« 本田先生のCDを申し込みました | トップページ | 北方謙三『楊令伝』雑感 »

2009年12月16日 (水)

架空対談:藤原経清氏と振り返る「前九年の役」・その13

(「架空対談」の全文はこちら
(前九年の役の概略は「架空対談をお楽しみいただくために」をご覧下さい)

学び舎:前回に引き続き厨川柵の決戦について経清さんと宗任さんをお招きしてお話を伺いたいと思います。どうぞ、よろしくお願いします。
経清 :こちらこそ。
宗任 :今日は早いじゃないの。
学び舎:前回までの間隔が長すぎたものですから。
宗任 :ふーん。ま、いいや。で、どこからだっけ?
学び舎:ええと、旧暦九月十六日の国府軍の攻撃からです。
宗任 :んーと、一日中攻められたけどこちらはほとんど被害を受けなかったってえ話からだな。
学び舎:そうです。

宗任 :ところがな、翌日の九月十七日の昼を過ぎてからだよ、動きがあったのは。
経清 :そうでした。源頼義将軍は、村々に入って家を壊してそれを運び込み空堀を埋めるよう士卒に命じました。一方ですすきを刈り取り数カ所に積み上げさせてもいました。
宗任 :空堀を埋め始めたところでまずいなとは思った。だけどよ、柵から出て行くわけにもいかねえしな。
経清 :そうこうしていると、頼義将軍は八幡神に祈ってすすきの山に火をつけました。折からの風にあおられ煙と炎が高く立ち上り、それが風に乗って柵の面にささった矢羽に燃え移りました。柵には一面に矢が刺さっていましたから燃え始めると一気に火の手が上がったのです。
学び舎:火攻めに対する手だてはなかったのですか?
経清 :手桶で水を上からかけたりはしたのですが、火の勢いの方が強くてとても間に合いませんでした。

宗任 :そうなってからは大騒ぎよ。あちこちから悲鳴は上がるわ、淵に身を投げる者や自害する者も出てきた。
学び舎:国府軍が埋めた空堀を越えて柵に押し寄せてきたわけですね。
経清 :そうです。やむなく我々は嫗戸(うばと)柵へ籠もろうと考えたのですが、座して死を待つよりはと決死の覚悟を決めた者たちが国府軍に向かって猛然と攻め込みました。
宗任 :命を無駄にするなと止めたんだがな。奴らは奴らで死に場所を求めようとしていたのさ。
学び舎:実際、この決死隊の攻撃で国府側に死傷者がたくさん出ていますね。
宗任 :死ぬつもりで当たっていたからな。ところが、清原武則の計略にはまってしまった。
学び舎:というと。
経清 :武則殿は軍略に通じた方だから、決死の兵に当たっても勝てないことは分かっていたようです。そこでわざと囲みを解いたのです。それまでは死ぬことしか考えていなかった決死隊の中に、もしかしたら脱出できるかもしれないという甘い考えを持つ者が出始めました。
宗任 :そうなると、もろいもんさ。あっという間に包み込まれて討ち死にというわけだ。少しでも助かりたいという気持ちがアダになったんだ。

学び舎:安倍氏の主だった人々はみな嫗戸柵に籠もったのですか。
宗任 :貞任兄貴と、重任、家任、則任たちはおれたちと一緒だった。正任は、そもそも厨川の決戦の前に叔父貴と出羽へ逃げていたから、その場にいなかったしな。
経清 :前にも話しましたように、正任殿と良昭殿は清原頼遠殿を頼って出羽へ行かれました。
学び舎:もしかして、それは厨川柵陥落後の拠点づくりですか。
経清 :貞任殿が指示していたようです。小松柵を落とされた後、厨川柵まで国府の軍勢が攻め込んできたらどうするかを貞任殿は考えておられました。貞任殿自身は厨川柵と命運をともにするつもりでいたようですが、一族の中で生き残った者が安倍氏に手を貸してくれる勢力を集めて抵抗を続ければいいという考えも一方では持っていました。
宗任 :ある時な、兄貴に言われたんだよ。自分がこの戦の原因を作ってみんなを巻き込んでしまったのだから、生き残るつもりはない。厨川まで攻め込まれたら柵とともに討ち死にする覚悟でいる。だけど、おれや他の弟たちは残る必要はないと言われた。逃げて再起を図れということさ、経清の言う通り。
経清 :貞任殿には一族の方々をこの戦に巻き込んだことに対する自責の念がいつもあったようです。
宗任 :兄貴には気にすんなって言ってたんだけどな。そもそも、おれたちと権守(ごんのかみ)説貞(ときさだ)のせがれの光貞や元貞たちとは反りが合わなかったんだし、いつかぶつかることになるってえのは分かっていたことだ。たまたま頼義のおっさんがいるうちに戦が始まっちまったから、おれたちは国府軍に弓を引いた賊軍ということになってしまったがな。
経清 :そこが貞任殿の頭領たるゆえんでしょう。最後は自分の身一つで全てを受ければいいとお考えのようだった。

学び舎:他の兄弟の間で、意見の違いはなかったのですか。
宗任 :あったよ。重任は貞任兄貴に似たところがあって融通がきかねえ野郎だ。自分も貞任兄貴と最後まで戦うと言って譲らなかった。家任は鳥海弥三郎っていう字(あざな)があることでも分かるだろうが、おれと似ている。口先でぱあぱあ言うが、生き延びてやろうじゃねえかという気持ちも強かった。
経清 :則任殿が一番不憫でした。
宗任 :ああ、則任なあ。そうなんだよな。あいつはどういうわけか兄弟の中で一番線が細かった。おれや家任みたいにヘラヘラしているわけでもないし、かといって貞任兄貴や重任みたいに頑固なわけでもなかった。もっとも、カミさんをもらって間もないし、子どもも生まれたばかりだったからな。分からないわけじゃねえや。
経清 :厨川柵の破られるとき、則任殿の奥方は「自分一人だけ生きることはできないから則任殿の前で死なせてほしい」と乳飲み子を抱きかかえたまま深い淵に身を投げられたと聞きました。
宗任 :その後だよ、則任がふぬけのようになったのは。嫗戸柵が破られるとき必死の思いで抜け出したのに、ふらっと行方をくらましたかと思ったら坊主になりやがった。目が虚ろだったからよ、則任から目を離すなよと配下の者には言い聞かせてあったんだが、いつの間にかいなくなっていた。後で則任の従者に聞いたら、寺に籠もってカミさんや子どもに経を上げていたらしい。出家なんぞしたって浮かばれるわけねえじゃねえか。馬鹿だよ、あいつは。
経清 :お若いだけに則任殿の苦悩も深かったのでしょう。

学び舎:では、厨川柵の決戦の続きは次回にまたお願いしますので、今日はここまででよろしいでしょうか。
宗任 :なるべく間を空けずに呼んでくれよ。ダレちまうからな。
経清 :それではまた、次回に。

にほんブログ村 教育ブログ 塾・予備校教育へ 教育ブログ 塾・予備校教育

学生広場へ 学生広場

人気ブログランキングへ 人気ブログランキング(教育・学校)

|

« 本田先生のCDを申し込みました | トップページ | 北方謙三『楊令伝』雑感 »

架空対談」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 架空対談:藤原経清氏と振り返る「前九年の役」・その13:

« 本田先生のCDを申し込みました | トップページ | 北方謙三『楊令伝』雑感 »