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2010年5月25日 (火)

他のだれかではなく

ビデオニュース・ドットコム で無料放送分のストリーミング配信を見ていたとき、ある回で社会学者の宮台真司氏が「社会的流動性」を低くする方向性が必要だという話をしていた。

「社会的流動性」という言葉は耳慣れない言葉と思ったところ、「入れ替え可能性」と言い換えられるような内容のようだ。宮台氏はわかりやすい例を挙げていた。ある女性が自分は「かわいい」から「彼女」として選ばれているのだと考えると、「かわいい」女性は他にもたくさんいるのだから、必ずしも自分でなくてもいいことになる。自分が親にかわいがられているのは親の期待するとおりに動いているからだと考えると、親の期待する行動をする子どもであれば、別に自分でなくてもよいはずだということになる。これと同じように考える人間が増え、それを裏付けするような事態が社会の至るところで起きているため、個人が「不安」から抜け出すことができない。

たとえば非正規雇用で働いている人は、日々自分でなくてもこの仕事はできるという思いを味わい、実際にそれまでの仕事を他の人間に取って代わられたりする。正規雇用の社員にしても、昔のように「いい学校に入り、いい会社に入り、いい人生を送る」という保証が無くなってしまった現在、「入れ替え可能」な自分の立場にどこか不安を感じながら仕事をしているのではないか。

その人がその人として存在しているだけで本当は奇跡的なことだと思うのだが、そういう感触を持ちにくい社会になっているということなのか。個人が個人であることの尊厳はどこにあるのかと考えたとき、他の誰にも代わることができない存在だからという理由が思い浮かぶ。

生きているそれだけで十分あなたには価値があるのであり、あなたという個人であるだけで他の誰でもない、他に代わりのいない存在であるのだ。そういうメッセージが社会の中に響いていない。もしかすると家庭の中にも、そういう意識が共有されていないところがあるのかもしれない。

宮台氏は最近の著作『日本の難点』(幻冬舎新書)の中で、ロストジェネレーションと言われる世代が社会的格差の増大やグローバリゼーションの影響で不本意な生き方をせざるを得なくなったと説明する人々に対し、それは違うと言っている。社会的格差やグローバリゼーションの荒波に個人がむき出しで向き合わなければならないほど、社会に「包摂性」が無くなっているからなのだという。社会的格差やグローバリゼーションごときで個人がダメにならないよう支えるべき社会自体が自立していないと述べている。

進路を考えるとき、ただ「進学先」を選ぶのではなく、その先どうするのか、何を自分の専門として深くやっていくのか、そういう意識はこれからますます必要になってくるかもしれない。単なる序列競争ではなく、何があっても自分を支えていけるものを自分の中に作ること、自分の尊厳を維持できる「場」をいくつか持っておくこと。そういう戦略を持つことの大切さはこれからも続くのだと思う。

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