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2013年5月20日 (月)

G・オーウェル的あるいは『1984年』的

ジョージ・オーウェルの『1984年』といえば、「ビッグ・ブラザー」による管理が徹底され、いたるところ監視カメラだらけの「監視社会」を描いた近未来小説というイメージが、まず最初に浮かぶのではないだろうか。それぞれの住居のどの部屋にも監視カメラが設置され、毎日の行動を細かく監視される生活は悪夢である。

そこまでではないにしろ、現代のわれわれが置かれている状況も似たり寄ったりではないか。部屋の中こそないものの、通りや建物の外や中のあちらこちらに監視カメラがある。そして監視カメラがあることの違和感すら、この頃は感じなくなってしまった。むしろ監視カメラがあって安心、といった感触をもつ人の方が増えているかもしれない。

日々接するテレビニュースの中にも、当たり前のように監視カメラが記録していた映像が流される。監視カメラがあることが犯罪の抑止効果を上げていると発表されれば、おそらく誰もがうなずくのかもしれない。それゆえ、その監視カメラが犯罪者だけでなくあらゆる人間の行動をとらえているのであり、むしろ私やあなたのような犯罪とは無縁だと思っている人間にも監視カメラが向けられているということを忘れがちになる。

「気にならなくなる」というのは、大きな要素かもしれない。銀行のATMはもちろんのこと、コンビニでもどこでも「防犯」カメラという名前の監視カメラが、いたるところにあるのが日常になってしまうと、それを気にする人はほとんどなくなってしまったのではないか。

昔、オーウェルの『1984年』を読んだとき、強力な独裁権力がそういう監視社会を作るんだろうなと漠然と思った。三十年以上も前、まだ「1984年」が近未来だったころだ。しかし、想像していたのとは違って、目に見えて明らかな独裁権力が存在しなくても、社会はどんどん「オーウェル的」というか「1984年的」になってきている。

『1984年』に出てくる話の中でもう一つ、監視カメラ以上に「悪夢」だと思われたものが「言葉」の管理だった。オーウェルがこの小説を書いた時代には、ウェブ上の言葉までは想像できなかっただろうが、新聞や雑誌や書籍の中の特定の言葉がいつの間にか削除されていく。削除されるとともにその言葉が表していた概念や観念も消滅していく。さらに過去の歴史的事実が改竄されていく。古い新聞を探してみても、現在の状況と合致したものしか出てこないように徹底して書き換えられる。

このエピソードもきわめて「現代的」ではないだろうか。1年間の被曝上限は1mSvだったはずが、いつの間にか20mSvまでは大丈夫とか、いや100mSvまでは心配ないという話がすぐに思い浮かぶ。マスメディアの伝える内容を鵜呑みにする割合が7割以上(詳しくはこちら )という日本では、マスメディアが報じなければそれは「存在しない」事柄なのであり、逆に報じれば無いものでも「存在する」ものにしてしまうことが可能だ。

オーウェルを生んだイギリスのマスコミ鵜呑み度が、1割ちょっとというのもおもしろい。10人中9人近くまでがマスコミの言うことを信じていないというのは、徹底した個人主義者が多いからか。一方で、イギリス国内はすでに監視カメラ大国であるようだが。

そういえば『1984年』には、もう一つ「ビッグ・ブラザー」の管理ツールがあった。「密告」である。家庭の中では子どもたちが親の行動を監視して「密告」する。なんとも悪夢である。さすがにこの点だけは、現代社会では常識化していないが、そのうちこれも気にならない当たり前のことになったりするのだろうか。

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