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2009年10月28日 (水)

読書週間に入ったのですか

読書週間がくると、ブログを書き始めた二年前を思い出す。もうじき丸二年ということになるが、記事数は少ない。始めてから一年半ほどの間、一ヶ月に数本しか記事を更新しなかった。

今年の3月中旬から毎日更新するようになり、この半年ちょっとの期間でそれまでの記事数の2倍以上を書いている。書き続けることは、思っていたより大変なことだと分かったが、同時にやろうと思えばできることなのだということも分かった。要するに、毎日書くと心に決めてしまうかどうかなのだろう。

さて、読書週間に入ったものの、相変わらず平行して読んでいるものが読み終わらず、何か読書メモ風に書くのもおこがましいのだが、いくつか挙げてみたい。

まず、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟 1」。光文社古典新訳文庫から出ている例の亀山郁夫新訳のものである。数年前に話題が盛り上がったと記憶している。ブームは一段落したと思うので、じっくり読もうと今年に入ってから読み始めた。「カラマーゾフ」は30年ぶりである。学生の頃、新潮文庫に入っていたドストエフスキーを全巻読んだ。たしか江川卓訳だったと思う。米川正夫訳がそれまでの定番ではなかったか。たぶん全集の翻訳者はそうだったはずだ。私は新潮文庫から入ったので、江川訳でドストエフスキーの世界になじんでいった。

「カラマーゾフの兄弟」の亀山氏による新訳が面白いらしいと巷で噂になっていたのは知っていた。しかし、ベストセラーやブームになっているものは、村上春樹は別として滅多に手を出さないことにしているので、ブームが過ぎるまで読んでみようという気にならなかった。こういうへそ曲がりなので、どの程度の出来なのだろうかと値踏みするようなつもりで読み始めた。

正直驚いた。学生の頃に読んだ「カラマーゾフ」とイメージが違う。しかし、より登場人物の輪郭がはっきりした。身近に感じられる。訳語の新しさもあるのだが、それだけではない。江川訳にあったロシア文学の重厚さの圧力があまり感じられないからだろうか。いい意味で「軽い」のだと思う。その分だけ、ぐいぐい引きずり込まれるような物語の迫力は薄れているような気もするが、まだ第1巻だからなのか。

学生の時に「カラマーゾフ」を読み終えたときは、大きな感慨があった。新潮文庫に入っているドストエフスキーの作品の最後を締めくくるものとして、読み終わるのが惜しいような、それでいて先を急ぎたくなるような相反する気持ちにせかされて、一気に読み通した記憶がある。そのときはドストエフスキーの到達点まで伴走したような感慨を味わった。アリョーシャことアレクセイ・カラマーゾフという青年を造形できたドストエフスキーは幸運だとも思った。

坂口安吾は太宰治の死にふれて、芥川や太宰は体が弱かったから最後まで持たなかったんだ、ドストエフスキーは最後の最後でアリョーシャという人物を生み出すことができたからようやく間に合ったという趣旨の文を書いている。魂の救済、安吾はそれを言いたかったんだろう、おそらく。

ただ、学生の時は一気に読んでしまったがゆえに見落としていたものがたくさんあったのだなと今回読み返して思い知らされた。フョードル・カラマーゾフという父親、長兄のドミートリー、次兄のイワンそれぞれの人物像が実に興味深い。いや主役級の人物だけではない、脇を固めている登場人物の造形もなんと興味深くなされていることか。

まだ、第1巻しか読み終えていないので、残りの巻を一つずつじっくりと読み味わってみたいと考えている。

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