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2009年9月26日 (土)

見たいものは何?

物事を楽観的にとらえる人がいる。一方で悲観的に見る人もいる。どういうものの見方であれ、それらはみな、その人自身が見たいと思っている通りに見えているのではないか。

育っていく環境や後から学んだことやさまざまなことが、その人の物事を見る目にフィルターをかける。私が見ている物事は、私がそのように見たいと思っている物事のありようなのだし、あなたが見ている物事はあなたが見たいと思っている物事なのだと思う。だから、同じ物事を見ても人の受け止め方は千差万別だ。

客観的に公平無私に見る、といってもそれはあくまでもそういう意識で見るというだけで純粋に客観的に、公平無私に見るということはあり得ない。その人の中で「客観的」「公平無私」だと思っている見方で見ているに過ぎない。

それぞれのフィルターを通して物事を見ているわけだから、それぞれの持っているものの見方が大きく見え方に作用する。靴のセールスマンの有名な話がある。

アフリカに靴を売りに来た二人のセールスマンが、現地の人々を見て全く異なる反応をする。一人のセールスマンは大急ぎで本社に電話し、「大至急商品を追加で送って下さい。ここの人たちはみな裸足で暮らしてますから、うちの靴がバンバン売れます」と連絡する。もう一人のセールスマンは悲痛な声で電話し、「だめです。ここの人たちはみな裸足で暮らしてますから、靴を買ってくれそうな人は一人もありません」と本社の担当者に泣きついたという話。

これは実話とは思われないが、物事の見方の違いでどういう行動に結びつくかということの分かりやすいたとえ話になっていると思う。現地の人たちが裸足で暮らしているという事実は同じなのに、一方は肯定的に、もう一方は否定的にとらえて全く正反対の行動を取る。実際に靴が売れるのか、それとも売れないのかはやってみなければ分からない。しかし、行動に移る前にだめだと思ってしまう後者のセールスマンが、一足も靴を売れないだろうというのは明らかだ。前者の場合は売れるだろと強く確信しているのだから、多少売れ行きが悪くても全くめげることなくきっと売れる、きっと売れるとあちらこちらに売りに行き、実際に売ってしまうだろうということが予想される。

そうなればいいなと思う結果を、確信的に持っているかどうかの違いということになるのだろう。だからその人が見たい通りにしか物事はとらえられない、ということになるのでもある。

「おもしろきこともなき世の中をおもしろくすみなすものは心なりけり」とは高杉晋作の辞世の上の句に野村望東尼が下の句を付けたとものだと言われているが、全くその通りなのだ。面白いこと、面白くないことが初めからあるのではない。面白がるから面白いのであるし、面白くないと思うから面白くないのだ。最初からつまらないという前提で物事を見てしまったら全てがつまらなくなってしまう。

同じことなら肯定的に、楽観的に物事を見ていきたいものだと思っている。

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