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2010年4月10日 (土)

圓生的志ん生的・番外編

ここのところ四ヶ月以上、通勤、帰宅時の車の中は圓生独演会である。たまにキース・ジャレットのソロ・コンサートを気分転換にすることはあるものの、ほぼ毎日圓生師匠の出囃子を聞き、圓生師匠の声に耳を傾けてきた。

何度聴いても六代目圓生師匠の噺はうまい。きちんとした骨格に、手を抜くことなく細部を埋めて一つの世界を造り上げていく。なんとも言えず心地よい声の響きで言葉は明瞭に意味を伝えてくる。

何にもない空間に、若旦那の顔が浮かび、番頭の声がし、幇間のヘッヘッヘというへつらい笑いが響く。子どもが走り回り、おカミさんが叫び、吉原の花魁(おいらん)が呼びかける。

正確この上ない描写は、時につまらない印象さえ与えるかもしれない。あまりにも技術が高すぎて当たり前にしか聞こえないが、実際には到達不可能であろう高みにその芸は達している。

八代目桂文楽、六代目三遊亭圓生という流れは落語の一つの完成形であり、これ以上のところが考えられない究極の姿であると思う。一人芝居の日本的完成形が落語という話芸なのだとつくづく感じさせられる。

この圓生師匠の完璧さと並び得るのはやはり五代目古今亭志ん生師匠の天衣無縫のバカバカしさだろう。あまりのナンセンスぶりに笑うしかない笑いが、志ん生師匠の噺を聴いていると引き出される。

たとえば、昔は「四貫相場に米八斗」と言って四貫あれば米が八斗買えたんです、と物価の安さを取り上げ、「今聞くとハッとする」などという親父ギャグみたいなことを平気で口にする。続けて、履き物なんてのも安かったですよ。三文も出せば上等な履き物が二つも買えた。えー、「二足」三文てぇ言いますから。これじゃまるで林家三平師匠の「元日にお坊さんが二人やってきたんです。和尚がツーって」のレベルではないか。

圓生師匠のきっちりした落語の合間に志ん生師匠の天衣無縫な噺を聞くと、落語っておもしろいなあと心底思う。くだらないギャグにしか思えないようなことが志ん生師匠の「間」で語られると、何とも言えずおかしい。あまりのバカバカしさに笑わずにはいられない。これはこれで楽しいのである。

意味の呪縛みたいなものからあっさりと解放された気持ちよさ、とでも言ったらいいのか。他の落語家が同じようなマクラやくすぐりを入れてもサッパリおもしろくないかもしれないが、志ん生師匠だからおかしいというものなのかもしれない。

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