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2009年11月 4日 (水)

落語熱再発

このところ行き帰りの車の中も、生徒が帰った後の教室でも暇さえあれば落語を聴いている。どうも寒くなってくると落語がやたらと聴きたくなってくる。夏の暑い盛りは怪談噺のようなゾッとするものはよく聴くのだが、他の噺はあまり熱心に聴かない。

秋が深まって夜の寒さがしみるようになるあたりから、そろそろ今年も落語シーズン到来だなと一人で悦に入る。秋の夜長に一人落語に耳を傾けていると、季節の移り変わりやら、来し方行く末やら、今年も一年終わるなあといった感慨やらが自然にわいていくるから不思議なものだ。あくまでも個人的な感じ方だとは思うが。

最近、再聴しているのは五代目古今亭志ん生、十代目金原亭馬生、三代目古今亭志ん朝の一家がそれぞれ演じた噺である。父親の志ん生の声と息子たちの馬生、志ん朝の声がよく似ていることに当たり前の話なのだが、驚いてしまう。

それぞれ違った芸風で、「ぞろっぺいな」と形容される志ん生の噺は実にいい加減な感じがするのだが、絶妙な「間」はだれにも真似できない。長男の馬生は、地味ではあるがじっくり聴かせるいぶし銀のような味わいがある。さりげない噺がことにいい。次男の志ん朝は華やかな明るい芸風だ。語りだした途端にパッと場の空気が明るくなる感じがする。こうして比べてみると、親子兄弟でありながらそれぞれの持つ「個」の魅力というものは、さまざまなものなのだなあと思う。

ふと妙なことを考えたのだが、この三人で落語芝居のような競演を企画したらどういう配役になるのだろうか。たとえば父親の志ん生はぼうっとした与太郎、長屋にいる海苔屋の婆、そそっかしい八五郎。長男の馬生は、大店の大旦那、長屋の家主、ご隠居さん、熊五郎。次男の志ん朝は若旦那、鳶の頭、大工の棟梁、金坊。こんな配役で演じてもらえたら、落語好きにはたまらんだろうなあ。

「大工調べ」なんかで、棟梁の政五郎(志ん朝)が与太郎(志ん生)を訪ねてきて、「おう、与太。おめえこのごろ顔を見せねえがどうした」「棟梁の前だけど、道具箱がねえんだ」というやりとり。長屋の大家(馬生)の所に与太郎が行って「道具箱返せ」「店賃を持ってきたら、返してやるよ」「店賃は、ここにあらあ」と政五郎から借りた一両を大家に投げつけるが、「おい、ばあさんやその辺に八百ばかり飛んでいきやしないかい。与太郎、八百文足りないな」「八百ばかりはあたぼうだ」「何だ、そのあたぼうてのは」「あたりめえだ、べらぼうめを詰めてあたぼうってんだ」と言う与太郎に大家はカンカンになって怒る。

政五郎(志ん朝)がしょうがねえなあと言いながら、与太郎(志ん生)を連れて大家(馬生)の所へわびを入れに来る。「すみませんねえ、大家さん。この馬鹿野郎のことでいつもご迷惑をおかけして」「八百文出しゃ、道具箱を返してやるよ」「それが一両っきりしかねえんですよ。わずか八百ばかりのことですから、返してやってくださいよ」「気に入らないね。お前さんには、わずか八百かもしれないが、あたしにとっちゃわずかなんてもんじゃない。びた一文かけても道具箱は渡せないね」と因業な大家。政五郎は堪忍袋の緒が切れて、「いらねえや」の一喝とともに、大家に威勢のいい啖呵を浴びせかける。ここはやっぱり活きのいい志ん朝の啖呵が聴きたい。

とまあ、現実には不可能な企画だけに自分の想像の中だけで楽しむしかない。馬生の大家は少し因業さが足りないかもしれないが、芸達者な人だからうまく演じてくれると思う。与太郎のとぼけた感じはやはり志ん生だろう。

どうもますます落語熱が高じそうだ。

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