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2009年8月25日 (火)

『坊っちゃん』を読み返す・その2

きのうに続き、『坊っちゃん』の読み返しの話。

さて、マドンナにポイントがあると書いたが、どういうことか。マドンナは昨日の記事でも触れたように、人々の会話の中に登場することは多いのに実際の描写は一箇所しかない。「ハイカラ頭」の「色の白い」美人であるということから洋装の女性だろうと思われる。

このマドンナという存在が象徴しているのは、漱石の目に映った当時の「日本」の姿なのではないか。終盤で日露戦争の祝勝会の場面があることから、明治38年ころに年代が設定されていると分かる。維新から四十年近く経っているわけだ。日本が急速に近代化を推し進め、日清・日露の戦争を通じて産業革命が進行していく時期である。人々の暮らしにも「近代化=洋風化」が定着していく。

坊っちゃんが新たに下宿することになった萩野家のおばあさんの話をまとめると、マドンナは「遠山の御嬢さん」で、うらなり君こと古賀さんの所へ嫁に行く約束ができていたらしい。それが古賀さんのお父さんが亡くなって急に暮らし向きが思わしくなくなり、お輿入れが延びている所へ、教頭が出てきてぜひお嫁にほしいということになったという。

近代洋風文化を受け入れ変わっていく「日本」。それがマドンナの姿に象徴的に表されているように思う。教頭の赤シャツは、あだ名のもとになった「赤シャツ」から分かるように洋服をいつも着ている。洋風に染まりきっている人物である。うらなり君を捨てて赤シャツになびいたマドンナは、江戸時代から続いていた日本の文化をすてて洋風に飛びついた日本の姿そのものだ。

坊っちゃんの義憤は、マドンナを嫁にしようと思っている一方で「小鈴(こすず)」という芸者ともつき合っている赤シャツのダブルスタンダードに向けられている。建前としては洋風文化、本音としては従来の日本文化。こういう使い分けがいかにも欺瞞に満ちたものに思えてならなかったのではないか。

マドンナや赤シャツに向けられた憤りとは逆に、坊っちゃんが恋しく思う下女の「清(きよ)」は没落した「士族」の出であるように設定されている。伊予での不愉快な思いがつのるたびに、坊っちゃんが恋しく思い出すのは、この清のことであり東京のことである。古き良き江戸の日本。坊っちゃんは年齢からして維新後の生まれで江戸時代は体験していないわけだが、「旗本」だった父親を持っていることから江戸の遺風の中に成長したと想定できる。

しかし、その清も坊っちゃんが東京に戻って迎え入れてから間もなく亡くなってしまう。つまり『坊っちゃん』という話は、清が亡くなってから坊っちゃんが回想しているという設定で書かれているのだ。せっかく東京へ帰ってきたのに、清が亡くなり、坊っちゃんには心安らぐ場が永遠に失われてしまう。古き良き日本の消滅していく姿が重なっているようだ。失われてしまったものは戻らない。漱石の『坊っちゃん』という小説はユーモア小説と思われていて、確かに明るい印象を受けるが、そこにはなかなか苦い漱石の現状認識が盛り込まれている。

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