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2010年7月20日 (火)

ときどき必要なもの

今年度は最初の四半期に寒かったりしたこともあり、体調がすぐれなかった。そういう状態で授業していると、授業の充実感より疲労感の方が大きくなる。体調の悪さは精神的な状態に大きく反映する。だから、六月までの三か月間は、ほとんど手応えの残らない日々の積み重ねだったような感じがする。

七月に入り、暑くなってきた天候に並ぶように体調も上向きになってきた。気力がふたたび満ちてきたように思う。授業が楽しいなという感覚、授業後に感じる充実感、こういうものがしばらく欠けていたことに気付く。

なんだかんだと理屈をつけなくても、単純に授業は楽しいという部分がある。もちろん教える側が楽しくても、必ずしもいい授業とは限らない。生徒にとって分かりやすい授業、いい授業であるという保証はない。しかし、少なくとも教えていて楽しいなとか、面白いなとか思うところがなかったらこの仕事は続けていけない。単なるルーティンワークになってしまい、新鮮さも何もない無味乾燥な授業では教えられる方だってつまらないだろう。

演劇における役者と観客の関係と同じように、教える側と教えられる側の相互作用で授業は成り立つものだから、パフォーマンスの質がよくなかったり、教えている側の楽しさみたいな波動が教えられる側に伝わらなければ、今日は授業を受けてよかったなという感じを持たないだろうと思う。

一人の人間が教えている授業なので、体調や精神状態やその他もろもろの要素に左右される。いつもベストの状態で授業が出来ればいいのだろうが、現実には波がある。いいときも悪いときもある。それでも、ときどき教えることの楽しさみたいなものを味わう日があると、ああやっぱりこういうことがあるからやめられないんだよなと再確認する。自分がなぜ教えることを仕事にしているのか、その根本に「教えることが楽しいから」という気持ちがあることは否めない。

あらゆる物事にとって、最大の敵は「慣れ」である。正確に言えば「慣れ」から来る感覚の鈍磨である。みずみずしい感動や感謝の気持ちや新鮮な驚きが、慣れてくるにつれてどんどん失われていく。目の前にいる一人の生徒は、他のだれとも違うたった一人の生徒である。それなのに過去の経験や似たような事例を重ねて把握してしまうと、それで分かってしまったような気になる。でもそれは何も分かってはいないのだ、実際は。

鈍感になってしまった感覚にヤスリをかけ、新鮮な敏感さを取り戻してくれるものは、授業そのものの楽しさや充実感である。ときどきこういう日があることをつくづく感謝したいと思う。

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