« 村上春樹をめぐる冒険・その2 | トップページ | 綸言汗の如し »

2010年5月28日 (金)

村上春樹をめぐる冒険・その3

もう少し「たわごと」を続けてみよう。村上春樹の作品が、世界の工業化された国々に住む人々に読まれている理由は何だろう。

一つには、いわゆる「日本趣味」的なものが希薄であることが挙げられるのかもしれない。主人公の名前を変えてしまえばどこの国の物語なのか茫漠としてくる無国籍風の小説世界である。土着的なものや固有なものから遠く離れた小説であるがゆえに、世界のあちこちに読者を獲得する。

そういえば思い出した。村上春樹がデビューしたばかりのころ、当時の若手作家を集めて対談させるという文芸誌の特集があった。たしか村上龍、中上健次が出席していたように思う。その席で、何かの拍子に村上龍が、若手の作家を分類して「都会的でかっこいい」作家の中に村上春樹を挙げていたように記憶している。当の村上春樹は出席していなかったはずだ。その発言に中上健次が「じゃあ、おれは地方的でかっこわるい」作家の代表か、と村上龍に喧嘩を売るような発言をしていたように思う。

中上健次が今も健在であったらと、ときどき夢想する。この平成のていたらくを見て、特に小説の凋落ぶりを目にして何と言うだろうかと思うときがある。中上健次は、たしかに村上春樹の対極に位置する作家だったと思う。土着的で、固有性に立脚した「濃い」小説世界こそ中上健次の本領である。ラテンアメリカのいわゆる「マジック・リアリズム」の作家たちにも通じるような、どろりと重いけれど「祝祭的」な感触がある。

固有性、特殊性を追求することで普遍に至る道を探っていたのが中上健次だとすると、村上春樹の小説は最初から普遍的な顔をしている。「どこでもないが、どこでもありうる」世界が読者の前に開かれている。そういう意味で現代的な「世界文学」として受け入れられやすいのかもしれない。

もう一つは、村上作品の底流にある「喪失感」が共感を引き起こすのではないだろうか。イデオロギー対立が冷戦の終結によって収束し、社会主義による社会が崩壊したソ連はもちろんだが、急速に世界市場の中に組み込まれ、資本主義経済の影響を受けるようになった中国の社会でも村上春樹が読まれている。そこには共通の大きな物語が崩壊し、個人が頼りなく世界の中に投げ出されている状況があるのではないか。

イデオロギーが支えていたものが急速に崩れ、それに代わるものは個人個人が自分で調達してくるしかない。そういう状況で、個人がどうやって自分を支えるものを見つけていくのか。宗教でもなく、思想や主義でもなく、個人の魂の救済を何が果たしていくのか。この解答の見つからないような疑問を抱えた人々が、世界のあちこちで村上春樹を読んでいるのではないか。

それにしても、デビューから同時代を共に生き、その作品群をリアルタイムで読むことができる幸運は計り知れないものがある。どのような国内的評価を受けていたのか、世界的にはどういう評価をされていたのか。こうしたものは、後世になれば資料的にたどるしか理解する方法がなくなるものである。『ノルウェイの森』が出たころはこうだったとか、『1Q84』のときは行列ができてニュースにもなったもんだとかいうようなその時のリアルな感触や空気感までは伝わらない。夏目漱石や森鴎外が同時代人だとしたらどうだったろうかと想像してみると、村上春樹の同時代人であることの幸運はよく分かるのではないか。

にほんブログ村 教育ブログ 塾・予備校教育へ 教育ブログ 塾・予備校教育

人気ブログランキングへ 人気ブログランキング(教育・学校)

|

« 村上春樹をめぐる冒険・その2 | トップページ | 綸言汗の如し »

読書」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 村上春樹をめぐる冒険・その3:

« 村上春樹をめぐる冒険・その2 | トップページ | 綸言汗の如し »