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2012年8月26日 (日)

『1973年のピンボール』を読む・2

井戸職人のエピソードに続けて「直子」の父親が少し名の知れた仏文学者であったことが語られる。唐突だが、ここで『風の歌を聴け』の「僕」の三人目のガールフレンドのことを思い浮かべる。たしか仏文科の学生で、自ら命を絶った女の子という設定だった。

「直子」もすでに亡くなっている。「僕」が「プラットフォームを縦断する犬」のいる駅を後にして家に帰るところで、

 帰りの電車の中で何度も自分に言いきかせた。全ては終わっちまったんだ。もう忘れろ、と。そのためにここまで来たんじゃないか、と。でも忘れることなんてできなかった。直子を愛していたことも。そして彼女がもう死んでしまったことも。結局のところ何ひとつ終わってはいなかったからだ。(「村上春樹全作品1」p136)

と語られる。しかし、「直子」の物語がここから始まるわけではない。この断片が重ねられた冒頭部分の終わり、「僕」がアパートに帰ると双子の姉妹が迎えてくれる。

 これは「僕」の話であるとともに鼠と呼ばれる男の話である。「僕」たちは七百キロも離れた街に住んでいた。(「村上春樹全作品1」p138)

とあるように、確かにこの先の部分から物語はいきなり回り始める。「僕」と双子の姉妹の物語と「鼠」の物語が交互に語られていくが、それらが直接交わることはない。「僕」と双子の姉妹とピンボールの物語は、「鼠」と彼のガールフレンドと「ジェイズ・バー」のジェイの物語は、平行線を描いたまま最後までまじり合わない。

なぜ「鼠」は「僕」に連絡を取ろうとしないのだろう。ジェイの店の場面を読みながら、なぜここに「僕」がいないのだろう、と思わないわけにはいかなかった。なぜなら、前作『風の歌を聴け』では「僕」と「鼠」とジェイの三者が均衡を保って物語を進めていて、いつも「ジェイズ・バー」が振り出しというか原点のような役割を果たしていたからだ。

ところが『1973年のピンボール』の「ジェイズ・バー」には「僕」の不在による不均衡が生じている。「鼠」はジェイと一対一のまま向き合わなければならない。トリオとデュオの演奏の違いみたいなものか。しかも「鼠」はしばしば閉店直後の「ジェイズ・バー」を訪れる。シャッターを少し押し上げ、閉店後の店で後片付けをしたり、ぼんやりしたりしているジェイの許に「鼠」は姿を見せる。

「鼠」は生きていく上での問題を抱えている。「街」を出て、変わらなければいけないと思っている。だからこそ「僕」に連絡を取るべきではないのかと私などは思ってしまうのだが、「鼠」の意識にはほんのひとかけらもそのような考えは浮かばない。

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コメント

村上春樹の作品分析、興味深く読ませていただいています。
小林先生の醸しだす空気感は、村上文学の切なさや青春の共有感とでも言うべきエッセンスを実に爽やかに表現して、自分の青春時代の空虚感に満ちた(笑い)日々を思い出していました。


【学び舎主人】
金田先生、コメントありがとうございます。

若い頃に読んだままの作品も多かったので、この際、じっくりと村上春樹を読み返してみようと思っています。いざ始めて見ると、まったく覚えていない場面やエピソードがかなりあって、一体何を読んでいたのだろうか、と我ながらあきれてしまいました。

金田先生のコメントにもありましたように、村上春樹の小説には「青春」期とその終わりの微妙な感触があふれていて、忘れてしまった何かに不意打ちされるようなところがありますね。

ブログのネタとしては、結構な回数分になりそうです(笑)。気長にお待ち下さい。

投稿: かねごん | 2012年8月26日 (日) 18時32分

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