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2010年1月17日 (日)

圓生的、志ん生的・その3

前回、六代目三遊亭圓生の「寝床」は一眼レフカメラで撮った写真、五代目古今亭志ん生のそれをカメラを向けている対象が別のものになってしまった写真に喩えてみた。別の言い方をすると圓生師匠の噺は写実的であり演劇的でありリアルである。一方の志ん生師匠は戯画的であり漫談的でありギャグマンガのような噺だと言える。

圓生の噺は「理」が勝っていると前々回に評した。だから良くないと言いたいわけではない。ストーリーや演劇的構成、人物設定に破綻がないという意味でそう書いたのである。整合性とか全体のバランスがみごとに取れている圓生の噺は、それだけで一つの完成した小宇宙である。

それはくり返し鑑賞されることに耐え得る落語の究極の形である。そういう意味で圓生の噺は「閉じている」のであり「内側に向いて」いるのである。静的であり安定していて聞く者を裏切らない。おそらく、八代目桂文楽や三代目古今亭志ん朝の噺とともに、「古典」としての落語を語るときの具体例としてこの先も引用され続けていく話芸である。

それからすると五代目古今亭志ん生の噺には不思議な感触がある。ラフスケッチの魅力と言えばよいか。細部まできちんと描き込んでいないのに、不思議に噺の全体像がしっかり印象に残る。

描き込んでいない「のに」と言ったが、描き込んでいない「ゆえに」であるのかもしれない。粗くざっと描かれたデッサンを見て、見る側がディテールを補足し色彩を付け加え完成した形にして受け取っているから、しっかりと噺のイメージがつかめるのではないか。余白の魅力ということを強く感じる。

「外側」に向けて「開かれている」志ん生の噺の飛躍や突拍子なさは妙に心地よく感じられる。五代目志ん生の笑いはある意味シュールでさえある。「大きいナスの夢見たって言うけど、どれくれえ大きいんだ。この長屋くれえのナスか」「もっと大きい」「この町内くれえか」「もっと大きい」「どのくれえ大きいんでえ、一体」「暗闇にヘタをつけたくれえ大きい」。シュールである。暗闇にヘタをつけたようなナス…、の夢である。宇宙規模の暗黒をイメージさせるナス。実にシュールな笑いだ。

もしかすると五代目古今亭志ん生の噺の方が普遍性を持つかもしれない。動的で不安定で飛躍があるゆえに、「古典」という枠に納まりきらない。もちろん噺のマクラやその内容がすでに理解不能な事物を内包してはいるのだが、見かけ上の古さを突き抜ける運動体としての「速さ」を備えている。光が一瞬で数十万km先へ到達するように志ん生の噺の本質はこれから何十年経っても伝わるような気がする。そこにあるものが究極の自在形、精神の自在形だからだ。

「完成した」という形容は志ん生の噺には合わない。完成を目指すことなく変幻自在に姿を変えてあちこちへ出没する「志ん生的なるもの」。それはシュールであり、いつまで経っても古くならない笑いである。

正統であり権威ですらある六代目圓生に対し、五代目志ん生は落語の世界のトリックスターと言えるのではないだろうか。

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