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2009年4月

2009年4月30日 (木)

晴耕雨読

今年のゴールデンウィークは好天が続くらしい。

5月3日の日曜日は別だが、4日から6日までの期間は休みとせず教室を開ける予定でいる。生徒が多いわけではない。しかしそれぞれ連休中の予定を聞いてみると、部活が入っていたりで特に遠出するわけではないという答えが多かった。わが家でも同様で、息子の部活があるのでどこかへ行こうという話はない。そういうわけで、連休中も変わらず教室にいることになった。

例年に比べて今年は厳しいスタートになっている。しかし、物事には何らかの意味があるのだと思う。良いことがあるときはそれだけの理由があるのだし、良くないときも同じように自分に向けられた何かのメッセージなのだと受けとめている。

「晴耕雨読」という言葉があるが、これが理想的だなとつくづく思う。晴れた日には耕し雨の日には家で書を読む。その時その時に応じたふさわしい時の過ごし方ではないか。雨の日に大変だ、大変だと騒いでも雨が止むわけではない。また永久に雨が降り続くわけでもあるまい。いずれ晴れの日が来る。そうなれば書を読んでいたいと思っても、外で耕さないわけにはいかなくなる。雨の日は晴れの日に備えて英気を養っておかなければいけない。

受験期が近づくといつの年でも忙しくなる。受験が終わるまでは休み無しというのが当たり前になる。そういうときはあれを作ろうとかこれを準備しようと思っても、当面の受験対策に関わらないものは後回しになってしまう。教室の掃除にしてもそうだ。窓が汚れてきたなと思ってもそのままにしてしまったりする。

春のこの時期に忙しくないのは経済的には大変なのだが、受験期に出来ないあれこれを片付ける時間を十分に与えられたようなものだと思っている。作ろうと思っていた補助教材を作ったり、教室の掃除や片づけをしたり、たまっている帳簿付をしたりやることはいくらでも出てくる。こういった仕事はお金には直結しないのだが、やる意味があるしやっておかなければならない仕事でもある。

連休中は指導と雑務をこなしながら、教室で一日を送ることになりそうだ。ただし、通常より早く教室を閉める日もあるので、その点はご了承願いたい。

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2009年4月29日 (水)

江戸的スローライフのすすめ・その10

酒の上でのしくじりでとんでもないことになってしまうのは、今も昔も変わりない。落語には酒でしくじった人物や禁酒の話がかなり多い。

酒でのしくじりが直接のテーマではないが、たとえば「富久」では酒癖の悪さでご贔屓(ひいき)の旦那から出入り止めにされた久蔵という幇間(たいこもち)が主人公だ。芝の久保町辺りが火事だと聞いて浅草から駆けつける。火事はすぐに収まり久蔵は出入りを許されるのだが、火事見舞いに届けられた酒を一人で飲み続け気持ちよくなってしまう。その後同じ晩に今度は浅草が火事になり、久蔵の住んでいた長屋が焼け落ちるという展開となる。

また「親子酒」という噺では、酒を飲むとろくなことがないから酒を飲むのはやめな、そのかわりオレも酒はやめたと息子に言っていた旦那が寒い晩に飲みたくなって一杯やってしまう。息子が得意先回りから帰ってきたと聞いてあわてて酔いを醒まそうとするが、実は息子も得意先でお酒をしこたまごちそうになって帰ってきた。息子はヘベレケの状態で事情を説明するが、旦那は「なぜお前はそう意志が弱いんだ。そんなことじゃ身代は譲れないよ」と叱る。すると息子が「あたしだってこんなぐるぐる回る家はいりません」というオチ。

しかし、酒の噺で一番印象に残るのは「禁酒番屋」だろう。十代目桂文治と五代目柳家小さんの演じたものをそれぞれ聞いたことがあるのだが、こういう噺である。

ある藩で月見の宴の時に、ささいなことから口論となった藩士どうしが刀を抜いての斬り合いとなり一方が斬られてしまう。斬った方は、酔いが醒めてから事の重大さに青くなり、ご主君に申し訳が立たないと腹を切る。一度に家臣を二人失った殿様は、「余も飲まぬから皆のものも酒を飲んではいかん」と禁令を出す。当初は皆おとなしく禁令に従っていたが、日が経つうちに外で飲んでヘベレケになって藩邸に戻ってくる者が出るようになる。また何か大事が起きる前にと重役たちは相談して御屋敷の御門のところに番屋を建て、出入りの者を厳しく改める。

これに困ったのが御家中きっての大酒飲みの近藤某。久々に酒屋の店先に顔を出すと五合枡で二杯、合わせて一升の酒をたちどころに飲み干し、夕刻までに自分の小屋に一升届けろと命じる。酒屋の番頭は困り切るが、知恵の働く店の小僧が菓子屋の半纏(はんてん)を借りてきて五合徳利二本のはいった箱を菓子折と称して通り抜けようとする。番屋の番の者たちは、家中きっての酒飲みの近藤が菓子とはといぶかるが、ご進物だという説明にそれならと許可する。せっかくうまくいきかけたのに、酒屋の小僧がうっかり「どっこいしょ」と言いながら箱を持ち上げたため、結局中身が酒だとばれて「この偽(いつわ)り者め」とすっかり番の侍たちに飲まれてしまう。

この後、油屋の恰好で通り抜けようとして失敗しさらに飲まれてしまうのだが、あまりに悔しいので仕返しをしようと今度は徳利に小便をつめて向かう。「何を持参いたした」「小便でございます」「近藤氏が、小便を注文したと?何にする?」「松の肥やしに…」「バカを言え、出せい」となって、改められるのだがご想像の結末となり、「かようなものを持参しおって…」「ですから、小便と申し上げましたが」「ええい、ここな正直者め」というサゲになる。

二本差しのお侍をぎゃふんと言わせる町人の知恵がさえている噺なのだが、近藤某も番屋の番の者も皆、結局は酒好きの懲りない面々というところが笑える。

そういえばある小咄にこんなのもあった。酒好きが酒を手に入れた夢を見るのだがお燗をして飲もうという寸前に目が覚める。目が覚めて一言、「ああ冷やでもよかった」

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2009年4月28日 (火)

馬を川に連れていく・つけ足し

「やる気」を引き出すための具体的方策で書き忘れていたことがあるので、つけ足し。

大事なことであるのにうっかりしていたが、我々教える側の人間に出来ることで重要なのは生徒の努力を評価することである。出来ない子は出来ないながらがんばっている。そのがんばった過程をきちんと認めてあげることが必要だ。結果のみを評価する結果主義では「やる気」は出ない。たとえまちがっていたとしても、そのまちがえた答えを出すために考えた過程があるわけで、それをきちんと評価しなかったらその生徒は次に進んでいく気持ちを持てないだろう。

自戒を含めて言うのだが、教える側の人間は結果主義に陥ってはいけないのだと思う。先日読んだ桜井章一さんの文章にハッと胸を突かれるような部分があった。桜井さんは20年間無敗の伝説の雀鬼とも言われる人だが、現在は麻雀を通して人間力を鍛えることを目的とした「雀鬼会」という会を主宰し、若者たちを指導している。『人を見抜く技術』(講談社+アルファ新書、2009年)という本の一節である。

 人は、あるレベルに達すると(達したと思っているのは本人だけだったりするのだが)、そのレベル以下の人からは学ばなくなる。学ぼうとするのはたいてい、「この人は自分より上」と判断した人からばかりだ。たいがいの人が、”能力のある人”を敬っていくようになってしまう。でも私は、違う。”できない人”を見て、「なんでできないんだろう?」と考え、そこから学んでいく。
 私は別に、能力のある人をバカにしているわけではない。ただ私は、なにかに秀でているからといって、その人から教えを請おうとは思わないだけなのだ。それよりも、”できない人”に断然興味がある。「なぜ、できないんだろう?」「人間って、なんでこうなってしまうんだろう?」と考える。そこから学ぶこと、得ることのほうがはるかに身になるし、自分を成長させてくれる。

教える側に立つ人間が、心に留めていなければならない考え方ではないか。

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2009年4月27日 (月)

馬を川に連れていく・さらに続き

引き続き「やる気」を引き出すには、という話題。

昨日は教える側が生徒の「やる気」を引き出す具体的な方策について述べたが、その最後で触れたように、「やる気」を持続させるためには生徒自身の中に「熱源」とでも呼ぶべき動機が必要なのではないか。

この動機は、必ずしも将来の目標や夢といったようなものでなく、もっと現実的なものでもいいのではないかという考えもある。成績が上がったら何か買ってもらえるとかお小遣いが増えるとか、あるいは将来の目標にしてもこういう仕事につけば収入が多いとか、そういう「利」をぶらさげて動機付けにするということだ。

確かに「今の子どもは計算高いから、お金に結びつかないことはやらないよ」という声を耳にすることがある。だから目標や夢などというフワフワしたものではなく、しっかり地に足のついた現実味のある動機の方がいいのだという考えも分からないわけではない。しかし、はたしてそうなのか。

…問題なのは、そういう目先の職業上の目標にからむエサをぶら下げても、若者たちが動かないことである。だいたい、人間が経済的な目標だけで動くものかどうか、大いに疑問である。「消費社会的」段階は、経済に一元化された社会であり、みんな得か損かでひとが動くように思われているが、本当にそうなのであろうか。目先の利益に関わる目標を選んでいるように見えるときでも、根底のところでは別の精神的価値を同時に選んでいるのではないか。もっと魂が揺さぶられるような精神的価値や崇高なものが入ってこないと、ひとは根源的に動くことはないのではないかという気がする。

2007年に光文社新書から出た、諏訪哲二『なぜ勉強させるのか?』245頁の一節である。

諏訪氏が述べるように、「精神的価値」が入ってこなければ「根源的に」動くことはないのではないかという気がする。つまらないという思いしか抱かず毎日をただ退屈したまま一生を送るのか、それともやりがいのある仕事に出会い充実した日々を過ごすのか、そのどちらを選びたいと聞かれたら後者の方を選ぶのではないだろうか。もちろん経済的にも満足できてということになるが。

