« 花見はまだか | トップページ | 記憶の外部化・その2 »

2011年3月 5日 (土)

記憶の外部化・その1

入試問題のネット投稿で19歳の浪人生が逮捕されてしまった。2浪できないという重圧は、私も浪人の経験があるので分かるような気がする。しかし、だからといって手段を選ばないということを正当化できるわけではない。不正な手段で合格しようとしたことは本人の弱さによるものだろう。重圧がかかっても、誰もが不正行為に走るとは限らない。

この事件を報じた朝日新聞の関連記事に目が止まった。「ネットと覚えること」について、高校生の感覚を調べたベネッセ教育研究開発センターのアンケート結果である。以下のような数字だという。

  ・ネットで調べられることは無理に覚える必要はない … 7.2%
  ・どちらかといえば無理に覚える必要はない … 27.8%
  ・どちらかといえば無理に覚えておいた方がよい … 48.5%
  ・ネットで調べられることでも覚えておいた方がよい … 15.4%
  ・その他 … 1.1%

「無理に覚える必要はない」を合計すると三割を超える。まだ三割くらいではないか、とタカをくくっていることもできる。だが、そう思っていられるのは今のうちだけではないか。「どちらかといえば無理に覚えておいた方がよい」という割合が今後増加するどころか減少するのではないかと思われるからだ。

少し以前に、大学生がネット上の文章をそのままコピー&ペイストしてレポートを提出して困るという問題が取りざたされたことがあった。ウィキペディアでも何でもネットで簡単に一定内容の知識と情報が得られる時代になった。そのためわざわざ図書館に通って資料を調べまくるという、いってみれば「原始的」な手段に頼らなくてもよくなった。朝日新聞の記事でもこの問題に触れていて、大学側の対抗手段としてネット上の文書をそのまま持ってきたのではないかチェックするソフトがあるのだという。

コンピュータが登場し、記憶という作業から解放され人間は思考することに専念できる。そういう肯定的な側面が盛んに言われてきた。暗記なんかしなくたっていい、それよりも考える力を身につける方が大事だ。そんな掛け声とともにかなりの時間が過ぎてきたように思う。確かにデータベースにアクセスして必要な情報を瞬時に引き出す方が、効率的ではあろう。しかし、それは果たして「知」と呼べるのか。

見つけ出した情報をただ単にコピーして貼り付けることは「引用」ですらない。文献を調べて、それらを参照して自説をまとめることとは似て非なる行為である。文献を調べることは該当する箇所だけを読むわけではない。全体を理解した上で必要箇所を参照部分として取り出してくる。ネット上の文書、たとえばウィキペディアの解説がいくら長くても書籍の分量には比べようもない。

脳に記憶されたデータがどのようなしくみで格納され、必要なときに呼び出されるのか実に不思議である。しかし、蓄積された記憶はその人の「人となり」を作り上げる。その人のその人らしさとは、記憶の蓄積の総体であるとも言えるのではないか。

にほんブログ村 教育ブログ 塾・予備校教育へ 教育ブログ 塾・予備校教育

人気ブログランキングへ 人気ブログランキング(教育・学校)

|

« 花見はまだか | トップページ | 記憶の外部化・その2 »

時事」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 記憶の外部化・その1:

« 花見はまだか | トップページ | 記憶の外部化・その2 »