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2013年8月28日 (水)

森達也『A3』・その2

この『A3』は、「月間PLAYBOY」に2005年から連載された記事をもとにしてまとめられている。森氏がオウム真理教の元教組の公判を初めて傍聴したのは、死刑判決が下された2004年12月。裁判の被告席に座る被告人を初めて実際に目にし、森氏は、元教組がすでに正常な精神状態にないのではないかと思う。

刑を逃れるための「詐病」だという見方も一方では有力だった。公判中、元教組は奇矯な振る舞いをしたり奇声を上げたり、一見すると精神に障害をきたしているのではないかと思われる行動が伝えられたが、多くの場合、それは「詐病」であると見なされた。

森氏は「詐病」という判断に対する違和感から出発し、少なくとも公判を維持する訴訟能力があるかどうか精神鑑定が必要ではないかという考えに至る。しかし、この森氏の考えに対する反発も大きかった。精神鑑定によって犯罪行為の責任能力が無いと見なされるのではないか。そのように判断し、批判する人もあったようだ。しかし、森氏が問題としていたのは、犯罪行為の責任能力ではなく、公判廷に立たせてもまったく応じることのできない被告人をそのままにして公判を維持してもよいのかという点だった。

この点は、誤解されやすい点だったのかもしれない。訴訟能力の有無と犯罪行為の責任能力では、観点が違うし、そもそも問題とする精神状態の時点が違う。だから、訴訟能力の有無を問題として精神鑑定を求めても、それは犯罪行為の責任能力を問題とするものではないはずだ。しかし、元教組の犯罪をかばうのかという論調で批判が起きる。一方で、「詐病」だという判断からの批判もあった。

『A3』を読むまで、元教組の死刑判決が一審判決確定で審理打ち切りになっていたことを、まったく忘れていた。確か死刑が確定していたはずだがとは思ったものの、一審判決だけで確定し控訴棄却となった経緯は何も覚えていない。

弁護側は精神鑑定を請求していたが裁判所は認めなかった。それが一転して精神鑑定を実施し、訴訟能力はあるという判断が下る。こうして、地下鉄サリン事件を始めとする一連の事件に元教組がどのように関わっていたのか、なぜそのような犯罪行為が重ねられていったのかという動機や事実について、何も明らかにならないまま終結してしまった。

その後の社会のありようはどうだろう。オウム事件そのものはすでに風化してしまっている。今さらオウム事件でもないでしょう。たしか元教組や幹部の連中は死刑になったんでしょ?えっ、まだ死刑にはなってないの、へえ。どっちにしても凶悪犯罪をやらかしたんだから、死刑になっても当然だと思うけどね。というような感想が一般的なものではないだろうか。

ああいった連中がまた出てこないように厳しく監視し取り締まるべきだ。そう思う人が多ければ、異物を排除し、異質な考えを持つ人間を吊し上げるような空気は強くなる。同調圧力というやつだ。しかし、ものごとは何であれ、そう単純ではない。勧善懲悪ドラマのように、善玉が悪玉を懲らしめてめでたしめでたし、という分かりやすさは現実にはあり得ない。あり得ないのにも関わらず、白黒はっきりさせない中途半端な状態は、あまり望まれない。どっちなんだ、という性急な声が苛立ちとともに聞こえてくる。判断を留保したまま、真実に迫っていこうという悠長なことは言っていられなくなった。それだけ社会から寛容さが失われつつあるということかもしれない。

そう思うと、昨今の領土問題やヘイトスピーチや数々のバッシング炎上の異様なほどの盛り上がりも、なんだか不思議ではなくなってくる。寛容さを失い、同調圧力が高まり、少数意見が圧殺される社会はどう考えても住み心地がいいとは思えない。オウム事件後の日本社会の変容を考える上でも、森氏のこの『A3』はいろいろな問題点を指摘してくれる。集英社から上下二巻の文庫化もされているようだ。機会があれば、一読されることをお勧めする。

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