自分にとってよりよく生きるとはどういうことなのか、どう生きられたら充実した感じを味わうことが出来るのか、何をしていけたら幸せなのか。そういうことを考える時間を持たせることが必要なのではないかという気がする。つまりは自分に向き合う時間を持つということである。自分が何をしたいのかということは、自分に問いかけてみるしかない。

親は親の希望を語るべきだとも思う。親の希望を押しつけたくない。子どもは子どもである。そういう考えでももちろんよいと思う。こういう大人になってほしい。こういう仕事に就いてほしい。そういう親の願望を伝えることもよいのではないか。要はその希望を押しつけるのではなく、あくまでそれも子どもが自分の将来を考える一つの材料にするということだ。いずれにしても、周囲にいる大人が自分の将来のことを気にかけてくれているのだというメッセージが伝わるだけでも違ってくるのではないか。

はっきりした目標が定まり、揺るぎないものになってくれば「やる気」の問題はおのずと解決されているはずだと思う。

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2009年4月26日 (日)

馬を川に連れていく・続き

昨日の続きを書きたい。

「やる気」を出してもらうための方策として、具体的に出来ることとして「分かりやすい」「興味がわく」指導をすることというものをあげた。これに加えて試験の点数が上がるということも欠かせない。我々塾の存在理由のようなものであるが、試験の点数が上がることは「やる気」を引き出すための重要な要素の一つだ。

問題が一人でも解けるようになるとそれだけで達成感は味わえる。しかし肝心の試験で思ったように得点が伸びなければ、あれだけがんばったのにという失望感に変わりかねない。だから、実際の試験で得点できる力をつけさせることが要件となる。そのためには、例えばいわゆる「ケアレス・ミス」が多い生徒には、くり返し注意すべき点を意識させなければならない。

実は得点力の差は、「解答力」あるいは「解答作成力」の差なのではないかと思う。日頃教室で教えていてあまり実力の差を感じない二人の生徒が、試験結果をみると明らかに実力以上の差がついている場合がある。得点の低かった方の生徒に話を聞くと、「ケアレス・ミス」が多かったという。どういう「ケアレス・ミス」なのか。さらに聞いてみたところ、数学の符号ミスや他教科での解答方法のミスらしい。解答方法のミスというのは記号で書くところを用語で書いたり、「二つ選べ」とあるのに一つしか選ばなかったりというもののようだ。

私は、「ケアレス・ミス」というのが一番深刻なミスだと思っている。数学の計算で符号ミスをすると、符号が違っていただけであとは全部合ってるよという生徒がいるが、ここぞとばかり私は符号ミスの致命的である点を話す。なぜかと言えば、符号ミスは指摘されるまで気がつかないミスであり何度でも同じミスをくり返し、なかなか直らないものだからである。計算そのもののミスは気がつきやすいが符号は意識していないとすぐにやられる。ある生徒に計算の問題をさせた後で、符号だけが違っていたものを確認させると4分の1もあった。つまり計算の方法や途中の数はすべて合っているにもかかわらず、符号に意識を向けていないために取りこぼしているのだ。

設問の要求しているポイントをしっかりつかめるかどうかは国語力の差も大きい。国語力のある生徒はおおむね出題の意図を理解し、何を答えとして出せばよいのか判断できる。一方国語力がない生徒の場合は、設問の内容がよくつかめていない。何度も読んだけれど何を求めるように言っているのかよく分からない、そういう声を耳にするときもある。だから説明的文章のような論理的な文章をきちんと読み取れる力をつけることも、遠回りのようであるが必要なことになってくるのだろう。

細かい話になってしまったが、話を元に戻せば「やる気」を引き出す具体的な方策の一つとして試験での得点を伸ばすことがあるということだ。

しかし、ここまであげたものは教える側、我々の側の話であって、根本の問題は昨日も書いたように生徒自身の中に「やる気」を持続させる「熱源」とでも言うべき動機が必要なのではないかということだ。長くなりそうなので、次回に述べることにする。

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2009年4月25日 (土)

馬を川に連れていく

馬を川に連れていくことはできるが、水を飲ませることはできないという諺がある。「馬 川 水 連れて」というキーワードでGoogleの検索をかけると、この諺に関して7万件以上のページがヒットする。上位から概要をざっとながめてみると教育関連のものがやはり多い。

「日のもとに新しきもの無し」という諺もあるように、これから書こうということもすでに誰かがどこかで書いていることかもしれない。それはそれでかまわないという気がする。くり返し話題に取り上げられるものというのはなかなか実現が難しかったり、わかっていても実行できなかったりするものなのだろう。だから目新しくはなくてもくり返される意味はあると思う。

先日ある保護者の方からお子さんが何ごとにも「やる気」が無くて困っている、という相談を受けた。中3の受験生になったのだから勉強しなければいけないということは本人もある程度分かっている。しかし勉強を始めてみるとすぐに面倒になりやめてしまう。部活は続けているが熱心にやっているわけでもなく、あらゆることに「やる気」がないのが親としては心配だという話だった。

どうすればいいのだろうか。その前にひとつ考えてみたいのが、何ごとにも前向きで自分から積極的に物事に取り組んでいる「やる気」のある生徒は、はたしてどれくらいいるのかということである。もちろんそういう生徒が実際にいるのは知っているし、そういう生徒ばかりだと親も教師も楽でいいのだろうなと思う。しかし、実際問題としては「やる気」を出してもらうためのきっかけとして塾に通うことを選択するケースも多いように思う。つまりあまり「やる気」がないので「やる気」が出るように指導してほしい、というのが塾へ期待するものの一つとしてあるのだろう。

具体的に出来ることはいくつかあると思う。一つは私がしなければならないことであるが、「分かりやすい」「興味がわく」指導をするということ。教えられていることが理解できなければ、つまらないだろうし「やる気」も出ない。なるほどそういうことだったのかと分かればもう少しやってみようかという意欲にもつながる。一人一人の状況は異なるので一概にこうだと断定は出来ないけれども、分かることが自信につながり意欲を持つきっかけになるのはごく普通にあることだ。

ただその意欲はそれだけでは長続きしない。持続させるためにはもっと根本的な「熱源」が生徒自身の中になければならない。それはたとえば将来の目標であったり夢であったりするのではないか。もっと現実的な動機、成績が上がれば何か買ってもらえるとかお小遣いが増えるとか、そういうものでも悪くはないかもしれない。将来の目標にしても、こういう仕事につけば収入が多いとかということでもいいだろう。だが、繰り返すように根本的な動機付けは生徒自身の中に生まれなければならない。

これは私一人では出来ない事柄である。家庭の中や学校や周囲の友人や大人との関わりの中で、生徒自身がつかんでいくものであるからだ。いろいろな話をすることはできる。それが届くかどうかは別の問題だ。だから、先にあげたある保護者の方の相談でも、本人とじっくり将来のことを話してみてはどうかと勧めた。それが解決策になりはしないかもしれない。それでも生徒が自分と向き合うきっかけにはなると思う。

例によって長くなりそうなので今回はここまで。

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2009年4月24日 (金)

酒の上での大しくじり

昨日の一番のニュースは、何と言ってもスマップの草なぎ君の現行犯逮捕だろう。泥酔していたようだから本人はあまり覚えていないのかもしれないが、何にしても許されることではない。三十四歳にもなってそれくらいの分別がつかなかったわけでもあるまいにという気にもなる。

しかし酒の上でのしくじりというヤツは若い頃は一つや二つはあるもので、かくいう私も二十代の初めに同様に酒の上での大しくじりをやらかしたことがある。裸になったわけではない、念のため。

やはり四月だった。あまり詳細には触れないが、その一年はその後ほとんど謹慎状態だった。いろいろな人に多大な迷惑をかけた。いま振り返ると、若気の至りというにはしくじりが大きすぎて赤面してしまうほどだ。だから昨日のニュースで別の署に移送される草なぎ君の酔いが醒めてきて呆然としているような様子は、とても人ごととは思えなかった。

スマップというトップアイドルグループの一員という立場を考えると、社会的影響力の大きさから穏便に済ますというわけにはいかないのだろう。それでなくても日本の社会は酔っ払いに甘いと言われている。だが彼の場合、大声を出して近隣に迷惑だったのは確かだが、人に危害を加えたわけではない。芸能活動から当分の間身を引いて謹慎し、十分反省するのがよいのではないだろうか。その上で復帰できるかどうかは周囲やファンが判断すべきことだろう。

それにしても草なぎ君には、その手のしくじりをしそうなイメージがないだけ余計に世の中に与えた衝撃が大きかったのかもしれない。

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2009年4月23日 (木)

だれにも24時間は平等なのだが…

どれほど忙しい人にも1日は同じ24時間のはずである。どんなに忙しくてもその中で何かを成し遂げていく人もあれば、時間はあるのに無為に過ごしてしまう人もいる。

違いは何なのだろう。私は気持ちの持ち方なのではないかと思っている。今日やらなくても明日片づければいいと思う時がよくある。その気持ちを押しとどめて、いややはり今日やっておかなければという気持ちを持ち続けていけるかどうか。これが大きな違いとなるのだろう。

さらに言えば目標や夢の有無が大きいのだと思う。だれもが意志強固な人ばかりではないはずで、こう言っている私自身も意志が強いとはいえない。楽な方に流れていきたいのは人間の自然な情だが、目標や夢があればあえて大変な道を選んで行くことができる。そして目標や夢がはっきりしているほど、やらなければならないこともはっきり見えてくるはずだ。

目標や夢をはっきりさせるということは、「今ある自分」から変わった「こうありたい自分」のイメージを明確にすることである。変わりたくない気持ちがどこかにあると、ぐずぐずしてしまうのかもしれない。自分を変えていくのは口で言うほど楽なことではなく、今の自分でいる方がおそらく楽なのだろう。

あるいは欠落感が大きくないと人は動かないのだろうか。ハングリーさを抱えている人は必死になる。欠けているものを埋め合わせようと懸命に動く。せっぱ詰まればやらざるを得なくなるのは確かだ。しかし少し欠落が埋められると、それで十分ではないはずなのに錯覚してしまうのか動機付けが下がってしまう場合もある。

差異の大きなところほど動きは大きくなる。差益の大きいところにお金は動くし、気圧の高いところから低いところへ風は吹いていく。とすれば小目標の達成だけで満足してしまわないよう、大きな目標をいつもはっきりと意識していることが大事なのかもしれない。

