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2015年3月28日 (土)

他力本願

漱石の『夢十夜』の「第一夜」と「第六夜」を現代文の教科書で読んだという話を書いた。「第一夜」については、この間書いたので、「第六夜」にからめた話をしたい。

この「第六夜」の話は、問題集などにもよく使われていて、たぶん『夢十夜』の中では一番よく知られているのではないかと思う。運慶が明治の世に現れて仁王像を彫っているという夢の話だ。この中に、運慶は木の中に埋もれている仁王像を彫り出しているだけだから、鑿のふるい方に迷いがないという話が出てくる。「自分」という人物も家に帰って転がっている木を彫ってみるのだが、仁王は出てこない。だから明治の世に運慶がいるのだという感想で話は締めくくられる。

運慶が木の中から仁王像を彫り出してくるのだという部分が、妙に引っかかって意識の隅に残る。この部分と同じような話をどこかで読んだなあ、と思う。あ、そうだ村上春樹の『1Q84』の中で、女性主人公の「青豆」に仕事を依頼する老婦人のボディガード、「タマル」の話に出てくるではないか。たしかネズミしか彫らない少年の話だ。その少年も、木の中に埋もれているネズミを彫り出しているのだと「タマル」は言っていた。村上春樹は、漱石の『夢十夜』の「第六夜」を意識のどこかに浮かべていたのかもしれない。

この運慶やネズミを彫る少年のように、木の中に埋もれているものを彫り出すのが彫刻家なのかどうかの判断は保留するとして、「教える」という仕事も、実はそこにあるものを掘り出してくる作業なのじゃないかと思えてくる。「教える」ことは、知識を詰め込むことでもなければ、問題を解く技術を仕込むことでもない。生徒自身の中に元々あったものを「掘り出して」くることなのではないか。

塾で教える仕事に長くたずさわっていると、つい知識の伝授が「教える」ということの本体であるように考えてしまいがちだ。コツさえのみ込んでもらえばよいのだと錯覚する。上手く伝わらないと、こちらの伝え方を棚に上げて、苛立ちを覚えることもある。しかし、「教える」側ができることなどタカが知れている。ものごとを知りたいという知的な欲求を人間は持っている。好奇心は誰にでもある。そして、それぞれの中に学び方のシステムとテンポが存在する。それを掘り出してくればいいだけのことだ。

他力本願的な虫のいい話だろうか。そうではないと思う。むしろ、この他力本願的な考えこそ大事なのではないか。生徒自身の中に本来備わっているはずのシステムを動かすことができれば、こちらが力瘤を作って必死の形相で詰め寄らなくても自律的に学びは進んでいくはずだ。そしておそらくその方が学ぶ「効率」もいいのだろうと思う。なぜなら、誰かに強制されたり押しつけられたりしても人はその気にならないけれど、自分から進んで行うことには、喜びと充実感が伴うからだ。たぶんこれが大事な鍵なのだろう。

体力勝負でゴリゴリと押しつけるような知識の詰め込み作業は、若いときならなんとか続けられたかもしれないが、体力が衰えてきたなあと感じるこの歳では無理がある。そして成果も出ない。実際に生徒がうまく覚えてくれるかどうかは、私がどのくらいうまく詰め込めたかより、生徒がどれくらい自分から学ぶ気になって学んだか、どれくらい知りたいと思って取り組んだかにかかっている。木の中に埋もれている仁王像やネズミが彫り出されてくるように、その生徒の中に埋もれている学びのシステムを掘り出して動き出すように仕向ける。それさえうまくいけば、半分以上仕事は終わったようなものではないか。あとは、動き出したシステムが停まらないように気を配っていればいい。それにしたって、こちらが動かしていくのではない。動かしていくのは生徒自身だ。

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