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2010年1月15日 (金)

圓生的、志ん生的・その1

昨年の暮れから通勤と帰宅の移動時に車の中で六代目三遊亭圓生師匠の噺を延々と聞いている。五代目古今亭志ん生師匠も演じた噺の数が多いが、圓生師匠はそれをはるかに上回るのではなかろうか。しかも長い噺が多い。人情噺と怪談噺が多いからだろう。

ふつう五代目古今亭志ん生と並べて論じられるのは八代目桂文楽師匠で六代目圓生ではない。しかし八代目文楽より六代目圓生とくらべた方が五代目志ん生の芸風が際立つように思えてきた。

端的に言えばこうである。六代目圓生の「陰」に対し、五代目志ん生の「陽」。といっても怪談噺や因縁噺が多いから「陰」というわけではない。語りそのものの「質感」の違いとでも言えばよいか。内側へ向かい閉じられていく圓生に対し、外側へ開かれていく志ん生。きちんと寸法を測り計算し構築された大伽藍のような圓生の噺と、行き当たりばったりで無計画の極みのようなそれでいて天衣無縫の自在さを持つ志ん生の噺。異質さ、対極性ということで言えば文楽より圓生の方に強いコントラストを感じる。

この三者はいずれも「昭和の名人」と呼ばれた噺家である。従来文楽師匠と志ん生師匠の対比のみが取り上げられ、圓生師匠と志ん生師匠の比較が試みられたことがあるのかどうか分からない。立川談志師匠は若い頃の「ひとり会」で、この三者に自分の師匠の五代目柳家小さん師匠を加えて「高座版現代落語論」として語っていたことがある。しかし故人となった平岡正明氏の『志ん生的、文楽的』に代表されるように、志ん生の対極は文楽であるというとらえ方が一般的なのではないだろうか。

八代目文楽師匠の噺は確かに完成度が高い。極端に持ちネタが少なかったのも、一つの噺をこれ以上ないと思われるところまで完璧に磨き上げたからだろう。代表的な「明烏」などの録音を聞いてもマクラからサゲまでほぼ同じ展開で口演時間もほとんどいっしょという正確さで驚く。それでいながら文楽師匠の話は志ん生師匠の語り口にも通じるようなある種の「のびやかさ」がある。「夢の酒」などに顕著だが大店の泰然としておおらかな気分がよく出ている。五代目志ん生の噺で徹底的にいためつけられる幇間も、八代目文楽の噺ではいたぶられながらもどこか好意的に描かれていたりする。

つまり文楽の噺は確かに志ん生のような天衣無縫さ、いわゆる「ぞろっぺい」なところは全くないのだが、その噺から受ける印象は志ん生の噺が持つ「陽気さ」に通底している。文楽の噺も「陽」なのだ。完璧な話芸でありながら柔らかい感触にふっとくるまれてしまうような心地よさがある。志ん生はいい加減さの極致にあるようでいて、その自在さゆえにやはり同様の柔らかい感触が聞く者を包み込む。二人とも「理」の勝ったところがないのだとも言える。人の情の機微、科白のやりとりのなんとも言えないおかしさ、そういう「情」の部分に訴えかける心地よさのようなものがどちらの噺にもあるような気がする。だから芸風は対極でありながら、生涯仲の良い友だちどうしであったというのもうなずける。

この二人に対し圓生師匠が対照的であるのは、やはり「理」が勝っている印象を受けるからであろうか。圓生の噺では「全て」が細部にいたるまで語り尽くされる。その語りによって構築された世界は寸分のゆがみもない完璧で緻密な建造物である。もっとはっきり言えば圓生がその噺で追求していたものは歌舞伎に匹敵する「演劇性」だったのではないか。それは人情話や怪談噺だけでなく、軽い落とし噺においてさえもそうだった。完璧な「一人芝居」としての落語。これを目指していた点が志ん生、文楽との相違となっていったのではないか。演劇性ということで言えば、八代目林家正蔵(彦六)師匠の世界に同質性を感じる。

どうも長くなりそうな気配なので、続きは次回に持ち越したい。

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