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2009年4月22日 (水)

古典の底力・その9

説話集を読むのは楽しい。新聞の三面記事がお好きな方は説話集を同じように楽しめると思う。説話集は当時の三面記事ばかりを拾い集めたようなものだからである。

九世紀の初めに成立した「日本霊異記」という仏教説話集が一番古いものだそうで、成立は平安時代だが内容は奈良時代の説話が大半で奈良時代の人々の生活がよく表れていると言われている。仏教説話は霊験譚を載せることで信仰心をかきたてる目的があったのだろうが、世俗説話を集めることも行われるようになり、源隆国の「宇治大納言物語」はその初めではないかと思われている。ただ残念なことに原本は散佚(さんいつ)してしまっており、「今昔物語集」や「古本説話集」に隆国の説話集の影響が残っているばかりだという。

鎌倉時代の「宇治拾遺物語」の冒頭に、源隆国が宇治にこもり往来の者を身分を問わず集めて昔物語をさせ大きな帳面に書き取ったという話が出てくる。聞き書きであるという点が面白い。三面記事的内容が多いのもそのためなのであろうし、うわさ話の域を出ない話も多かったにちがいない。それでも奇異な話に興味を覚えるというのはいつの時代も変わらない。

このように説話集はどれをとってもそれぞれ興味深い話が載っているのだが、その中でも仏教説話から世俗説話まで膨大な量を載せる説話集「今昔物語集」は、まさに説話の宝庫だ。岩波の新日本古典文学大系でも五巻本で全て読み通すには相当な時間がかかる。しかし、タイトルを斜め読みして行くだけでもこれは面白そうだなあと期待させるものが多い。

この「今昔物語集」に入っている説話で一つだけ紹介したいものがある。教科書にはまず載ることがないだろうし、一般に紹介されたり引用されたりすることもまれだと思われる話なので興味のある方はぜひ原文もご覧になることをおすすめする。岩波の新日本古典文学大系では今昔物語集五、本朝付雑事の巻第三十一に入っている。タイトルは「陸奥の国の安倍頼時、胡国に行きて空(むな)しく返る語(こと)」というもの。安倍頼時は前九年の役勃発当時安倍氏の中心だった人物で、貞任・宗任らの父親。こういう話である。

安倍氏が国府側から奥地の蝦夷との連携を疑われて責めを受けそうになったとき、一族の者を船に乗せて胡国をめざした。船は胡国の沿岸に近づいたものの上陸できそうな場所がない。そこで川を遡行して内陸部へと船を進めると、あるところで胡人たちの騎馬の一軍を目にする。芦の陰からうかがっていると話し声が聞こえてくるのだが、何を話しているのかまったく分からない。習俗がかなり違うようだと思い、安倍氏の一行は上陸をあきらめて帰ってきた。こういう話を九州にいた宗任法師が語ったのを聞いたという話である。

史実ではどうなのかまったく確認する資料がない。しかし、これは大いに興味をそそられる説話である。まず、安倍氏の一行が北方の「胡国」の存在を知っていてそこを目指したということ。この「胡国」にあたるのがはたしてどこなのか。津軽半島辺りを指しているのか、それとも北海道なのか。あるいはロシアの沿海州から中国東北部辺りを指すのか。中国東北部なら女真族かもしれないなどと空想が膨らむ。そもそも「胡国」まで船で行き着くことが当時可能だったのか。これは可能性は高いという気がする。時代が下って奥州藤原氏の時代に北方との交易を思わせる物は多く確認されている。奥州藤原氏の時代にいきなりそういう交易が成立したのではなく、それ以前からあったのだろうと考えても不思議ではない。仮に大陸の商人たちが日本へ品物を持ってきていたのだとしても、船で日本に来ることができるのなら逆に大陸へ行くことも可能だろうということである。

もう一つ。この説話は宗任が語ったことを誰かが伝え聞いたという形になっている。しかも九州にいた宗任から聞いたという。宗任が源頼義に降って京から伊予、さらに大宰府へ移送されたことは史料で確認できる。だから九州にいたというのは不思議ではないのだが、その宗任から聞いたという点がまた興味深い。宗任は遠く異郷で生涯を終えたのだと思われるが、近くにいただれかに前九年の役当時の話を語っていた可能性は十分にある。その中の一つが形を変えてこういう説話として残ったと考えると、説話だからと切り捨てるのではなく、説話が残った背景を考えた方がいいのではないかという気がする。陸奥国への望郷の念を抱きながら語った宗任の姿がぼんやりと浮かんできて複雑な気持ちにもなるのではあるが。

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2009年4月21日 (火)

読書メモ・4月(その2)

3.「血涙  …新楊家将 上・下」北方謙三、PHP研究所、2006年

3は北方謙三が以前に書いた「楊家将」の後編にあたる作品。時代は宋代。北方に遼があり、宋の北部にあたる燕雲十六州を制圧している。この遼との衝突に投入されたのが楊業とその七人の息子たちを中心とした楊家軍であった。激戦のさなか見方の裏切りにあい、楊業と長男延平、二郎延定が戦死。五郎延徳は行方不明となり、六郎延昭と七郎延嗣が生き残る。四郎延朗は記憶を失い遼に降り石幻果と呼ばれる遼の将軍になる。この記憶を失った四郎と生き残って楊家軍を再興しようとしている六郎、七郎との葛藤が「血涙」の見せ場である。

いやあ、これもたまりませんなあ。「楊家将」や「血涙」が扱っているのは「水滸伝」や「楊令伝」の前の時代の中国北部である。「水滸伝」に出てくる楊志は楊業の子孫であり、血のつながりはなくとも「楊令伝」の楊令はその楊志の子にあたる。「水滸伝」を中心にそのプロローグにあたるのが「楊家将」「血涙」、エピローグにあたるのが「楊令伝」という位置付けにでもなるのだろうか。ただし「楊令伝」はいわゆるエピローグの分量をはるかに超えて既に長大な物語が進行中であるのだが(実際、「楊令伝」は広告では続・水滸伝と銘打たれている)。北方謙三はどこまで考えてこの壮大な「楊家サーガ」とでも呼ぶべき物語群を構想したのか。その意図を図り知ることはできないが、いずれにしても希有な長編の物語世界が出来上がりつつあると思ってよいだろう。

この物語群の大きな特徴は何だろう。それは一つの国なり組織なりの経済構造や生産構造まできちんと描かれているということにつきる。塩の製造や交易、馬を育てる牧の経営や馬の買い付けなどなど、どの物語もかならず経済面の活動に触れている。単純に比較してはいけないのだろうが、吉川英治の「三国志」などの場合は生産の基盤や経済活動に言及する部分が少ない。もちろん作品が世に出た時代の違いというものも大きいだろう。北方謙三の作品群には、人や組織の日常を支える経済活動や生産活動が物語の大事な要素として欠かせないものになっている。

食事の描写が多いのも特徴である。何をどのようにして食べるのかが具体的に描かれる。たとえば野営している軍士には何を食べさせるのか、旅先ではどこで何を食べるのかなどが細かく描写されている。考えてみれば当たり前の話だが、人間はものを食べずには生きられない。だから物語の中の人物だとはいっても、何をどのようにして食べていたのかはおろそかにできない問題だといえる。それをどこまで描くかは作家の食に対する興味や執着の違いによりさまざまであろう。北方謙三のこのシリーズの場合、食べ物の描写はこれまたリアリティを支える重要な要素になっている。「水滸伝」や「楊令伝」の中で登場人物たちがものを食べる場面は印象的な場面が多いように思う。実際にその食事を作って食べてみておいしいかどうかは別として、うまそうな食べ物のシーンが多い。

このような食や経済や生産といった下部構造の支えがあるゆえに、その上に立つ人間や歴史の物語世界が一層確固としたものになっているのだと思われる。「水滸伝」や「楊令伝」を読んで面白いと思った方で「楊家将」「血涙」を未読の方は是非読まれることをお勧めしたい。「水滸伝」や「楊令伝」に描かれる遼や女真族の金が違った視点で見えてくるのではないかと思う。

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2009年4月20日 (月)

読書メモ・4月(その1)

1.「三国志 四」「三国志 五」吉川英治、講談社吉川英治歴史時代文庫、1989年
2. 「気の発見」五木寛之・望月勇対談集、平凡社、2004年

1の三国志は何度目の読み返しだろう。三度目か四度目かもしれない。「四」ではいよいよ三顧の礼を受けて諸葛孔明が劉備の軍師に迎えられ、「五」では赤壁の戦いとなる。何度読んでも面白いなあ。映画「レッドクリフ・パート2」の公開にうまく合わせたように赤壁の戦いの箇所に入った。今年の初めに読み始めてから大体毎月1巻ちょっとというペースで読んできたことになる。このまま行くと夏休みが始まる直前に最終巻まで読み切ってしまいそうだ。

三国志に興味を持っている生徒がここ数年増えてきたようだ。男子女子に限らずというところが面白い。どうやら「三国無双」などのゲームから入り、興味を持つようになったらしい。去年中3だったある女子生徒は「呉」のファンである。どうして「呉」なのか。聞いてみると、呉の武将は「魏」や「蜀」にくらべて若いしむさ苦しくないからとのこと。なるほど。映画でも呉の大都督、周瑜の役はトニー・レオンが演じていたなあ、そういえば。それに呉には大喬・小喬の美人姉妹もいるしね。

ちなみに私は「蜀」のファンである。劉備のかたくななまでに「仁愛」を守ろうとする君主像や関羽、張飛の武勇と忠誠、諸葛孔明の知謀。どれをとっても魅力的である。おっと忘れてはいけないのが趙雲。長坂坡で孤軍奮闘し劉備の息子、阿斗を守りきった場面はたまりません。

