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2012年9月15日 (土)

『羊をめぐる冒険』を読む・9

終盤部、「僕」が「鼠」の父の所有する別荘に着いてからの話は、これこそ村上春樹的世界と呼びたくなる展開をみせる。「特別な耳」を持つ「僕」のガールフレンドが別荘を去ってからの部分には特にそれを感じる。

別荘に着く前にあった「不吉なカーブ」は、現実世界と異界を区切る境界線のようなものなのだろう。そして遠くから目にした別荘の建物は「うまく感情表現できないまま年老いてしまった巨大な生き物のように見えた。」(「村上春樹全作品2」p297)とあり、これから向かう場所が非現実的な異界の建物であることを暗示する。

鍵を回して中に入ってすぐの場面は次のように描写されている。

「こんにちは」と僕は大声で叫んでみた。「誰かいませんか」
 もちろん叫ぶだけ無駄だった。誰もいるわけがないのだ。暖炉のわきにある柱時計だけがこつこつと時を刻んでいた。
 ほんの何秒かのあいだ、僕の頭が混乱した。暗闇の中で時間が前後し、幾つかの場所が重なりあった。重くるしい感情の記憶が乾いた砂のように崩れた。しかしそれは一瞬のことだった。目を開けるとすべては収まっていた。目の前には奇妙に平板な灰色の空間が広がっているだけだった。  (「村上春樹全作品2」p299)

時間も空間も歪んだような場所に足を踏み入れたとしたら、おそらくこのように感じられるのだろうと思ってしまう。非現実的な空間の中にある、何とも言えずねっとりと重い感触が空間の隅々まで支配している。そこで何が起きても、もはや現実的な空間ではないので不思議ではなくなる。

この作品以降しばしば村上春樹の作品に登場する「異界」は、まさに村上春樹しか描き出せない非現実空間であり、そこでの物語は作品全体の核心部分を形づくっている。ある意味で一番分かりにくい部分でもあるのだが、その分かりにくさというのは、非現実的な「異界」という形でしか描き出せないところから来ているものだろう。しかしそれゆえにまた最も小説的エネルギーの集中する部分でもあり、圧倒的な虚構の力を感じさせる箇所にもなっている。

「鼠」との再会の直前にある鏡の描写はちょっと怖い。村上春樹が本格的にホラー小説を書いたらすごく怖いだろうなと思ってしまうほど怖い。それは夏目漱石の『夢十夜』的な怖さでもある。スプラッター・シーンがあったりゾンビが出てきたりするから怖いというホラーは分かりやすい怖さなので、そのうち馴れてしまう怖さだと思う。しかし『夢十夜』のいくつかの作品や村上春樹がちらりと描く場面にある怖さは、「分かりにくい怖さ」であり、多分に心理的側面に働きかける種類のものである。ある意味では、そちらの方がゾンビやゴーストよりはるかに怖い。

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