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2011年1月 5日 (水)

好きな詩人たち・その1

現代詩の中で好きな詩人を思い浮かべると吉野弘、茨木のり子、黒田三郎といった名前が出てくる。共通しているのは日常に立脚した倫理性だ。彼らの詩には道徳的なことが書かれているわけではない。しかし、詩を読み進めながらいつも倫理ということを考えさせられる。平易な言葉で書かれ日常的な情景を題材としながら、彼らの詩は深く倫理的なものへ切り込んでいる。特に思潮社の現代詩文庫に入っている『吉野弘詩集』は何度読み返したかわからない。

おそらく吉野弘は、倫理的な問題を取り上げたくて詩を書いたのではないだろう。「詩とプロパガンダ」という詩論の中で、吉野自らもそれを戒めている。だが、それにも関わらず吉野弘の一つ一つの詩には高い倫理観が感じられる。それは観念的な倫理観ではなく、地に足のついた日々の暮らしの中で培われた倫理観である。それゆえ、平易な言葉で書かれた詩なのに、限りなく透明で硬質なきらめきが行間にあふれている。これは茨木のり子の詩にも同じようにあてはまることだと思う。

彼女の詩も難しい言葉で書かれているわけではない。平易な言葉で書かれているのに、読むたびに背筋をピンと伸ばさなければいけないような気持ちになる。男性や女性という性別を越えて、人として生きていく姿勢の凛とした強さにハッとさせられるからなのだろう。人として自立した生き方を貫くことが詩の根底に流れていて、ピシピシとその言葉で叱咤激励されているような気持ちになる。何とも言えず爽快な感じのする詩が多い。ここでも作者の高い倫理観が感じられるから一層そのような印象を持つのかもしれない。

一方、詩という形式を通じて日本語の潜在的な力を探究した詩人たちもいる。西脇順三郎や那珂太郎などの名前が浮かんでくる。特に那珂太郎は、意味の呪縛から言葉を解き放ち、きわめて音楽的な、音としての言葉を探究した詩人である。外国語の詩と違い、日本語の詩は韻律のやかましいきまりがない。しかし、逆に韻やリズムに注目して詩の言葉を探究していくと、意味性を突き抜けた不思議な言語空間が広がるのを目の当たりにする。

妙な話になるが、ヒップホップやラップが流行るようになるにつれて、日本語による韻やリズムの探究が進んだのではないかと思ったりする。メッセージ性の強いラップを歌うラッパーもいるのだろうが、それ以上に韻とリズムの方が優先され、日本語がラップに乗るようにさまざま工夫される。那珂太郎の詩を読み返すと、韻やリズムが意味性を越えてしまった現代日本の音楽を自然に連想してしまう。言語実験のような那珂太郎の詩は、だから、今の時点でも有効な試みだったのではないかという気がしている。

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