2は3月のメモ(こちら)で取り上げた「息の発見」と同じ「発見」シリーズの冒頭にあたる巻。ロンドン在住の気功家、望月勇と作家の五木寛之が「気」をめぐる興味深い対談をしている。「気」の存在については非科学的だ、と受け付けない方もいらっしゃると思う。私も半信半疑のところがある。が、対談は非常に面白い。動物にも気功治療が効くという話題では、飼い主の気功治療のときにそばにいた足腰の立たない犬が歩けるようになったという例を紹介する。犬や猫は人間と違い先入観に惑わされることがないので、気が通りやすいのだそうだ。また、気功治療が効くタイプとして上げていたのが、(1)身体的に気が通りやすく、精神的にもいろいろなことに心を開いている人、(2)心はあまり開いていないが、身体的に気が通りやすい人、(3)身体的には気が通りにくいが、心を開いている人の3つらしい。この他に望月氏は2つのタイプを挙げ、(4)身体的にも、精神的にも閉じている人、(5)なぜだか原因は分からないが気功治療が効いてしまう人というのもあるのだそうだ。当然のことながら(4)のタイプの人は気功治療が効かない人である。

(5)のタイプが面白いと望月氏は言う。あるドイツ人の婦人に気功治療を施したのだが、最初から望月氏は気功が効かないタイプだろうと感じていた。実際気功治療を続けているときにはこれといって効果が出てこなかった。ところが数年後その同じ婦人と偶然会ったときに、他の治療を受けないのにすっかりよくなったと感謝される。これには望月氏も驚き何が原因となって症状が改善されたのか、なぜ気功が効いたのか分からなかったそうだ。

科学的に証明できないものは存在しないのだという考え方は果たしてそうなのか、と五木寛之は疑問を投げかける。現在の科学で証明できないだけの話で、将来解明できる可能性だってあるのではないかと言う。このあたりは意見の分かれるところだろう。私はあまり科学万能主義の一辺倒にならない方がいいと思っている。つまり五木寛之の考えに同調している。今の科学では証明できないが、あるらしいというくらいのゆるさでもいいのではないか。

読んだ冊数が少ない割には長くなりそうなので残りは次回。

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2009年4月19日 (日)

部会始動

今日の午前中、地域計画策定委員会の教育文化部会の第1回会合を開いた。さて委員のみなさんは集まってもらえるのかと心配していたところ、欠席者は1名だけで1時間半の会議があっという間に過ぎてしまう盛会だった。

全体会の時に欠席していた女性委員の方々もしっかり出席いただいた。もしかするとこの手の活動にあまり積極的でない方々なのだろうかという先入観とはまったく反対の、積極的に問題に取り組んでいただける方々ばかりだった。新米部会長としては大いに安心し、心強い限り。

今日は顔合わせ程度になるかと思っていたが、NPOから来ていただいたサポーターの方にリードしてもらい、部会で検討していく中心点の絞り込みまで到達できた。次回以降は具体的な目標を達成するための方策を検討することになる。最終的には具体的な計画の作成というところまでが我々の部会に与えられた使命なので、この盛り上がった雰囲気をそのまま維持して早めに計画を作成していきたい。

部会の中でいろいろ出た発言には考えさせられるものも多かった。まず地域の子どもたちにどんな子どもたちになってもらいたいかというテーマでは、元気でやる気のある子ども、人の痛みが分かる子どもになってほしいという意見があげられた。では、その子どもたちがどんな大人になってほしいか。これに対しては人との関係性を作っていけるコミュニケーション能力のある人間、自主性があって実行力のある人などいくつかの理想像があげられた。

そういう議論の中で、外遊びをしている子どもを見かけなくなった、あるいは自然の中で遊んでいる子どもが少ないという意見も寄せられた。私の住んでいる地区は田園地帯である。工業団地もあるが、昔からの農家も多く雑木林や川など市内の中では自然の多い地区である。しかしそういう地区であるにもかかわらず家の中での遊びが主であるという。確かに外を遊び回っている子どもの姿を見かけなくなった。たまに外で子どもの遊ぶ声がするなあと思うと近くの公民館で子供会の行事があったときくらいなものだ。

子どもが参加する各種行事の指導者が不足していることが問題ではないかという声もあった。子どもの近くにいる大人の考え方で、子どものあり方が大きく左右されてしまっているところもあるのでは、という意見も出た。いずれにしても今後の部会の中で、これからの地域計画の中で具体的に何を実現していく計画とするか細かい議論を重ねていくことになる。少しでも目標に掲げる地域像に近づける計画になればとも思う。雰囲気としては記憶のかなたに遠ざかってしまった学校の執行部会みたいな感じである。活発な議論が期待できそうだ。

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2009年4月18日 (土)

今日から北上展勝地さくらまつり

だいぶ暖かくなり、今日は天気もよい。風があって少し冷たく感じるけれどまずまずのお花見日和ではないだろうか。

今日から北上展勝地のさくらまつりが始まる。5月5日までの期間が例年さくらまつりの期間とされ、各地から観光客が訪れる。去年のさくらまつりの初日は雨だった(去年の記事)。ちょうど桜の花が見頃を迎えているので、今年はいいスタートとなるのではないかと思う。

昨夜も教室からの帰り道、展勝地付近を通過しながら灯りに照らされた桜の枝々が目に入った。ぼうっと白っぽく闇の中に浮かび上がる花びらを見ると何だか不思議な気分になった。毎年目にしているのだけれど今年の桜は去年の桜とは違うのだろうなと、当たり前のことをあらためて考えた。同じように咲き、同じように散って、同じように葉桜となっていく。 俵万智さんの「さくらさくらさくら咲き初め咲き終りなにもなかったような公園」という「サラダ記念日」の歌を思い出す。

ほぼ毎日北上展勝地を通過しながら仕事場である教室に向かい、夜の展勝地を通過しながら自宅に帰る。さすがにさくらまつりの期間の土曜日だけは別ルートで教室に行く。そのようにして毎日通う道の途中にある展勝地は、私にとっては日常のごくありふれた風景の一つでしかない。それでも桜の花が満開になると春が来たんだなあという気持ちが満ちあふれてくる。

展勝地を訪れる方に一箇所だけお薦め地点をあげておきたい。これは昨日偶然気がついた場所なのだが、桜の写真をアップでしかもボリュームたっぷりで撮りたい方にお勧めの地点だと思う。それは北上川にかかる珊瑚橋という橋の展勝地側(市内から見て向こう岸)のY字路交差点の信号付近。

橋の道路脇には片側だけ歩行者通路がある。その通路に覆いかぶさるように桜の枝がかかっている。その向こうは桜並木であり、下は小公園になっていて花見客がシートの上でのんびりしている。この場所ですぐ手の届くところにある、目の前の桜を一眼レフのカメラで熱心に撮影している女性の二人組をお見かけした。なるほど、ここは桜の花を画面一杯にとるにはベストポイントだなあと感心。ズームを使う必要もなく、ほとんど接写に近い状態で撮ることが可能だと思う。

さくらまつりの詳細な情報は北上市のさくらまつりホームページ(こちら)をどうぞ。

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2009年4月17日 (金)

白ゆり学習会の事業説明会に行ってきました

きのう16日、盛岡のアイーナ5階で平成21年度白ゆり学習会事業説明会があり出席してきた。

久々に盛岡を訪れ、新しくなった駅の西口周辺に驚きながらたどり着いた。県立美術館が出来て間もないころの何もなかった地区にどんどん新しい施設や建物が増え、道路もすっかり整備されている。アイーナには駐車場が無いと聞いていたので近くの有料駐車場に車をとめた。県立図書館が入っているのだから無料の駐車場を備えていてもいいのではないかとも思ったが、スペースの余裕がないということなのだろう。

アイーナは岩手県民情報交流センターの通称だが、公共施設らしくない雰囲気の建物である。この辺り意見が分かれるところだろうが、無機質な感じの空間は近未来的ではあるがあまり居心地がよいとは言えない。特に会議室の正面が金属パネルであるのは落ち着かなかった。なにゆえ土と緑と水の豊かな岩手のイメージにそぐわない室内デザインなのか、大いに首をかしげてしまった。わざわざ都会的、近未来的な建物にする必然性があったのだろうか。

それはさておき、白ゆり学習会の事業説明会は有益なものだった。日頃プレテストでお世話になっている担当の方ともお目にかかれ、直接ごあいさつできたのもよかった。中でも説明会の時間の大半を使った「学習指導要領改訂のポイント」の講演が大いに勉強になった。

講演をされたのは東京書籍編集局の教育サポートセンター長、菅原俊彦氏で、新学習指導要領と移行措置に関する情報を提供していただいた。新学習指導要領と移行措置に関しては教材会社の移行措置対応資料などで大雑把なところは知っていた。新学習指導要領そのものは文部科学省のサイトで見られるので概略は見ていたのだが、この新しい学習指導要領が持つ意味や問題点については講演を聞くまで理解していなかった。

今回の学習指導要領の最重点はいわゆる学力問題とグローバル化への対応であるという。まず、学力問題に関しては国際学力調査(PISA…学習到達度調査)の結果を踏まえゆとり教育から「PISA型学力」への転換を図ろうとしているとのこと。昭和40年代にいわゆる受験戦争が過熱化する。それをうけて昭和50年代以降ゆとり、個性重視、生きる力と学習時間・内容とも減らす方向で進んできたのが、今回初めて転換される。現場の先生方が経験したことのない時間・内容増への対応を迫られるということだ。特に数学、理科については移行期間から時間と内容が増えていくのだが、これらはPISAでの数学的活用能力や科学的活用能力の順位をあげることが明確に意図されている。

また新学習指導要領が完全に実施される平成24年度からは、中学の英語が現行より105時間増えて420時間(3年間の合計)になるのに対し、国語は中2で35時間増えるだけの385時間となる。初めて国語と英語の時間数が逆転することになるが、これがグローバル化への対応ということなのだという。

これには賛否両論あると思うが、私は国語力を上げずに英語力は上がらないと考えているので果たして文部科学省の意図するような英語力底上げが実現するかどうか疑問だと思う。日本語できちんと考え、それを表現する力がついていないのに英語で実現するというのは本末転倒である。学力低下を問題にするならまず国語力を上げることから始めるべきではないか。英語が使えるようになっても肝心の中身がないのではグローバル化どころの話ではないだろう。

もう一つ重要だと思ったのは、移行期間の内容が入試に反映される可能性が高いという点だ。最終的には自治体の判断になるが、今回の移行措置は本格的な移行であり、以前のように移行措置内容だから入試問題への反映はひかえめにするといったことは少ないだろうという。白ゆり学習会からのプレテスト事業の説明でも移行措置内容を盛り込んだ試験問題にしていくとのことだった。

