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2015年3月25日 (水)

漱石『夢十夜』・ふたたび

漱石の『夢十夜』についてずっと以前に書いたような気がする。たぶん「第三夜」の話がとてつもなく怖い、ということを書いたはずだ。その感想は変わらないのだが、この間、高校生の現代文で『夢十夜』を読み返す機会があり、ちょっと考えたことがあった。忘れないうちにメモしておこうと思う。

教科書に載っていたのは、「第一夜」と「第六夜」の二つ。「第一夜」は、死にかけている女の枕許に座っているという夢。死んだら真珠貝で穴を掘って埋めその上に星の破片を置いて百年待ってほしい、と言う。百年待ってくれたらまた逢いに来ます、と謎のような言葉を残して女は亡くなる。言われたように真珠貝で穴を掘り、埋めた土の上に星の破片を置き、その墓の脇に座っているといくつもの日が昇り日が沈む。百年はなかなか過ぎず、自分は女に騙されたのではないかと思い始める。そのとき、星の破片の下から茎が伸びてきて花が開く。真っ白い百合の花だ。百年はもう来ていたんだとその時気がつく。そういう夢である。

この「第一夜」の持つ瑞々しい叙情性は魅力的だ。漱石に、こういう繊細な硝子細工みたいな小品があったのかと新鮮な驚きを感じる。詩的な叙情性にあふれたファンタジイを書く資質に恵まれていたのに、残念ながら漱石はこの傾向を存分に発揮することなく生涯を終えてしまったのではないか。前期三部作や後期三部作があまりにも高くそびえているので、文豪としての漱石しか人々の目には映らない。しかし詩人としての漱石の姿は、文豪としての漱石以上に魅力がある。

この「第一夜」の、イメージの重なり方はすばらしい。死にかけている女は長い黒髪に白い瓜実顔。唇は赤い。到底死にそうには見えない。大きな潤いのある目は、長いまつげに包まれた中がただ一面の真っ黒だ。そこに自分の姿が浮かんでいるのが見える。死んだ女を埋めて墓の脇で目にする日は赤い。赤い日が東から昇り赤いまま西に沈む。墓からすーっと伸びて胸の前で開いたのは真っ白い百合。その時遠い空を見ると、暁の星がたった一つまたたいていた、とあるので明け方のまだ暗い時分であろう。薄暗がりの中に浮かぶ白い百合の花。白と黒と赤。この三つの色のイメージが最初から最後まで一貫している。

黒は「喪」の色であり「死」の色だ。赤はそれに抗う「生」を象徴する。白は両者にまたがる「純粋性」の徽でもあろうか。庭に墓を掘る時の真珠貝は「白」いだろうし、墓の上に置かれた星の破片は「黒」いのだろう。日が昇り日が沈む。生と死の繰り返し。あるいは死と再生の物語。それをこのように可憐な小品にさらりと結晶させてしまう漱石はすごい。

付け足しとなるが、死にかけている女の目が「ただ一面の真っ黒」だというところが最初よく分からなかった。一面が真っ黒の目って、どういう目だ?同じ漱石に『文鳥』という小品がある。この中の文鳥の目を描写した部分を読んで、はたと気がついた。ああ、あの女の目は、というか、あの「第一夜」の死にかけている女には『文鳥』に描かれた白い美しい文鳥のイメージが重なっているのではないか。だから文鳥の目のように一面が真っ黒なのか。

漱石がもっと長生きしていたら、ファンタジックな大長編を残してくれたかもしれないのになあと惜しまれる。

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