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2013年8月22日 (木)

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読む・その6

「ハードボイルド・ワンダーランド」の「私」の意識が消滅し、「世界の終り」の世界が残るのは象徴的だ。

現実的世界へのコミットではなく、内的世界への引きこもりとも思えるような展開である。しかし、この作品が世に出たのは1985年で、初期三部作の次に書かれた初めての書下ろし長編だったことを思えば、不思議な話ではないだろうと思う。

この作品の十年後、1995年に起きた二つの出来事が大きな影をおとす前の作品なのだということだ。阪神淡路大震災とオウム真理教事件。この二つの出来事は、日本の社会と日本人の意識に大きな衝撃を与えた。そしてそれらは、村上春樹が後にインタビューで「現実の社会にコミットするような作品を書いていきたい」と発言する契機に、おそらくなったのでもあろう。

現実の社会へコミットすることを指向する前の長編であることを思えば、内的世界へ向かおうとする結末は自然な流れである。ただ、「世界の終り」の「僕」が「影」と別れて壁の中の世界に留まることを決意し、図書館の女の子と共に生きていくために、彼女の心を一角獣の頭骨から拾い集めるというところに、一筋の光のようなものを感じる。

壁に囲まれた街の住人は、みな影を切り離して影が死んでしまった人間、つまり「自我の母体」、心を失った人間である。それゆえ街はひっそりとした時が静かに循環するだけの世界となっている。この世界では何も起こらない。誰も大声をあげて喜んだり怒ったり哀しんだり楽しんだりすることがない。その世界に心を取り戻した女の子と「僕」は生きていこうとする。

それは、「ハードボイルド…」の「私」の意識が無くなる直前の部分にも形を変えて描かれている。

私はこれで私の失ったものをとり戻すことができるのだ、と思った。それは一度失われたにせよ、決して損なわれてはいないのだ。
(「村上春樹全作品 1979-1989」第4巻 p586)

一度失われたけれども決して損なわれていないものが、「世界の終り」の世界には保たれている。そういうことだろうか。おそらく、それは街の中にではなく、発電所の向こうの森の中に。「影」と別れた「僕」が女の子と生きていく場所はそこしか考えられない。

それは、「影」が批判する「不完全な部分を不完全な存在に押しつけて、そしてそのうわずみだけを吸って生きている」街の完全性に訣別することだからだ。街に同化しないまま、森の中で生きていく。現実社会へのコミットでもなく、内的世界への逃避でもない、別の道。それを選択するところに、一筋の光が差しているように感じる。

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