« 六月の読書 | トップページ | ブログでつぶやき・2 »

2013年6月19日 (水)

六月の読書・続き

さて、3の『平泉』は、以前『陸奥話記』の現代語訳を作っていたころ手許にあったのになぜか読んでいなかった一冊だった。発行年も三十年以上前である。高橋富雄氏の著作集のいくつかを読んでいたので、おそらく同じような内容と思い込んでいたのかもしれない。

確かに著作集やその他既刊の単行本で触れられている項目も多かった。けれども、平泉とその時代が日本史の中で占める位置とはどのようなものか、この小さな一冊が一番明確にまとめているように感じられる。

平泉は、ご存じのように初代藤原清衡から基衡・秀衡を経て泰衡まで四代、およそ百年のあいだ東北の政治・経済・文化の中心であった。その期間は平安末の院政期にほぼ重なる。そして源平合戦の騒乱の中で、第三極として独立した立場を取るだけの実力を備えた勢力でもあった。

源頼朝が鎌倉を動かず、弟の範頼や義経に平家追討の指揮を委ねたのは、ひとえに藤原秀衡が十七万騎を平泉に擁していたからである。この北からの静かな圧力があるために鎌倉を離れるわけにはいかなかった。その秀衡が亡くなったことが奥州藤原氏没落の始まりとなる。

四代目の泰衡は決して愚かな人物ではなかったが、秀衡ほどの政治力を持ち合わせていなかった。天才的とも言える秀衡の外交手腕は、嫡子の泰衡には引き継げなかった。おそらく何事もない平時であれば大過なかったはずの泰衡も、乱世では凡庸な棟梁としか映らない。頼朝の真意が奥州の討伐にあるということを見抜けず、義経の首さえ差し出せば平泉は安泰であろうと近視眼的に判断する。これも、泰衡に父親ほどの政治哲学が無かったからなのであろう。

しかし、平泉が頼朝の軍勢に滅ぼされてしまった後でも、平泉の大義を堂々と主張した由利八郎のような人物がいた。由利八郎は、乱戦の中で捕らえられる。その戦功を巡って源氏の配下の中に争いが起きる。頼朝は梶原景時にまず尋問させる。だが、梶原の無礼な態度に由利は証言を拒否する。その時の論理が見事である。

自分の主の泰衡は藤原秀郷の流れをくむ鎮守府将軍の家柄のものであり、鎌倉殿とは対等の立場。ならば鎌倉殿の家人であるあなたと、平泉御舘の家人である私とは対等の立場であろう。戦に勝敗はつきもの。敗れたとはいえこのように見下されるいわれはない。

この由利の言葉に梶原はひと言もない。頼朝は畠山重忠に尋問役を替えさせる。礼を尽くした畠山の態度に由利八郎も納得し、こころよく証言をすることになる。これで終われば、気骨のある平泉武者がいたという話だけで終わりであろうが、この後がある。

由利八郎の態度に興味を覚えた頼朝が、直接由利に問いかける。お前の主人の泰衡は陸奥・出羽の二国を支配し、十七万騎も擁しながらわずか二十日あまりで滅んでしまうとはふがいない話ではないか。これに対し由利はこう答える。

(頼朝の父)故左馬頭義朝殿は、東海道十五か国を支配していたのに平治の乱では一日も支えきれず、数万騎を抱えていながら長田庄司忠致のためにたやすく殺されてしまった。泰衡が支配していたところは陸奥・出羽わずか二国で、それだけの兵士で鎌倉殿を二十日あまり悩ませた。それをふがいないというひと言で片付けてよいものだろうか。

これには頼朝も返す言葉がなかった。敗戦の将でありながら堂々と論陣を張る由利の姿が印象的な話である。

にほんブログ村 教育ブログ 塾・予備校教育へ 教育ブログ 塾・予備校教育

人気ブログランキングへ 人気ブログランキング(教育・学校)

|

« 六月の読書 | トップページ | ブログでつぶやき・2 »

読書」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 六月の読書・続き:

« 六月の読書 | トップページ | ブログでつぶやき・2 »