いずれにしてもすでに移行措置の新学期が始まっている。中1、中3の数学・理科の移行措置内容は要注意で扱った方がいいようだ。

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2009年4月16日 (木)

江戸的スローライフのすすめ・その9

前回 に続き詐欺師「左平次」の登場する噺として、「鰻の幇間(たいこ)」を取り上げてみたい。

この噺は幇間(たいこもち)の一八が主役である。昼時で腹が減ってきたが自分の銭で食べるのは幇間の法にないよとばかり、知り合いの芸者の姐さんにごちそうしてもらおうと尋ねるが、あいにく留守でせっかくエサに持参した手土産まで取られてしまう。これはかなわないと、往来でだれか知り合いが来ないかウロウロする。そこへ見覚えのある顔が表れる。ところが一八は名前を思い出せない。だれだっけなあ、とあせっているうちに向こうが近づいてきて「どうした、師匠?」と声を掛けられる。

この声を掛けた男こそ「左平次」だろうと私は思う。「陽気な小悪党」の左平次からすると少しキャラクターが暗いようにも思うが、それは主役ではなく脇だからということと、だます相手が口先のヨイショで生きている幇間であるということによる。つまり詐欺師の左平次から見れば、舌先三寸でだれかを持ち上げて飯のタネにしようという幇間は同業者みたいなものである。しかも「居残り左平次」や「付き馬」の場合と違って遊郭の店の払いを踏み倒そうという大がかりな詐欺ではない。

一八は先手を取られてうろたえながらも幇間の職業的反応で男にヨイショして取り入ろうとする。男は「うなぎを食おうか」と一八を誘う。この時点でだまそうという肚はできている。一八は昼飯にありつけると単純に喜び何の疑いも持っていない。近くのうなぎ屋にあがるが、どうもパッとしない店だ。客が少ないのか二階に上がるとメンコをしていた子どもが急いでおりていく。この間、男はなじみの店だからちょいと話があると下に残り、何やら店の者と話し込む。二階へ上がってきた男は一八と酒のやりとりをするが、頃合いを見計らって「はばかり(トイレ)へ行って来る」と下へ降りる。ひとり残された幇間の一八はこのときとばかり手酌でどんどん酒を飲む。ところがしばらく経っても男が戻ってこない。

うなぎを持って上がってきた店の女中に「あの、ちょいと旦那を迎えに行ってきておくれ。はばかりに行って長えじゃねえか」と言うと、「あの浴衣を着たお方は帰られました」と言う。まだ一八はだまされたことに気付かない。「ああ、なるほど。あの旦那はおなじみさんで、あいつにうんと食わしてやってくれよ、そばにいると食いにくいからってんで先に帰ったんだね」とのんきに都合のいい方に解釈している。その上、おひねりか何か紙に包んで帳場に置いてったはずだからもらってきておくれと告げる。

ところが女中が持ってきたのは勘定書である。どうやらだまされて自分が勘定を払わなければならないと分かった一八は、うなぎ屋に散々ケチを付けて腹立たしい気持ちを解消しようとする。うなぎの分はしょうがないとあきらめの境地もあるのだろう。が、ここで一八の災難は終わらない。男は土産の折詰代も一八にかぶせていた。踏んだり蹴ったりである。もうこんな店は早いとこおさらばするに限る、下駄を出しておくれ下駄をと下足番に告げると「下駄はお供さんが履いていきました」「じゃあお供さんの草履があるだろう」「へぇ、草履は紙に包んで持ってきました」という結末。

徹底してむしり取られてしまったわけである。短い時間にさっとだましてパッと消えてしまった鮮やかな手口はどう考えても左平次であろう。しかし「付き馬」の場合もそうだが、だます手口はその場その場の思いつきだという感じがする。左平次という詐欺師は、じっくり考えて計画的にだますのではなく、臨機応変にその時と場の状況次第で作戦を即座に立てていくアドリブ型の詐欺師である。言ってみれば成り行きまかせなのだ。左平次は確かに詐欺師という悪人である。だが、なぜか左平次のありようには気になるものがある。「人生成り行き」という立川談志の言葉ではないが、人の生き方の根本には計画やら何やら思い通りには運ばない成り行きまかせの部分もある。その成り行きまかせで生きている軽さみたいなものが、悪党ではあるのだが、左平次をどこか気になる存在と感じさせるのかもしれない。

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2009年4月15日 (水)

通過儀礼

県内の各高校で応援歌練習が始まっている。昔も今も変わらない新入生がくぐらなければならない第一関門である。

教室に来ている一年生に聞いてみると、「大変ですよ、応援歌練習は」という回答が多い。振り返ってみるとそれも一つの通過儀礼に過ぎないのだが、その当時はつらいなあとか大変だなあとか思う気持ちの方が先立ってしまう。

自分の高校時代を思い出してみてもそうだ。まだわけも分からないうちに応援団が応援歌指導に入ってきて、いきなり暗記してこいと無理難題を押しつけられたような気がしたものだ。今でもバンカラな応援スタイルを残しているところだが、当時も応援団員は腰に手ぬぐいをぶら下げ破れた帽子をかぶり高下駄で通う者が多かった。一年生にしてみると別世界の生き物に遭遇したようなカルチャーショックを味わうわけである。

だが、この通過儀礼にはなかなかよい面があると思う。まずお互いよく知らない新入生同士が、応援歌練習というある種の極限状況に置かれ、連帯感を持たざるを得なくなるという効果をもたらす。また応援歌練習をくぐり抜けると何か自分が高校生らしくなったような気分を味わったものだが、一つの物事を終えたという達成感や充実感とともにこの高校の一員になったんだなあという帰属意識が生まれてくる。

始まったばかりの応援歌練習でそれどころではないというのが正直なところかもしれないが、過ぎてしまえばすべていい思い出になる。大事な通過儀礼なので逃げ出さずしっかりと通り抜けてほしいと思う。一年生の応援歌練習の最終日、屋上で聞いた応援団長からのよく頑張ったというひと言は数十年過ぎているのに今でもよく覚えている。風が少し強くそれでも日差しの暖かい日だった。ああ高校生になったんだなあという実感とその光景が今も鮮やかによみがえってくる。

それにしてもバンカラなスタイルの応援というのは今では化石のような存在だろうから、是非とも野球部の諸君にがんばって甲子園に出てもらい、全国にその時代錯誤なスタイルの応援を知らしめてほしいものだとひそかに願っている。今年は花巻東という春の準優勝校が県内にいるので夢のまた夢かもしれないが、テレビで応援団が大きく取り上げられるところを見てみたいものである。

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2009年4月14日 (火)

そろそろ桜が…

北上の展勝地は桜の名所として知られている。去年もさくらまつりの時期に記事を書いた。ことしも今週末の18日からさくらまつりが始まる。今日展勝地のレストハウス前を通過したときはまだちらほらとしか桜の花が見えなかったが、この陽気からするとすぐに開きそうである。さくらまつりの初日頃がもしかすると満開かもしれない。

少し前から梅はあちこちで咲いている。私の住む北上周辺は白梅が多い。最初は何の花だろうと思っていた。この間、父親を車に乗せて買い物に行った帰り、道路脇の花を見て梅が見頃だなあと言っているのを聞いて初めて梅なのだと分かった。

花の名前、木の名前、鳥の名前。どれをとっても私はまったく詳しくない。父親はもともと山育ちなので草木鳥獣はやたらに詳しい。庭先に来ている鳥を見ても私は同じに見えてしまうが、父親はあれは○○だとすぐに見分ける。木や花もそうだ。

足が悪くなってしまったので山菜取りやキノコ取りには行けなくなったが、昔はもう少しすると父親が採ってくる山菜ばかりが食卓に続くことがあった。秋はキノコだらけ。人によっては山菜やキノコが飽きるくらい食べられるなんてうらやましいじゃないか、と言ってくれる人もいたが、実際はそのような生やさしいものではない。三食山菜やキノコづくしが一週間も続けばたいがい音を上げると思う。頼むから他のものを食わしてくれと言いたくなる。

芥川龍之介の短編に「芋粥」というのがある。この小説の主人公は芋粥を満腹するまで食べてみたいという願望を持っている。ふと漏らした「芋粥を飽くまで食べてみたい」という一言を聞いた藤原利仁が、さりげなく主人公を京から誘い出し所領に連れて行く。利仁の屋敷の庭先に山のように積み上げられた山芋と大きな釜でつくられていく芋粥を見ているうちに、主人公は食べないうちからもういいという気分になっていくという話である。

この話を読んだとき、状況はまったく異なるのだが主人公の気持ちはよく分かった。あまりにも程度がはなはだしくなると、もうそれだけでたくさんだという気分になってしまう。もちろん「芋粥」の主人公の場合は願望は満たされないうちが花なのだということを言いたいのかもしれないし、私の場合は「過ぎたるはなお及ばざるが如し」というものだから全然別の話ではある。

桜の話から大幅にずれてしまった。強引に結びつけると、桜の花がいいなあと思うのもじつはすぐに散ってしまうからではないか。これが咲いてから一ヶ月も満開が続くとか年がら年中いつでも見られるということなると何のありがたみも無くなるような気がする。十分見飽きないうちに無くなってしまうから、もう少しという気分になるのだろう。

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2009年4月13日 (月)

古典の底力・その8

「平家物語」は音読してみるとよいかもしれない。あるいは音読してもらう方がわかりやすいのかもしれない。

何を分かり切ったことをとお思いかもしれないが、もともと琵琶法師が「平曲」として語ったものが「平家物語」として残されているのだから、その「音」なり「声」なりに耳を傾けてみることを忘れてはいけないのだろう。

現代のわれわれは、活字になったものを黙々と目で追って読んでいくという物語の享受方法が一般的になってしまったため、耳で語りを追いかけ場面を思い描くという伝統的な方法になじみがなくなってしまった。せいぜいがラジオドラマくらいだろうか。しかし、たとえば稲川淳二の怪談話がなぜ受けるのかということを考えると、意外に「語り」の伝統はしぶとく生き続けているのかもしれない。

