« なかったことに | トップページ | デジタル時代の憂鬱・再び »

2013年1月27日 (日)

江戸的スローライフのすすめ・その38

若い頃に覚えておけばよかったと後悔しているものが一つある。囲碁だ。将棋もからきしダメだが、囲碁はまったく分からない。年老いてからの楽しみのためにも覚えておくべきだったと残念だ。もちろん今から覚えるということでもよいのだが、どうも物おぼえが悪くなって、すっかりのみ込めるまで相当な時間がかかりそうだ。

落語の中にも囲碁の出てくる噺は多い。しかも囲碁が重要な役割を果たしているものもある。

まず碁が噺の中心ではないけれど重要な発端になっているのは「文七元結(もっとい)」である。鼈甲問屋に奉公する文七が小梅の水戸様の御屋敷へ集金にあがり、家中のお侍さんが打っている碁をのぞき込み、お前も一番やってみるかと誘われる。根が好きでたまらない方なので夢中になって打ち始める。

ところが、あ、こんな時間だと席を立つときに、うっかり集金の五十両を碁盤の下に忘れてしまう。店に帰る途中、目つきのよくない男とすれ違い、ああいう手合いに人のフトコロをねらう輩が多いから気をつけなければと集金の五十両を確かめると財布がない。しまった、やられた。

このままでは店の御主人に申し訳が立たない。いっそのこと大川に飛び込んでおわびしよう。そう決めて吾妻橋の欄干に手をかけたところで、たまたま通りかかった左官の長兵衛という男に後ろから抱きかかえられて身投げを止められる。ここから噺は本筋となるのだが、今回は碁に関連した部分だけにしようと思うので、紹介はここまで。三代目古今亭志ん朝さんの「文七元結」は1時間くらいの口演だが、ちっとも長く感じない。明治の名人三遊亭圓朝作の人情噺の中でも傑作の一つだと思う。

その次は、これも長い噺であるが「柳田格之進」。以前、このスローライフのシリーズで取り上げたことがあるので、詳しい噺の筋はこちら で。

この噺では発端から結末まで囲碁が中心的な役割を果たす。浪人している柳田格之進が質両替商萬屋の主人源兵衛と碁会所で知り合いになる。ちょうどよい腕の相手であり気も合うので、主人の方が自分の家で打ってはどうかと柳田を誘う。

こうして柳田は大事な碁の相手として萬屋へしばしば足を運ぶようになるのだが、あるとき囲碁の途中で番頭が主人へ水戸様からいただきましたと五十両を持ってくる。主人は碁に夢中なまま上の空で受け取る。碁が終わり柳田が帰った後で番頭にさきほどの五十両はどちらの帳面につけておいたらよいでしょうかと訊かれ、主人はいぶかる。五十両受け取ったような気もするが、はて手元にないのはなぜだろう。柳田様が持っていかれたのではありませんか。日頃から浪人者の柳田が主人の所へ足繁く通ってくるのを快く思っていない番頭が、ここぞとばかりに柳田を疑う。主人の源兵衛は柳田様がそんなことをなさるはずがない。よしんば持っていかれたにしても、それは何か急な御入り用があってのことだ。私は構わないからうっちゃっておきなさい。

主人からそう言われたものの、うっちゃっておけない番頭が柳田の長屋を訪れて、五十両なくなったから柳田様に疑いがかかりますがどうしましょうと言う。このやりとりを聞いていた柳田の娘おきぬが吉原に身売りして五十両をこしらえ、父親を助けることになる。

それから噺は数年後へ飛ぶ。柳田は藩に帰参がかない、江戸留守居役を仰せつかる。ある年の正月、ひょんなことから萬屋の番頭とばったり出会い、例の五十両が見つかったことを知らされる。暮れの大掃除のときに、座敷の額の裏に置かれていた五十両包みを丁稚が見つけたのである。

万が一、五十両が見つかったらこの首をさし上げます。なんだったら主人の源兵衛の首も添えましょうと番頭が大見得を切っていたことから、その翌日萬屋へ柳田格之進が現れ、二人を前に刀を抜く。しかし、互いをかばい合う主人と番頭の姿に心を打たれ、二人を斬らず床の間に置かれていた碁盤を一刀両断にするという結末となる。

この噺は碁に始まり碁で終わる典型だと思うが、以前の記事で書いたように古今亭志ん朝さんのサゲは父親の古今亭志ん生師匠と同じで、この後柳田格之進の娘きぬを身請けし番頭と一緒になるという形である。どうも無理があると思っていたら、立川志の輔さんの演じた「柳田格之進」」では娘のきぬとともに萬屋を訪れている。つまりとうの昔に身請けされているのであり、番頭との婚姻もない。こちらの方が噺の展開に無理がない。

本来の「柳田格之進」の噺は、志の輔さんの演じた形だったのではないかと思う。では、なぜ志ん生師匠や志ん朝さんの演じたようなサゲが生まれたのか。これは仮説であるが、もしかすると先に紹介した「文七元結」と噺が混線したのではなかろうか。ポイントは三つある。一つは水戸様からの五十両。二つ目が囲碁の出てくる噺である点。三つ目が親孝行な娘の身売りと最終部分での身請け。これが何か同じ噺のような印象を与えたのではなかろうか。そこから混同が起こり、サゲとしては無理のある形で伝わってしまったのではないか。確証はないのだが、そういう気がする。

にほんブログ村 教育ブログ 塾・予備校教育へ 教育ブログ 塾・予備校教育

人気ブログランキングへ 人気ブログランキング(教育・学校)

|

« なかったことに | トップページ | デジタル時代の憂鬱・再び »

江戸的スローライフのすすめ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 江戸的スローライフのすすめ・その38:

« なかったことに | トップページ | デジタル時代の憂鬱・再び »