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2012年5月20日 (日)

中島敦『山月記』再読・その1

高校二年の現代文で初めて読んだときから、既に四十年近くの歳月が過ぎている。この間に『山月記』を読み返したことは、一度や二度ではない。現代文を高校生に指導していた頃は、必ず毎年高二の生徒とともに読み返しては問題を解いたりした。定期試験に向けて現代文を指導する機会がなくなってからも、時折思い出したように読み返すことが多かった。

今年に入り、何がきっかけだったか覚えていないが高二になる息子に、『山月記』の入っている新潮文庫を手渡した。そうだ、同じ文庫に収録されている『弟子』と『名人伝』が面白いから読んでみろと勧めたのだった。

だんだん思い出してきた。漢文で『論語』を習った息子に、孔子の弟子たちを比較した話かなにかのことを訊ねられ、そういえば中島敦の小説に孔子の弟子、特に子路を主人公にした『弟子』という傑作があったなあ、という話になった。そうそう、同じ文庫に入っている、弓の名人紀昌のことを書いた『名人伝』も忘れてはいけない。個人的には『弟子』と『名人伝』のどちらも甲乙つけがたいくらい好きな作品だ。

教室に一冊、昭和四十四年発行・昭和五十二年十五刷の『李陵・山月記』という新潮文庫があるのだが、だいぶ汚れているのと、私自身が時々読み返したいこともあって、息子には帰宅する途中の書店で入手した新版の文庫を渡した。

「読んだか」と問うこともなく、そもそも手渡したことすら忘れていたのだが、先日、帰宅した私に息子が、「そういえば現代文で『山月記』を読み始めたよ」と振ってきた。「ほら、前にもらった文庫にも入ってたよね」と言われて、そうだ渡してあったと思い出し、ちゃんと読んでいたのかと驚きもした。おそらく放り出したまま読まないかもしれないがと思いながら渡したからだ。

渡すときに『山月記』については、あえて何も触れないままにしていた。おそらく現代文の授業で読むことになるであろうし、妙な先入観を与えないでおこうと思ったのだった。そして、『名人伝』や『弟子』とはちょっと違った、『山月記』を特徴づけるある「重さ」が、勧めることをためらわせたのでもあった。『弟子』にしても結末は悲劇的ではあるが、話の主眼がそこではなく孔子と子路の師弟関係にあり、師と弟子とはどういうものかしみじみと伝わってくる良さがある。

それにくらべると、『山月記』は人間の業の深さからくる悲劇とでもいうべきものがあり、それがこの作品の魅力でもあるのだが、どこかズシリと重い読後感をもたらすもとになっている。

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