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2013年1月 9日 (水)

失われていく時間への愛惜

この間、桜庭一樹さんの『伏(ふせ)』を読んだという記事を書いたが、その時に少しだけ触れたことを改めて考えてみた。

桜庭さんの小説に繰り返し登場するモチーフの一つは、十代の少年少女が持っている幻のような時間とそのはかなさに対する愛惜ではないかと思う。『赤朽葉家の伝説』第二部に登場する赤朽葉毛毬が十代で暴走族のリーダーを退くのもそうだし、『ブルースカイ』の印象的な最終場面も、そこで時間が終わってしまうことの端的な表現になっていたと思う。

『伏』に登場する信乃(しの)をはじめとする犬人間たちは、「犬人間」であるがゆえに長く生きられない。いわゆるドッグイヤーで人生を送ることになるので、二十まで生きられず、ほとんど十代後半で死んでしまう。この設定は巧妙である。凶悪な存在であるはずの「伏」がどこか哀しい存在に見えるのは、彼らが二十まで生きられないことから来ている。

十代の少年少女が持っている幻のような時間というのは、ある意味無垢で純粋だがそれゆえ妥協を許さない残酷さを備えている。だから、その時間をそのまま持ち続けていくのは無理な話となる。どこかで大人の社会と折り合いをつけて妥協していかなければならない。それが「大人」になっていくということなのだろう。

桜庭さんの小説には、失われてしまうことが避けられないそうした時間への痛切な愛惜の感情が読み取れる。これは女性作家だから一層切実に感じられるのかもしれない。そういえば坂口安吾が「青春論」の中で、宇野千代とのおもしろいやりとりを紹介していた。

ある能の演目に、登場する亡霊が、自分は宮中に仕えていた女房であるが、若く美しい容貌が衰えていくのを嘆き悲しんで亡くなったため成仏できずにいるという話が出てくる。宇野千代は強く同感するが、坂口安吾はよく分からないと言う。これが時間に対する女性と男性の感じ方の違いなのかもしれない。安吾は、光源氏のような美男子であったとしても、容貌の衰えを嘆いて亡くなり成仏できずにいるという話は成り立ちにくいと考える。悲劇よりむしろ喜劇になってしまうのではないか、と。

失われていく時間、特に無垢で残酷な十代の時間が失われていくことへの愛惜もまた、女性の方が強いのかもしれない。ただ、人間的な成熟はそこから始まるので、それからの時間の方がおもしろいのではないかと私などは思うのだが。

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