« 中島敦『山月記』再読・その3 | トップページ | 海と川と湖と »

2012年5月23日 (水)

中島敦『山月記』再読・おまけ

『山月記』は、主人公の李徴の悲劇的造型から来る「重い」読後感をもたらすが、漢文を訓読したような文体は簡潔であり無駄がない。これ以上余計なものを付け加えようがなく、またこれ以上削りようもないほど完成した世界が築き上げられている。それがこの作品の持つ高雅な魅力の源泉にもなっている。

導入部の簡潔さは巧みである。主人公の李徴の人となりを過不足なく紹介し、虎の身に変わり果てるまでのいきさつが、全体の九分の一の分量で述べられている。この簡潔さは漢文の導入部が持つ簡潔さと同様のものである。

本編の李徴と旧友袁参(正しくはニンベンに参)の再会は、まだ暗い夜明け前から日の出直前までのごく短い時間の出来事である。

次の朝未(ま)だ暗い中に出発しようとしたところ、駅吏が言うことに、これから先の道に人喰虎が出る故、旅人は白昼でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜(よろ)しいでしょうと。袁参は、しかし、供廻りの多勢なのを恃(たの)み、駅吏の言葉を斥(しりぞ)けて、出発した。  (中島敦『山月記』)

さりげなく書かれているけれども、こうでなくては「残月の光をたよりに林中の草地を通って行った時、果して一匹の猛虎が叢の中から躍り出た。」という部分につなげることができない。供廻りが多いからまだ暗い時分でも大丈夫であろうと出発したため、虎となった李徴に遭遇できたのであり、明るくなってからでは李徴が出て来られない。

その後も時間の経過は簡潔、的確に挿み込まれる。たとえば李徴が三十篇の詩を書き取ってもらった後に即興の詩を詠んだところで

時に、残月、光冷(ひや)やかに、白露は地に滋(しげ)く、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。

という一文が入る。それに続く李徴の嘆きの独白が一段落すると

漸く四辺(あたり)の暗さが薄らいで来た。木の間を伝って、何処からか、暁角が哀しげに響き始めた。

と挿み込まれ、別れの時が近づいたことを知らせる。そして終末部分で、袁参に帰途にこの途を通る気を起こさせないようにと、一度だけ李徴が姿を見せるところでも

虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、

という短い描写が、日の昇る直前であることを暗示する。

この再会の場面が、夜半でもなく白昼でもなく黄昏でもなく夜明け前であるのは、巧みな設定である。必然的であるようにさえ思われる。「夜=すっかり虎となった李徴の時間、白昼=人間の時間」と考えれば、夜明け前の暗さが日の出前の明るさへと変わっていく時間は、どちらにも属さない。まさに姿は虎であるが人間の心を失ってしまった訳ではない李徴にふさわしい時間ではないか。

この作品が、やはり珠玉の名作であると感じさせるのは、こうした作品構成のみごとさにも一因があるのではないかとあらためて考えさせられた。

にほんブログ村 教育ブログ 塾・予備校教育へ 教育ブログ 塾・予備校教育

人気ブログランキングへ 人気ブログランキング(教育・学校)

|

« 中島敦『山月記』再読・その3 | トップページ | 海と川と湖と »

読書」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 中島敦『山月記』再読・おまけ:

« 中島敦『山月記』再読・その3 | トップページ | 海と川と湖と »