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2013年11月22日 (金)

魯迅『故郷』

中3国語の期末試験範囲に、魯迅の『故郷』が入っていた。光村図書の教科書を使っている学校だと、この時期になると出題の中心はこの『故郷』となる。

決して明るい話ではない。しかも、長い。短編だから本当はそれほど長くないのだが、他の説明文や小説にくらべてやたらに頁数が多いように感じる。だが、多くの生徒が『故郷』には反応する。試験にあまり出される箇所ではないが、コンパスの「ヤンおばさん」の印象がなかなか強烈だ。たぶん『故郷』の中で一番アクの強い登場人物だからかもしれない。

冒頭場面は重苦しい。「寂寥の感」が漂う故郷の描写は、主人公「私」の心象風景である。没落する地主階級の末裔として、生まれた家屋敷を手放すために戻ったのだから、心躍る帰郷であるわけがない。しかし、「私」の中には「美しい故郷」の思い出が残っている。それは少年の日々に結びついているものだ。

少年の日に出会った「ルントウ」との思い出。これが消えることのない「美しい故郷」の源であり、「私」にとってかけがえのない宝物となっている。それだけが唯一、「私」と故郷を結びつけている絆である。

ところが、皮肉なことに「ルントウ」との再会が、この絆を断ち切らせてしまう。二人の間に立ちはだかる封建的な身分の差。それが高い壁となって二人の間を隔ててしまっている。もはや少年の日々のように分け隔てなく接することはかなわない。少年の日の思い出が、宝石のように輝かしいものであるだけに、再会の現実は侘びしく苦い。

それは悲しむべき隔絶だが、その一方で甥の「ホンル」とルントウの息子の「シュイション」が仲良く遊んでいる様子に、ほのかな光を見出す。あの頃の自分たちと同じではないか。地主の息子と使用人の息子という身分の差など関係なく遊び、この世界には自分の知らないことがたくさんあるのだと教えてもらった。これこそが何ものにも代え難い大切なものだったのだ。

封建的な身分の差がなくなるような世の中が来ることを、「私」は願う。それは「手製の偶像」かもしれない。けれども、希望は地上の道のように、はじめからあるのではなく歩く人が多くなればそれが道になるのだ。そういう「私」の思いとともに小説は終わる。

この決して明るくない話の中で何が印象に残るかといえば、やはり少年の日の「私」と「ルントウ」の思い出だ。ルントウの話を聞いて「私」が感じた、この世界には自分の知らないことがたくさんあるのだという感覚、福岡伸一さんの言葉でいえば「センス・オブ・ワンダー」、これこそがその人の核になるのではないか。世界を知ろうとする好奇心。不思議だと思うものへ向けられる探求心と言ってもいい。

大人になった「私」の中に少年の日の思い出は生き続けていたのだし、再会によって悲しむべき隔絶を味わっても、思い出の美しさそのものは失われたわけではない。だからルントウとの再会を落胆する一方で、甥の「ホンル」たちに希望を感じることができたのではないか。

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