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2012年5月22日 (火)

中島敦『山月記』再読・その3

今思えば、全く、己(おれ)は、己の有(も)っていた僅かばかりの才能を空費してしまった訳だ。人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡(すべ)てだったのだ。己よりも遙かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。虎となり果てた今、己は漸くそれに気が付いた。  (中島敦『山月記』)

この李徴の独白はズシリと重い。自らの才能を半ば信じながらも、一方で才能が不足していることを恐れるがゆえに、努力して才能を磨くことではなく、何事もなさぬ怠惰へと流れいく。非才であっても専一に磨くことで詩家として名をなすことになった者が幾らでもいる、と言う李徴の言葉は核心を突いている。

誰もが一流になれる訳ではない。しかし、自ら一流にはなれないと思っている人間は永久に一流になることはないだろう。わずかな才能であっても、それを信じて専一に磨く努力の先にしか結果はついてこない。

李徴は身の不運をひとしきり嘆いた後、袁参(正しくはニンベンに参)に自分の妻子が路頭に迷うことのないようにと頼む。しかし、ここでも「自嘲的」な口調になる。

本当は、先ず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ。己(おれ)が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、己(おのれ)の乏しい詩業の方を気にかけている様な男だから、こんな獣に身を堕(おと)すのだ。

この「自嘲」癖も李徴の身を損なってしまった原因の一つだという気がする。自らを嘲ることを重ねていくと末にはどうなるだろう。自分で自分を否定していくことから良い結果は得られない。負の言葉と負の感情が酸のようにその人自身を蝕んでいくだけではないだろうか。

それにしても、と思う。世の中をざっと見渡したとき、自分で自分の道を閉ざしてしまう人のいかに多いことか。不平や不満や、自嘲や自らを損ねる言葉を日々積み重ねて、どんどん後退し、自ら不安と不運を招き寄せてしまうような生き方に陥ってしまう人の方がもしかしたら多いのではないか。

自らを信じ磨き続けることがいかに努力を要することか、と思わずにいられない。自らを信じ切ることができない状態を自ら招き寄せてしまう人間の業のようなものの深さに、めまいがしそうだ。高二のときに受けた深い衝撃の中には、このズシリと重い認識も混じっていたのかもしれない。

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