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2009年6月 5日 (金)

架空対談をお楽しみいただくために

すでに5回も連載しておいて気がつくのもうかつな話ですが、「前九年の役」の概要をお伝えしていませんでした。初めて「陸奥話記」の世界に触れる方には、いきなりディープな会話に引きずり込んでしまい申し訳ありません。そこで、「前九年の役」の全体をここで簡単に紹介しておきたいと思います。

前九年の役は、まず永承六年(一〇五一)に陸奥守藤原登任(なりとう)が安倍氏を攻撃したことから始まります。安倍氏は、現在の岩手県中央部に当たる「奥六郡」と呼ばれた北上川流域を支配していました。登任が大敗し新たに源頼義が陸奥守に任じられ、その着任とともに安倍氏も帰順して陸奥国は落ち着きます。ところが源頼義の国司の任期が終わる天喜四年(一〇五六)、鎮守府の府務を終えて国府多賀城へもどる頼義将軍の一行に安倍貞任(さだとう)が夜襲をかけ、人馬を殺傷するという事件が起こります。この事件をきっかけに乱が再燃し、頼義将軍の許には坂東から多数の軍勢が集結します。ところが兵粮が不足したこともあり、国府軍に参集した大部分の軍勢が帰ってしまいます。

翌天喜五年(一〇五七)、頼義将軍は奥地に勢力を持つ安倍富忠を説得して国府側に協力させようとします。この計略を聞きつけた安倍氏の主、安倍頼時は富忠を説得しようと自ら出向きます。ところが、富忠は山中に伏兵を置き安倍頼時の軍勢に襲いかかります。この戦で安倍頼時は流れ矢を受け、鳥海(とのみ)柵に運ばれたものの亡くなってしまいます。同じ年の冬、頼義将軍は川崎柵に近い黄海(きのみ)で大敗し主従七騎まで討ち果たされかろうじて安倍氏の追撃から逃れます。

出羽守の協力が得られなかった頼義将軍は、出羽の豪族清原氏に再三に渡り協力を要請します。ようやく協力を取りつけた康平五年(一〇六二)には頼義将軍の任期終了時期となり、新しい陸奥守として高階経重が下向してきます。ところが国府の役人がみな頼義に言い含められて新司に協力しなかったため、高階経重は都に帰っていきます。

清原氏の軍勢一万余とともに安倍氏攻撃を開始した頼義将軍は、小松柵を落とし衣川関を抜き鳥海(とのみ)柵まで一気に進軍します。もぬけの殻となっていた鳥海柵に入ったところで、将軍は清原勢の奮闘をねぎらう酒宴を開きます。そして黒沢尻(くろさわじり)柵、鶴脛(つるはぎ)柵、比与鳥(ひよどり)柵と次々に破り、国府軍はあっという間に安倍氏の最後の拠点である厨川(くりやがわ)柵・嫗戸(うばと)柵に迫ります。

厨川柵では安倍氏の激しい抵抗にあい、国府軍は攻めあぐねます。一計を案じた頼義将軍は火攻めを行い、厨川柵炎上とともに安倍貞任、藤原経清、安倍重任(しげとう)が捕らえられ頸を斬られます。安倍宗任らは一旦は柵外に逃れますが、後に降伏。出羽国へ逃れた貞任の叔父良昭(りょうしょう)は出羽守に捕らえられ、同じく出羽の清原頼遠(よりとお)のもとにかくまわれていた安倍正任(まさとう)も投降します。こうして前九年の役は康平五年(一〇六二)九月に平定されてしまいます。

その翌年康平六年(一〇六三)、貞任らの首級は京に運ばれ獄門にさらされます。平定後、頼義将軍は伊予守に任ぜられ、息子の義家も出羽守、清原武則は最大功労者として鎮守府将軍にそれぞれ任命されます。

ちなみに頼義将軍の息子、義家の四代末が頼朝や義経たちです。直系の子孫である頼朝と義経の代にまた平泉を舞台に合戦が繰り広げられるのは偶然ではありません。長くなりますので今回は触れませんが、後三年の役も頼朝・義経の頃の奥州征伐もみな大本はこの前九年の役にあります。頼朝の代まで長い間、陸奥国は源氏にとっての「鬼門」となっていたのです。

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