稲川淳二の怪談話はどんどん「様式化」が進んでいるように思うのは気のせいだろうか。さあ来るぞ来るぞと思っているところへ期待通りのぞっとする瞬間をぶつけてくる。「平家物語」の語りにしても本来はそういうものだったのではなかろうか。聞き手の期待に合わせて涙を誘う場面を盛り上げたり、勇ましい合戦の場では臨場感あふれる描写を重ねていったりという琵琶法師の語りの様式化があったはずだ。

それにしても滅びた平家一族の物語を琵琶法師が語って歩くというのは一体どういうわけなのだろう。鎮魂という意味合いが「平曲」には込められているのだろうか。専門家の研究によると、東北地方には「田村語り」「安倍語り」という伝承があったらしい。「田村語り」は坂上田村麻呂が主人公だから敗れた側ではないが、「安倍語り」は「平曲」と同じように前九年の役で敗れた者たちへの鎮魂の意味があったのか。そういえば源義経を主人公とする古浄瑠璃もあるようだ。能楽になると明らかに亡霊が登場する話が多くなり、鎮魂の意味があるのだろうなと思われる。時代はぐっと下るけれど、元禄の赤穂浪士の話がこれだけ歌舞伎やらなにやらで演じられたのも、赤穂浪士の面々が仇討ち後切腹したからではないのだろうか。すなわち鎮魂歌である。

話を平家物語に戻す。平家物語には数々の印象的な場面があるのだが、熊谷直実が平敦盛を自分の手で討ち取るところは印象的だ。平家の公達と見て駒を寄せて組み伏せると、自分の息子ほどの年齢の若武者である。ふと父親の気持ちになる直実は助けてやろうという気持ちを起こすが、すでに味方の源氏の軍勢が押し掛けてくる。自分が逃がしてもおそらく追っ手に捕まって討たれてしまう。ならばと直実はみずから敦盛の首を取る。熊谷直実はその後、武士であることの罪深さをしみじみと感じ出家してしまう。昔、この場面について生徒とキャスティングをめぐってあれこれ話したことがある。もし映画でこのシーンを撮るとしたら熊谷直実をだれにするか。私は今でも奥田瑛二がいいと思うのだが、いかがなものか。一方の平敦盛も重要だ。今なら誰なんだろうな。昔は滝沢秀明君あたりかというところに話が落ち着いたのだが。

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2009年4月12日 (日)

お掃除、お掃除楽しいな

先週4日ほどかけて教室の床掃除をした。

固定パーティションボードで区切ってあるものの、床面積はかなりある。1日で床拭きを終えようと思うと大変なのでそれぞれの部屋を半分ずつ4日で終える作業予定を立てた。掃除用洗剤を入れたバケツを片手にさて始めるかと意気込んで雑巾を絞った。1日目は授業の始まる1時間半くらい前に思い立ったので、まずは手前の教室スペースの東半分と決めて作業開始。

ところが作業を初めて5分くらい経過した時点で腕が疲れてきた。う、うでが動かない。そんなバカなと思ったがしゃがみ込んで床を拭くという無理な体勢もあいまって余計な力が腕にかかっていた。そのうち汗は出てくるは息は上がるはで、日頃の運動不足を痛感した。結局1日目は1時間弱もかかってしまった。

これはいかんなあと2日目からは少し工夫をしてみた。まず膝をついて腰を落とす。これで腕に上体の体重がかかるようになり、あまり力を入れなくても床面を強く拭けるようになった。それと拭くのが楽になった分だけ作業が早くなった。日本家屋の廊下の拭き掃除をするように、「雑巾がけのポーズ」とでもいうべきスタイルがあるが(短距離のスタートみたいに両手をついて腰を上げるあのスタイルです)、あれは上体の体重が腕にしっかりかかるので合理的な形なのだと思う。こちらは廊下みたいにサッと拭ける床ではないし汚れも相当しつこくついているので、膝をついてじっくり攻めるのがよいようだ。

手前の教室が拭き終わった時点でかなり気分が良かったが、さらに奥の教室スペースに取りかかってからはスッキリした気分と充実感を味わった。3日目はコピー機の周辺から教材をしまってあるロッカー付近まで。この辺は相当ほこりも汚れもたまっている。時間はあまりかからない。例によって膝をついて腕が届く範囲をスイスイ拭き回る。最後の4日目は前の日までの部分でも残していたカラーボックスの下など隠れた部分まで全て拭いた。これでほぼ床全面の拭き掃除が完了。実に気持ちがいい。

日頃これほど単純に達成感を味わえることは少ないような気がする。掃除の何がいいのかというと教室がきれいになるという見た目の良さだけでなく、気持ちの上でスッキリするということが大きいように思う。やらなきゃなとずっと思いながら今までなかなか出来ないでいただけに単純にうれしい。

今週はもう一度床の仕上げ拭きをして、さらに壁の汚れ落とし。こちらは毎年4月にしているので一年ぶりとなるが、あまり汚れはついていない。一週間かけて少しずつ作業の予定。毎年この時期はこんなふうに教室の掃除に明け暮れている。

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2009年4月11日 (土)

江戸的スローライフのすすめ・その8

今年のはじめに立川談志の「居残り左平次」を聴いて以来、左平次の存在が頭から離れない。

いつも引用する中野翠さんの「今夜も落語で眠りたい」(文春新書)で、中野さんは前回紹介した「真田小僧」の金坊を取り上げてこう書いている。「私は思う。金坊は『雛鍔』の子と同一人物ね、そして落語界最大のトリックスター居残り左平次の幼い日の姿ね。きっとそうだ。」私もそうだと思う。

左平次という名前が出てくる落語は「居残り左平次」しかないが、左平次だろうと思われる詐欺師が登場する噺は他にもある。「付き馬」と「鰻の幇間(たいこ)」である。これらの落語に登場する人物は固有名を持たないものの、どう考えても左平次だろうとしか思われない鮮やかなだましっぷりを見せる。

「付き馬」は吉原が舞台である。ある店の若い衆が一人の男に声を掛ける。男は遊んでいきたいが金を持っていないという。金を持ってないってあなた吉原に来るのに金を持ってないってことはないでしょと若い衆が言うと、実は小金をためて金貸しをしている叔母がいるのだが、その叔母から頼まれてあるお店に貸した金を返してもらいにきたのだと男は言う。それじゃあその叔母さんのお金で遊んでいきませんかという話になり、回収するのは明日ということにして男は店に上がる。芸者や幇間(たいこもち)も呼んでどんちゃん騒いだ翌朝、勘定書を持ってきた若い衆に金の回収先の店に一筆書いてもいいんだが、あいにく印を忘れてきたからいっしょに来てくれと外へ連れ出す。なんやかやと口実を設けてうまく浅草まで引っぱり出し煙に巻こうとするが、若い衆もさすがに怒る。冗談じゃありませんよ、ここは浅草の雷門じゃありませんか。まあまあ君ねえそう怒っちゃいやだよ、こっちだっていろいろ考えてんだ。と言うと?それがね、この先におじさんちがあるからそこでこしらえてもらおうかと思ってんだよ。

若い衆を連れて男はある早桶屋(棺桶を作る葬儀屋)の近くまで来る。君ね、ちょっとここで待ってておくれ、おじさんに頼んでくるから。こう言い置いて男は早桶屋の親父に「おじさん、おじさん」と大きな声でなれなれしく近づき、向こうにいる若い男の兄貴が腫れの病で死んでしまい並みの棺桶じゃあ間に合わない、ここは図抜け一番小判型の大きな棺をこしらえちゃあいただけませんかと話す。早桶屋が承諾すると「こしらえていただける、ありがとうございます」と若い衆に聞こえるように大声を出してから男は元の場所へ戻ってくる。若い衆を早桶屋の親父に引き合わせて「おじさん、おじさん、出来ましたらこの男に渡してやって下さい。で、君ね、出来たらおじさんから受け取ってね。あたしゃちょっと煙草買いに行ってくるから」と雲隠れしてしまう。ここから先の若い衆と早桶屋のおやじのやりとりはアンジャッシュの漫才みたいにずれた会話が続いて笑えるのだが、最後にはどちらも男にだまされていたことに気がつくという結末。

このだました男はどう考えても左平次である。話術の巧みさ、相手を信じ込ませる詐術のうまさ、どう見ても根っからの詐欺師の仕業としか言いようがない。ちなみに「付き馬」とは、勘定が足りない客の家までついていって受け取ってくる人のこと。もともとは吉原の大門の所で客待ちをしていた馬子さんに頼んだのが始めで、回収するのが若い衆になっても「馬」と呼ばれたようだ。

例によって長くなりそうなので、「鰻の幇間」の方は次回。

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2009年4月10日 (金)

恒例の読書リスト春版

暖かくなってきましたが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。ネタが切れてきた頃の定番、これから読みたい読書リストの春版となりました。興味のわく題材がありましたらお手にとってみてはいかがでしょうか。

  1. 「学力と階層  …教育の綻びをどう修正するか」、苅谷剛彦、朝日出版社
  2. 「アラブ、祈りとしての文学」、岡真理、みすず書房
  3. 「エル・システマ …音楽で貧困を救う南米ベネズエラの社会政策」、山田真一、教育評論社
  4. 「町工場巡礼の旅」、小関智弘、中公文庫
  5. 「心は遺伝子の論理で決まるのか」、キース・E・スタノヴィッチ、椋田直子訳、みすず書房
  6. 「すごい空の見つけ方」、武田康男、草思社
  7. 「世界の測量」、ダニエル・ケールマン、瀬川裕司訳、三修社

1は仕事がらみではありますが、経済の危機的な状況が進行していく中で親の所得格差によって子どもの教育が左右されてしまう現状に不安と不満を覚えることから。

2はタイトルしか記憶がありません。おそらくあまり紹介されることのないアラブ現代文学についての本だったように思います。アラブの文学的な伝統を踏まえてイスラム教圏の今を映し出している文学作品がいかなるものなのか、大いに興味を引かれます。

3はNHK教育テレビでも取り上げられていたのでご存じの方もあるのでは。南米のベネズエラではスラム街に住む子どもたちにクラシック音楽の教育を施し、才能のある子どもにはその道で食べていけるように政府が音楽教育に力を入れているようです。確か政府が立てた音楽学校に無償で入れて才能を開花させるのではなかったでしょうか。貧困に立ち向かうこれも一つの方法だと思います。

