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2011年2月18日 (金)

読んだけれども分からない

菊地成孔(なるよし)というミュージシャンをご存じだろうか。ジャズ・ミュージシャンであり、作家であり、一時期大学教授もしていたという人物ながら、いたってお気楽な雰囲気の方である。現在は、「菊地成孔Dub Sextet」というバンドや再開した「DATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDEN」というユニット を中心に活動しているらしいのだが、この方の十年間の活動をまとめた『闘争のエチカ』という作品集が出ている。4GBのUSBメモリ2本分に収められた動画と静止画と音楽そしてテキストからなるもののようだ。

このタイトルをどこかで耳にしたことがあるのだが…、と思った。菊地成孔氏が言うには、ある哲学者の著名な本のタイトルからタイトルだけいただきましたという。

それは蓮實重彦と柄谷行人の『闘争のエチカ』(河出書房新社、1988)のことではないか。そういえば、ずいぶん昔に買ったまま長きに渡り「積ん読」状態だった一冊としてうちにもある。その昔、浅田彰が『構造と力』や『逃走論』でニューアカデミズムの旗手として鮮烈なデビューを果たしたころ、難解な現代思想をありがたがって意味もなく買い求めていた時期があった。

『構造と力』や『逃走論』もあるし、丸山圭三郎のソシュールについての諸作やら蓮實重彦の著作の何点かも購入したまま読んでいなかった。既に二十年から三十年以上も過ぎているではないか。長い「積ん読」期間であった。

たまたま『闘争のエチカ』を耳にしたので、この機会に読んでみようと頁をめくった。蓮實重彦と柄谷行人の対話形式で、フランス現代思想を中心にポスト・モダニズムに関する議論が進んでいくのだが、これが皆目理解できない。難解な語句が用いられているわけではない。しかし徹頭徹尾分からない。なぜだろうかと考えるに、扱われている用語の定義が分からないからだと気がついた。たとえば「物語」という用語一つを取っても、これは通常用いられている「物語」という語の意味を包摂しながら、もっと別の意味を持たせて使われている。

それから議論の背景となっている項目への理解が決定的に不足している。新京都学派というのがあるんだ、へええ。とか、え、ヘーゲルもキルケゴールもニーチェも読んでないし、ましてデリダやフーコーやドゥールーズ、ガタリといったフランス現代思想は全く分からん。レヴィ・ストロースの文化人類学とフロイト、ユングの精神分析学については少し聞いたことがあるけれども、やはり読んでいないしなあ。こういう現状である。

したがって蓮實氏と柄谷氏の間で深まっていく議論の肝心の部分が、何を問題としているのか皆目理解できない。最後まで読み通すことはできたが、全く内容が理解できないというのは久々の体験である。たまにこういう読書をしてみるのもいいものである。教科の内容を全く理解できない生徒の気持ちがよく分かる。あまりに分からなかったので、蓮實重彦のほかの著作はどうだったかと思い、『物語批判序説』(中央公論社、1985)も読み始めてみた。こちらはまだ理解できる言葉が並んでいる。が、もしかすると途中から分からない世界になるのかもしれず、楽しみである。

そう言えば中村雄二郎氏による『術語集』という岩波新書のベストセラーも買ってあったはずだなあ。まずは『術語集』を読んでみて、用語の定義を見ていった方がよいのか。

今年は高校生の現代文の需要がほとんどなかったので、国公立の二次試験前にようやくちょっとだけ授業している程度である。それゆえ骨の折れる評論文を相手に格闘しなくてもよかったのだが、いつもこんなふうにお気楽に過ごせるわけでもないので、少しハードな読書にいそしもうかと考えている。

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