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2013年4月12日 (金)

四月の読書

二年前、東日本大震災からひと月経った頃、閑散とした四月の教室で黙々と読んでいたのは『徒然草』や『方丈記』などの古典だった。古典の文章が、乾いた大地に水が吸いとられるような感じでじわじわと沁み入んできた。長年高校生に古典を教えていながら、古典があまり好きではなかった。その古典の文章に一番癒されるとは。軽い驚きとともに頁をめくる日々だった。

長い年月を経て残ってきた古典にはそれなりの力があるのだろう。震災後の呆然としたような、そしてまた一方では原発震災の騒然とした中で、時間にみがかれた古典の語句はひとつひとつが深い意味を伝えているように思われてならなかった。

しかし、人の気持ちは移ろいやすい。いや、私だけがそうなのかもしれないが、そのようにして感銘を受けていたことがらもいずれは飽きる。新鮮さが薄れ、興味の対象はまた別の何かへと移っていく。三日坊主で長続きしない。子どもの頃からそうだった。

『源氏物語』を今年こそはと一念発起してまずは現代語訳から読み始めていたのだが、いつの間にか中断。しっかりと各帖ごとの人物関係図を用意さえしたのに、しりつぼみ状態である。このあたりで再開しないと、またずるずる読まないまま終わってしまいそうだ。ここはひとつ踏ん張って読み始めないと。

最近読んだもので久々にわけが分からず楽し苦しい経験だったのは、宇野邦一氏の『意味の果てへの旅』(青土社、1985年)である。主に「現代思想」に載った文章をまとめたもので、宇野氏の最初の著作ではないかと思う。筒井康隆風に表現すると「脳みそをズルズルと引っぱり出してビローンと広げて頭からすっぽりとかぶせられたような」読書だった。

肉体にしのびこんで肉体を支配する言語の体制を巧妙に侵犯し、鋭く転覆してしまう運動とはどんなものだろうか。肉体は舞踏にとって決して特権などではなく、機会に過ぎないとみえてくる。舞踏は、肉体によって、受難するばかりなのかもしれないのだ。踊る意志が、踊るべき肉体に衝突する。踊る欲望は、こうして、分離する肉体の落差に横たわる。
(『意味の果てへの旅』「舞踏・奇妙なポトラッチ」から引用)

分かりますか、この文章の意味?私は、分かりませんでした、と正直に告白しておく。全編このような文章が続く。しかし、なぜかその文章(=思考)には独特のリズムがあって、分からないながらも引き込まれて読んでしまった。内容はまったく理解していない。文章の感触だけが残っている。

ときどきこの手の文章に接したくなる。専門的すぎて分からない文章もそうだが、同じ日本語で書かれているのにその意味するところが皆目分からないというのは、小気味よい経験である。理解できないものが世の中にはいっぱいあるのだ。そういう当たり前のことを実感する。その理解できないものをどうにか理解しようと脳みそは苦闘を続けるわけで、だから苦しいのだが一方で楽しい。日頃ラクをしている脳みそに負荷をかけて、筋トレみたいな思いをさせることはいいことだと思う。

この一冊を読み通した後で、丸山圭三郎氏の『ソシュールを読む』(岩波セミナーブック、1983年)をめくり始めると、何と読みやすいことかと感動する。元々が岩波市民セミナーでの講演なので、内容はともかく、文章そのものは分かりやすい。先ほどの宇野邦一氏の本と同様、すでに三十年ほど前の本である。この三十年間、ずっと眠ったままの一冊だったがまったく時間の隔たりを感じない。もう一冊丸山氏の本がある。『文化のフェティシズム』(勁草書房、1984年)もそのうち読んでみようかと思っている。

四月の教室は暇である。これから陽射しが少しずつ強くなってくると、南側の大通りに面した窓際に座ってうつらうつらしながら難解な書物をひもとくのが心地よい。

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