4は2と同様タイトルしか覚えていません。日本の町工場には高い技術をもつ職人さんが大勢いたし今もいるのだろうと思うのですが、そういった職人さんを著者が一人一人尋ねていくルポだったと思います。

5の話はなかなか面白そうです。それにしてもみすず書房は科学から文学まで守備範囲が広いです。装幀がきれいですよね、みすず書房の本って。みすず書房の白いカバーは一種神々しい趣すらあります。もちろん、お値段もそれなりに高いです。

6の「すごい空」は本当にすごい空なんでしょうね。ほとんど内容についての記憶がないので多分そうだとしか言いようがありません。

7はフンボルトとガウスを主人公にした小説。一方は世界各地を自由に旅行していた地理学者で探検家のフンボルト、他方は祖国から離れなかった数学者で天文学者のガウス。この両者の対照的な姿が面白そうです。18~19世紀のドイツに生きた二人の学者の人生を描いた「哲学的冒険小説」なのだそうです。ドイツでは100万部を越えるベストセラーになったらしいのですが、ということは読みやすいのかそれともドイツ人が哲学好きなのか。いずれにしても面白そうな一冊です。

以上春の読書リストですが、興味をそそられたタイトルがありましたか。

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2009年4月 9日 (木)

夢十夜

夏目漱石の「夢十夜」をお読みになったことがあるだろうか。

連作短編とでも言えばいいのだろうか。内容はさまざまであるが、タイトルにあるように第一夜から第十夜まで夢の中の情景のような短編がまとめられている。

漱石といえば明治の文豪であり、「坊っちゃん」や「吾輩は猫である」に始まり「こころ」や未完の「明暗」に至る小説の方が有名だと思う。しかし、この「夢十夜」には夢の世界の不条理感や不可思議な感触がそのまま小説に表現されたような奇妙な味わいがある。繊細さと詩のような凝縮された世界を持つ作品群である。

その中に怖さに目が覚める悪夢のような話もある。といってよくあるようなホラーストーリーではない。「第三夜」に描かれた話は、どんな怪談よりぞっとするものだと私には思われる。夢の中で「自分」は六歳になる子どもを背負っている。確かに自分の子であるのだが、いつの間にか眼が潰れて、青坊主になっている。背負われている子どもと「自分」とのやりとりが怖い。具体的にどう怖いのかうまく説明できないのだが、とにかく怖い。ぜひご一読をお薦めする。この第三夜の不気味さにまさる怪談を私は知らない。寝る前に読んだら本当にうなされそうな話だ。

「第一夜」は何かの寓意が込められているのだろうか。それとも夢をモチーフに短編化しただけなのだろうか。おとぎ話のような不思議な感触と美しさがある。「第六夜」の運慶の話は現代文の問題集などにも取り上げられているのを見たことがある。あまり違和感無く読める話かもしれない。もちろん夢の中の出来事が持つ妙な感触は失われてはいないのだが。

漱石が夢を題材としたこういう短編を残したというのが興味深い。夢の不条理感や不可思議感に何か惹かれるものがあったのかもしれない。

夢といえば先日の明け方、亡くなった友人の夢を見た。三年前の暮れに病気で亡くなった中学時代の同級生である。元気だった頃の姿だった。どこなのかよく分からない場所で立ち話をしている。友人はいつものように煙草をプカプカやりながら笑顔で何ごとか話していた。何を話していたのか思い出せない。夢を見ている間は亡くなったことを忘れていた。すっと目が覚め、ぼんやりした頭で「ああ亡くなったんだったなあ」と思い出した。

この友人の病が重くなって、ちびやまめさんたちと盛岡の病院に駆けつけたときの朝に見た夢も忘れられない。場所は友人の家の二階である。友人は書棚の前に立って話をしている。例によって何を話していたのか思い出せない。顔の表情も逆光になってよく分からない。その友人の背にした窓の外に飛行機が墜落してくるのが見える。ものすごい速さで友人の家の周りを旋回しながら墜落し、機体が地中にめり込んでいく。次の瞬間、家がぐらりと揺れて回転し始めた。ハッとして目が覚めた。病気で入院しているのは知っていた。友人の身に何かあったのかもしれないという気がしてならなかった。その日のうちに共通の友人から連絡があり病院に来てほしいという。その時は重篤な状態になったからというわけではなく友人の母親から会いに来てやってほしいという話があってのことだった。病床にあった友人が夢を見て、その夢の中で親しい友人たちが声を掛けても背を向けてしまうんだと言っていたのを聞いて母親が我々に連絡を寄こしたのだった。

先日見た夢の中の友人は、いつもと変わりがない姿に見えた。一体何を伝えたかったのだろう。

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2009年4月 8日 (水)

部会長を引き受けました

行政区長さんから地域計画の策定委員に推薦されたという話と第1回の会合の際の話を以前に載せたが、先日第2回の会合があった。

今回は地域の具体的な将来像を検討しようということで、ブレーンストーミング形式で十年後の地域の姿を考えた。五つのテーブルに分かれていたが席の指定はなかったので偶然一緒になった委員で将来像を考えていくことになった。たまたま私の座ったテーブルは委員のやりとりが盛り上がって面白かった。

席に着いて早々同年代くらいの委員がいたので話をしてみると、妹の同級生であり、うちの自治会におじさんが住んでいるという人だった。この委員と私が分担してとりまとめを行い、発表用の書き出しはその方に頼み発表は私が担当した。他の委員の方ともあれこれ地域のこれからの姿に関して楽しく議論ができた。

あっという間に予定の2時間が過ぎ、会の終了間際に前回希望をとった各部会ごとのテーブルに分かれ、部会長と副部会長を決めることになった。私は第一希望の教育文化部会の所属となり決められたテーブルに移動した。ところが7人いるはずの部会の委員が4人しかいない。しかも男性の委員ばかりで女性委員は全員欠席。これは予想外だった。とりあえず4人で自己紹介し、どうしようかという話になったが、一番年上の委員の方が「小林さん、部会長を引き受けてくれませんか?」と切り出し、結局引き受けることになった。副部会長は私が指名してお願いし、あっさり決まった。が、それにしても女性委員のみなさんはどうしたのだ?という話になった。教育文化部会には特に女性の視点や意見が重要なので期待していたのだが、誰も出席していないとは思ってもみなかった。

次回からは部会ごとの会合となるが、その前に一度部会長、副部会長が出席する合同会議が開かれる。その場で部会での検討事項の確認が行われるという話である。教育文化部会は19日の日曜に会合を予定しており、今度は女性委員のみなさんも集まってくれることを期待している。せっかくこの先十年の地域計画に参加できる機会をもらったのだから、楽しまないと損である。部会の作成した計画が全て採用になるわけではないが、最終案をまとめる土台となるのでやりがいはある。これから十年経ったらこうなっていてほしいという地域の姿を自分たちが考えて作っていくというのはなんだかワクワクする。

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2009年4月 7日 (火)

古典の底力・その7

今回紹介したいのは「堤中納言物語」。これは平安時代の短編集である。以前「伊勢物語」の筒井筒の段を紹介したとき(こちら )に歌徳説話の類例として「堤中納言物語」に入っている「はいずみ」という話を取り上げた。この「はいずみ」などは現代の短編小説に焼き直してもいいくらい話の展開が面白い。

ここで文学史のおさらいをしておくと、「竹取物語」に始まる「作り物語」の系統と「伊勢物語」に始まる「歌物語」の系統が「源氏物語」で統合され、一つのピークを迎える。「源氏物語」があまりにもすぐれた作品であったため、それ以降の物語(特に長編の物語)は「源氏物語」の亜流であることを避けられなかった。物語の享受者たちも「源氏物語」で味わった面白さを要求したであろうから、後から来た作者たちには気の毒といえば気の毒な話だ。だがあまりにも影響力の大きい傑作長編物語の後では、いかなる長編物語を作ってもかすんでしか見えなかっただろう。その中で「堤中納言物語」は異彩を放っている。

まず短編であるということ。各短編の色合いが一色ではないということ。源氏物語の亜流に飽きた物語享受層に向けて目新しいものをということで作られたわけでもなかろうが、珍奇な話が集められている。十編の話からなり、その中で「逢坂越えぬ権中納言」という短編が天喜三年(1055年)の「物語合わせ」に小式部作として提出されたことが知られるだけで他は制作年代等不明である。

小式部といえば後冷泉帝の皇后寛子に仕えていた女房の一人ではないか。また天喜三年というと陸奥国守として任地に下っていた源頼義の任期が終わる前年である。翌天喜四年、頼義一行が鎮守府の府務を終えて帰る途中阿久利川のほとりで、随行していた藤原光貞・元貞らの人馬が殺傷される。この阿久利川事件をきっかけに頼義は安倍氏を攻め、前九年の役が再燃する。

そのような時期にと思わないわけでもないが、都を遠く離れた地方の争乱は後宮までは影響を及ぼさなかったのであろう。十編の中の一つ「虫めづる姫君」には芋虫から蝶になるまでの過程を観察するのが好きな一風変わった姫君が登場する。現代なら理系に進む女の子ということで何も不思議がられはしない。しかし平安末頃には相当奇異な目で見られたであろう。眉毛を抜くことをいやがったという描写もあり、なんだか筒井康隆の「時越半四郎」の平安時代版みたいな感じもする。

一番好きな話は「貝合(あはせ)」だ。樋口一葉の「たけくらべ」の世界に通じるような、子どもから大人への入り口あたりにいる少年少女たちの姿が繊細な筆致で描かれている。淡いパステル調の絵を見ているような気分になる。貴公子は出てくるが基本的に大人は出てこない。このあたりが繊細な叙情性を強く感じさせる一因かもしれない。

この「貝合」もそうだが、今なら少女漫画家あたりが「堤中納言物語」をコミックとして世に出すと意外に受けるかもしれない。短編だから描きやすいし、「はいずみ」などはしっかりオチもあるし。ちょっとひねった恋愛譚が多いのだからコミック向きではないか。それとももうすでに誰か描いているんだろうか。

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2009年4月 6日 (月)

