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2013年9月24日 (火)

百年河清を

このところ、何かの拍子にふと浮かんでくる章句がある。村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「世界の終り」に登場する「影」が「僕」に向かって言う科白。

不完全な部分を不完全な存在に押しつけ、そしてそのうわずみだけを吸って生きているんだ。それが正しいことだと君は思うのかい?
(「村上春樹全作品 1979-1989」第4巻 p490)

「世界の終り」は脳の中にある意識の核のような世界で、静謐ではあるが自閉した場所である。そこに留まることは、自我が傷つく恐れのない、安全な、そのかわり何も始まることのない、それこそ「世界の終り」に延々と引きこもることを意味している。

だから「影」は、こんな不自然な世界を抜け出そうと「僕」にくり返し説く。個の内的世界から抜け出して現実の社会に生きることを「影」は何度も勧める。

しかし、ここで、ある疑問が浮かぶ。内的世界から抜け出して飛び込むことになる現実の世界だって、「不完全な部分を不完全な存在に押しつけて」見かけの完全さを維持しているだけの世界なのではないか。

まやかしとペテンに満ちた世界。かくして、この世界に対する不平と不満は止むことがない。百年河清を待っても、それは訪れることなく、いつの時代も汚濁にまみれている。かつてそのような世界を一度に変えてしまおうという試みがいくつかなされた。革命という名で呼ばれている歴史上の出来事がそれだ。

成就した革命もあれば失敗した革命もある。しかし革命が成功しても、世界が汚濁に満ちていることに変わりはない。一つの汚濁からもう少しましな、あるいはもっとひどい汚濁へと入れ替わっただけだ。

こういう見方は、きわめて厭世的で虚無的なものかもしれない。夢も希望もない。身も蓋もない。けれども、世界の在りように目をつぶったまま明るい未来を語ってどうなるというのだ。汚濁に満ちた世界の在りようを直視することから始めるしかないのではないか。つまり、この世界のどうしようもなさに対する絶望からしか、何も実のあるものは生まれないのではないか。

中国の故事に出てくる老人はこう言った。「河の水が汚れていたら足を洗えばいい。きれいになったら耳を洗えばいいのさ」耳ではなくて冠だったかもしれないが、確かに老人の言う通りなのだ。この老人の身の処し方が、最も現実的なのかもしれない。希望も持たないかわり絶望もしない。目の前にある実相に応じて対処していくこと。じっと見続けて目をそらさないこと。消極的に見えて、この老人の在り方はしたたかだと思う。

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