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2009年12月 8日 (火)

やはり、そうなんだ・その2

今年亡くなった三遊亭圓楽さんの師匠にあたる、六代目三遊亭圓生さんが自らの半生を語った「寄席育ち」というロング・トークを聞いた。

六代目三遊亭圓生師匠といえば、「昭和の名人」と言われた落語界の大看板である。五代目古今亭志ん生さんや八代目桂文楽さんとともに昭和の黄金期を築いた一人である。

ところが自分の半生を語った「寄席育ち」を聞いてみると、つくづく人生は分からないものだと思う。もともと圓生師匠は子ども義太夫語りとして演芸場の舞台に立ち、将来は「太夫」になるものと期待されていたという。出身も東京ではなく大阪であった。てっきり江戸っ子だとばかり思っていた。道理で「三十石」や「御神酒徳利」など上方が舞台の噺で関西の言葉がうまいわけだ。

それがふとしたことがきっかけで病気をしてしまい、このまま義太夫で無理な声を出し続けていると長く生きられないかもしれないと医者に告げられる。そこで別の道を考えなければならなくなり、選んだのが落語家。義太夫語りとして寄席に出ていた頃に舞台の袖で落語を聞いて面白いなあと子ども心に魅力を感じていたらしい。

落語の師匠のところへ入門するといきなり二つ目となる。本来は前座から修行しなければならないのだが、子ども義太夫語りとしての芸歴があるし、落語の噺をたくさん聞いて覚えていたからということのようだ。実際、義太夫語りの頃に舞台の穴を埋めるために代役で短い落語を演じ、拍手喝采を受けたこともあったという。

この二つ目になって師匠のところへ落語の稽古に行ったときの話が興味深い。どういう稽古をするのかと思ったら、まず一日目は師匠の噺を黙って聞く。二日目も三日目も同じ噺をじっと聞く。四日目に師匠から、「じゃあ、お前やってごらん」と言われ自分が一席演じるという稽古だったようだ。もし四日目にできないと師匠から長々と説教される。三拝九拝してもう一度お願いしますと頼み込み、あと一回だけ師匠に手本を演じてもらう。それでも次の五日目にできなければ二度とその噺は教えてもらえない。そういう稽古だったという。

「今の人にそんなことを求めても、とても出来ませんねえ。でも、あたしらの頃はそれが当たり前で、一人前の噺家として飯を食べていくのだからプロとしてそれくらい出来なければいけないと思っておりました」そう圓生師匠は語る。続けて「厳しさ」が芸事には必要だと言う。厳しく稽古すれば人間というものはその厳しさについてくるもので、楽にすれば結局ものにならず楽な方にばかり流れていく。

落語に対するそういう厳しさもあって「昭和の名人」と言われた圓生師匠にも、落語で悩んだ時期があったそうだ。落語の噺は子どもの頃からたくさん聞いて覚えているのだが、三十を過ぎたあたり、自分の落語はうまくないどころかまずい落語だと思っていたらしい。先代の五代目からも「お前の落語はまずい」としょっちゅう言われ、一時落語家を辞めて踊りの師匠を目指そうと本格的に稽古を受けたことがあったそうだ。ところが継父の五代目が急死し、自分が六代目をついで一家の暮らしを支えなければならなくなり、落語家としての道に再び戻ったのだという。

転機は五代目古今亭志ん生師匠と満州慰問に行き苦労して帰国したことで訪れた。自分ではうまくなったとは思わなかったが、周囲から「芸に深みがでてきた」と言われるようになった。戦後の混乱期に苦労して日本に引き揚げてくるときのさまざまな経験が、芸に奥行きを与えるようになったのだろう。

六代目圓生師匠の演目は数多い。どの噺もじっくりと噺の面白さが味わえる。「御神酒徳利」や「首提灯」などを聴くと情景描写の的確さに舌を巻く。しかし、やはりなんといっても三遊亭圓朝師作の人情噺を演じたものがいい。落語という話芸の一つの頂点だと思う。派手な演出があるわけでもなく、むしろ淡々と語られていくのだが、時間が経てば経つほど噺が圓生師匠の「声」とともに耳に残っていることに気づかされて驚く。一つの道を「厳しく」追求した人だから達することが出来た高みがそこにあるのだと思う。

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