく閑散とした教室で、ぼんやりと過ごしていた。教室に入り、掃除が終わり、指導ファイルを確認すると、実際に生徒が来るまで長い時間が待っている。プリントアウトした英文記事を4、5ページ読み、並行して読みかけの本を何冊か続けて読む。小説はほとんど読んでいない。わずかに村上春樹の『神の子どもたちはみな踊る』と吉川英治の『三国志』ぐらいか。どちらも何度目かの読み返しだ。

村上春樹の『神の子どもたちはみな踊る』は、短編集で阪神淡路大震災の後に書かれた作品を集めている。震災を経験した登場人物が出てくるわけではないのだが、物語の重要な基底部に震災が横たわっている。大震災がもたらした日常への亀裂は、直接震災を経験しなかった登場人物の内面にも大きく影響を与えている。どの短編もとても静かな感じがする。村上春樹の長編が持っている想像力の暴力性みたいなものは、それほど強く感じられない。けれども、東日本大震災から四年が過ぎてしまった今、この短編集の持つ深い洞察というか鮮やかな切断面の提示は、不思議なリアリティを感じさせる。

東日本大震災以後、この大震災が人々の内面に与えた影響を小説として結晶化させた作品はあるのだろうか。最近の小説を全く読まないので、私には皆目わからない。映画では震災後の東北、特に原発事故の起きた福島を舞台にしたさまざまな作品が作られている。しかし、小説で、この村上春樹の『神の子どもたちはみな踊る』に相当する作品は書かれているのだろうか。

津波の恐ろしさや避難生活の大変さといった個々の具体的な事柄や、数々の劇的なエピソードを取り上げるのではなく、つまりそれは、具体性に縛られて限定されてしまうのではなくということだが、遠くの地でテレビの画面を通して津波や地震の被害を目にしていた人々にも及ぼしたこの大震災の影響を描いた小説はあるのだろうか。大震災が人々に対して持った意味を描き出そうという努力はあるのだろうか。

特殊と普遍ということを考える。実際に私が経験した大震災は、私だけの特殊な経験だ。岩手県内陸部のある具体的な地点で遭遇した大震災でしかない。テレビに映し出された、あるいはネットに上げられた数々の津波の動画も具体的なある地点で遭遇した大震災の記録でしかない。そこには具体的な経験としての意味はもちろんあるだろう。けれども、具体的なもの特殊なものは、いかに深刻で恐怖に満ちていようと限定されたものだ。限定されたものであるからこそ、それを経験した当人には消えることのない刻印として残り続ける。けれども、直接経験しなかった人々にとっては、いかに克明な映像記録であろうとあくまでも間接的な二次経験に過ぎない。具体的なもの、特殊なものは強烈であるけれどもそれだけでは風化してしまう。個々の経験を越えた普遍性を獲得しなければ、忘れられていくだけだ。

村上春樹の『神の子どもたちはみな踊る』という短編集が行なったのは、阪神淡路大震災の持つ意味の普遍化という作業なのだと思う。それと同じような作業を、東日本大震災についても誰かしているのだろうか。ご存じの方がいたらぜひ教えていただきたいと願っている。

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