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2012年9月13日 (木)

『羊をめぐる冒険』を読む・7

「鼠」の元ガールフレンドとのやり取りで、ハッと考えさせられた箇所がある。

「そしてそこに鼠が現れたんですね?」
「そうよ。でも私はそんな風には呼ばなかったけれど」
「なんて呼んだんですか?」
「名前で呼んだわ。誰だってそうするんじゃない?」
 言われてみればそのとおりだ。鼠というのはあだ名にしても子供っぽすぎる。「そうですね」と僕は言った。  (「村上春樹全作品2」p132)

確かに「言われてみればそのとおりだ。」初期三部作の中では「直子」を除いて他の登場人物は、あだ名で呼ばれるか名前を持たないかどちらかである。だから「名前で呼んだわ」と言われると、当たり前のことなのに、新鮮な感じがする。「鼠」にもちゃんと名前があったのだ。

それにしても初期三部作において、登場人物の名前が出てこないことは徹底している。「鼠」や「ジェイ」はニックネームであり、『1973年のピンボール』に出てくる双子の女の子にいたっては「208」と「209」である。着ているトレーナー・シャツにプリントされている数字で、これでは識別番号である。

どのインタビューだったのか忘れてしまったが、村上春樹自身、登場人物に命名するのが得意ではないと言う趣旨の発言をしていたように記憶している。もっとも作者自身の言葉だから真に受けてはいけないのかもしれないが。

登場人物に名前がついていなくても、ニックネームや識別要素をもとに人物の区別はつく。一般の小説のように、きちんと名前のついた登場人物が多い場合と何がちがってくるのだろう。

名前を持たない登場人物は、どこか輪郭がぼやけた印象になってしまうように感じるのは気のせいだろうか。通行人Aやその他1みたいな、誰とでも交換可能であるような流動性が高くなるためではないかと思うのだが。つまり固有の名前を持つものが、その他とは区別され輪郭をはっきりさせていくのとは逆の作用を及ぼしているように思うのだ。匿名性の持つ汎用性というか、誰でもないから誰でもよい、みたいな感触が出てくるのではないか。

『羊をめぐる冒険』の中でも「名前をめぐる議論」は展開されている。「先生」と呼ばれている右翼の大物のお抱え運転手と「僕」とのやり取りに出てくる。「僕」の飼っている猫に名前がないということについて運転手が感想を述べる。

「でもじっとしてるんじゃなくてある意志をもって動くわけでしょ?意志を持って動くものに名前がないというのはどうも変な気がするな」
「鰯だって意志を持って動いているけど、誰も名前なんてつけないよ」
「だって鰯と人間とのあいだにはまず気持の交流はありませんし、だいいち自分の名前が呼ばれたって理解できませんよ。そりゃまあ、つけるのは勝手ですが」
「ということは意志を持って動き、人間と気持が交流できてしかも聴覚を有する動物が名前をつけられる資格を持っているということになるのかな」
「そういうことですね」運転手は自分で納得したように何度か肯いた。「どうでしょう、私が勝手に名前をつけちゃっていいでしょうか?」  (「村上春樹全作品2」p194)

こうして「僕」の飼っていた猫は「いわし」という名前で呼ばれることになる。この運転手の最初の科白をもじって言えば「意志を持って動く登場人物に名前がないというのはどうも変な気がするな」と私も思うわけである。

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