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2012年12月 3日 (月)

富めるときも貧しきときも

不遇であることや失意の底に沈んでいることは、そんなによくないことなのだろうか。普通に考えれば、不遇であるより栄達したほうが好まれるだろうし、失意など味わったことがない人生の方が楽しいのかもしれない。

先日、勝小吉の自伝『夢酔独言』を読んだとき、訳編者の勝部真長氏が解説に書いていた文章が心に残った。

わが国には自伝文学の出色のものが少ない。福沢諭吉の「福翁自伝」は、「折たく柴の記」と並んで、数少ない傑作の一つに数えられている。しかし「福翁自伝」も「折たく柴の記」も、ともに貧窮より起こして成功したものの、得意げな回想記である。とくに「福翁自伝」には楽天的な、運がよくて万事うまくいった材能豊かな人間の、自慢話が多くて、失意や不如意に呻吟する不幸な人の溜息みたいなものは聞かれない。そこへいくと「夢酔独言」には、一見、単純で無邪気な乱暴者の、長屋の隠居の世間噺、手柄噺のようにみえながら、実はその奥に、自己の生涯を「酔生夢死」と観じて、無知なるが故に、益友にも恵まれず、下らぬ生活を送ってしまったという失意と悔恨の、呻きと涙とがこめられているのである。いいかえれば、告白・懺悔の気持が、白石にも諭吉にもほとんどないが、小吉にはあるといえよう。
(角川文庫『夢酔独言』所収  勝部真長「夢酔と海舟」p240-241)

勝小吉は、一見すると好き勝手に生きた自由人のようにも見えるが、その底には思うように出仕できなかった自分の半生についての屈折した思いがある。勝部氏が書いているが、「「無役」の小普請組という、永久失業の状態からくる不平不満の気分」が底流にある。これが『夢酔独言』という自伝に一種の陰影を与えている。

勝部氏が比較に挙げた新井白石の『折たく柴の記』も福沢諭吉の『福翁自伝』も読んだことがないので、氏の評についてあれこれと言えるわけではない。ただ、結果的に成功者として人生を終えた人々の自伝に、意識せずとも誇らしげな雰囲気が叙述として出てくるのはやむを得ないことかもしれない。

不遇であったり失意の底に沈んでいたりすること自体が悪いことなのではない。不遇であっても世をすねることなく黙々と生きている人がいる。失意を抱えながら、それでも光のある方へ歩む人もいる。大事なことは、不遇であることや失意を抱えていることを実際以上にとらえないことであろう。悲劇の主人公のように悲観的な感情の中におぼれてしまっても、何もいいことはない。

むしろ、不遇であることや失意の底にあることによって自分が学んでいるものを大事にすべきではないか。屈折したものを内に抱えているがゆえに同じような境遇にある人への配慮も生まれるであろうし、単純さに還元されない陰影のある人生や人となりが形作られていくのではないか。

『源氏物語』がなぜ千年以上も傑作として読み継がれてきたのか。主人公の光源氏が単に栄達をきわめ栄華をきわめたスーパー・ヒーローとしてのみ描かれていたのであれば、これほどの読者を獲得しなかったのではないか。仏道への志を深めていかないわけにはいかなかった迷いや悔恨や失意が、あの光源氏にも陰影を与えていたからこそ単なる王朝のプレイボーイ物語で終わらなかったのだと思う。

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