肖像画の楽しみ

絵を見るのは楽しい。若い頃から画集や展覧会を見るのが好きだった。最近は展覧会や美術館に行く機会もほとんどなくなってしまったが、以前は時間を作って見に行ったこともある。

好きな画家は誰だろうと思うと、これが支離滅裂で印象派も好きだがダリも好きだしフェルメールもいいしロートレックもいいなあ。ただし、肖像画はルノワールに限る。

Renoir_partyRenoir21手近に画集をお持ちの方はぜひご覧になってほしい。持っていない方は図書館に行けば立派な美術全集がそろっているので、それをご覧になるとよいが、ルノワールの肖像画ほどほっとするものはない。技術がどうとかではなく、人物をこれほど魅力的に描いた画家は他にないのではないか。特に顔の表情である。ルノワールの描く肖像画は、どれも人物の顔の表情がこの上もなく魅力的だ。微笑しているものも多い。肖像画でなくても人物を描かせたらルノワールの描写は最高である。視線が交錯する「船上の昼食」(左)や「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(右)など多くの人物が画面にあふれんばかりに描かれた絵でも、人物の表情は魅力的で印象的だ。

同じ人物像でもロートレックになると画家の皮肉な視線が感じられ戯画化されたものになる。ルノワールの人物はあたたかみがあって、内側から輝いて見える。この輝きは何なのだろう。ルノワールが感じ取った人物の内面性なのか。それとも何か他のものなのか。見ているこちらも幸せな気分になるというのが不思議なところだ。

Micbox_renoir018

Renoir_chocquet Pierre_auguste_renoir_rep010

左から「イレーヌ・カエン・ダンベール」「ショッケ」「ジャンヌ・サマリー」の肖像。画像が小さいのでわかりにくいかもしれないが、子どもの肖像でも大人の肖像でも魅力のある作品になっている。中でも「イレーヌ・カエン・ダンベール」の透明感はすばらしい。子どもを描いたルノワールの作品はどれもいいのだけれど、この作品は別格の美しさがあるように思う。「ショッケ」と「ジャンヌ・サマリー」はどちらも微笑を浮かべているやわらかな表情に引き込まれる。どの肖像も見ているだけで至福の時間を過ごすことができる。

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2009年4月 5日 (日)

継続は…

何かを毎日継続していくというのは、なかなか大変なことである。朝起きて顔を洗い、歯を磨きといった日常のことはごく当たり前のように毎日続けていると思うのだが、何かを意識的に継続しようと思って始めると、長続きしないことがある。いわゆる三日坊主だ。

私は基本的に飽きやすいので一つのことが長続きしない。典型的な三日坊主である。しかし習慣になるところまで続けると、あまり意識しなくても体がすぐに動くようになる。これが無意識にできれば最高なのだが。たとえば教室の掃除。以前は入室時に掃除していたが、これだと急な来客や生徒の入室が予想外に早いときに対応できないので、最近になって帰る前に掃除するようにしている。掃除はほぼ手順が決まっているので、毎日同じ作業手順であまり考えずに体が動いていく。

入室時に必ずすることにしているのは、トイレ掃除と机の雑巾掛けである。トイレ掃除は面白い。汚れの落ち具合が一目瞭然なので、達成感が得やすい。トイレ掃除から机の雑巾掛けまで一連の作業で、ほとんど何も考えずに体を動かしている。

こんな風にあまり考えなくても体が動くレベルまで習慣化すれば、たぶんどんなことでも長く続けられるのだと思う。3月の半ば頃から毎日ブログを更新してみようと始めてみたが、まだまだ意識的に取りかからないといけない。意識的に、ということは意識しないとついサボってしまうということでもある。

たとえばもっと別なものにすればわかりやすいのだろうが、毎日100円ずつ貯めることにすると月に3000円が貯まる。一年で3万6千円である。貯めなくても節約でもいい。具体的な金額を考えると結構な額になる。他のものごとでも本当は同じなのだと思う。お金の額で考えれば分かるように、どんなものでも継続していけばそれなりの量が蓄積していくはずである。たとえば英単語を毎日10個覚えるとすれば、1ヶ月で300個、1年で3600個になる。なあんだ、センター試験くらいの単語は一年あればクリアできるんじゃないか。もちろん覚える一方で忘れていくからそう単純に話は進まないが、それでも継続して何かを覚えたり練習することがいかに大事かという話である。

習慣化するのに大事なことは何だろう。すぐに取りかかれるようになっていること。作業の手順を完全に把握していること。体を動かすこと。たぶん、こんなところだろうか。いずれにしても習慣となるまでにはあるところまでは意識的に取りかかる必要がありそうだ。

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2009年4月 4日 (土)

ハッピーニュース

日本新聞協会で発表している「ハッピーニュース」というものがある。2008年の大賞が決まり紹介されている。(こちら)

大賞は阪神大震災後に生まれた弟が、震災で亡くなった兄の形見のランドセルを「僕が背負う」と言って学校に通っている男の子の記事。ご両親の気持ちを思うと胸が一杯になる。

この他にもいくつかのハッピーニュースが掲載されているが、中でも一番興味深かったのが、乗客に四つ葉のクローバーを贈り続けているタクシーの運転手さんの記事。これはTBSの「はなまるマーケット」でも紹介されていたが、花言葉などを印刷した紙片とともにひとつひとつ小さなビニールパックに入れてお客さんに渡していた。

たまたま乗ったタクシーで運転手さんから四つ葉のクローバーをいただいたら、ホントにラッキーだと思うだろう。この運転手さんはすでに1万本のクローバーを贈り続けているのだが、最初は仕事の合間をぬって四つ葉のクローバーを探していたそうだ。それが四つ葉のクローバーを株ごともってきてそれを栽培して増やすまでになったらしい。四つ葉のクローバーを栽培で増やすという発想が面白いと思った。すべて四つ葉になるわけではないそうだが、確実に四つ葉のクローバーを確保できるわけだ。

四つ葉のクローバーは電話帳を利用して押し花にされる。緑色が変色しないように何度もページを変えて作っていく。手間のかかる話だ。もらった人の反応は詳細まで載せていないので分からないが、大概の人は喜ぶのではないだろうか。あまり怒る人はいないだろう。ただ単にサービスの一環ということではなく、ほっと心が和んでくれればという運転手さんの気持ちがこちらにも伝わってくるような話だと思った。

世の中は不況、経済危機と暗い話題ばかりがニュースや紙面を覆っているような気がする。しかし、ささやかだが心温まるハッピーニュースが新聞のどこかに載っているときがある。暗闇の中に小さく見える灯のように、ほっとし心が励まされる記事の数々だと思う。世の中捨てたものじゃないなという気持ちが多くの人に広がっていくことが大事なのではないかとも思う。

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2009年4月 3日 (金)

いい試合でした

岩手県勢のみならず東北初の優勝旗を持ち帰ることはできなかったが、花巻東高校はよく戦ったと思う。長崎の清峰高校も見事な優勝だった。予想どおり菊池、今村両投手が一歩も譲らない緊迫した投手戦となりいい試合だった。

細かい技術的なことは分からない。しかし両エースが最後まで投げきり、全力でぶつかり合った試合は見ごたえがあった。後から振り返るとあのときあのプレーが無ければとか、あのチャンスで得点できていればと思うことはあるだろう。だが、その後悔は当の選手自身や監督が次につなげるために身にしみて味わえばよいことで、周囲が責めるべきことではない。

むしろ、一つ一つの細部の積み重ねが大きな結果をもたらすのだということをあらためて強く感じた。それぞれの局面でどのような意味があるのか分からなくても、やはり小さな場面で全力を尽くすことが何よりも大事だということなのだろう。疲労から一瞬気をゆるめた瞬間を見すかしたように勝利の女神は一方にしか微笑まなかった。7回表の清峰高校の攻撃で、2アウトからフォアボールのランナーを出した場面に緊張感はなかった。打順は9番。ここで打ち取ればよい。おそらく花巻東高校の誰もがそう思ったにちがいない。しかしその一瞬のゆるんだ空気を鋭い金属バットの音が切り裂き、フェンスに当たる長打。均衡が崩れた瞬間だった。

なんでもない場面だった。凡退させるだけの技術を菊池君は持っていたのだし、その前の回までは3塁にランナーがいてもきっちりと押さえてきたのだ。警戒される打順でなかったことが清峰高校には幸運だった。結果的にこの1点で清峰は優勝できたのだから、本当にどちらに勝利が転がってもおかしくなかった。終わってみるまではわからないものだ。

花巻東高校が大活躍したことで、今年はひさびさにしっかりと選抜高校野球を見た。花巻東も清峰も夏の甲子園に必ず戻ってきて、もう一度対戦してほしいものだと思う。

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2009年4月 2日 (木)

花巻東の決勝進出に思う

選抜高校野球の決勝戦は長崎の清峰高校と岩手の花巻東高校の対戦である。どちらの高校もエースが無失点を重ねてきたチームだが、準決勝でそれぞれ初失点を記録した。決勝は右の大会屈指、清峰今村君と左の大会屈指、花巻東菊池君の投手戦になるかもしれない。いい試合になるだろう。

岩手の高校が選抜大会で決勝まで進むとは夢にも思わなかった。冬の間、外での練習ができない北の高校球児に春の選抜は不利だというのは、もう昔の話になってしまったのだろう。全国のどこのチームであってもあまり差がなくなってしまった。もちろん甲子園の常連校と初出場の高校ではおのずと違いはあるだろうが、試合が始まってしまうと地域的な差を感じさせなくなったように思う。

花巻東の出場が決まっても、実のところあまり期待していなかった。新聞で菊池君が大会屈指の左腕で150キロ近くを投げると目にして、ほお、これはもしかして2回戦くらいまではいけるかもしれないと思った。あくまでも2回戦である。岩手のチームが進めるのはいいところその辺りまでである。そういう先入観があった。

しかし、その先入観は見事に覆された。これだけの投手を擁している高校が地元にあったとは。野球部の高校生が来ていないこともあるのだが、県内の野球部の勢力図がどう変わっているのかまったく知らなかった。しかも岩手の高校は甲子園で活躍できないという思い込みは、私たちのような大人の思い込みでしかないのかもしれない。花巻東の選手たちの活躍ぶりは堂々としたもので全国大会だからというような気負いや気後れなど微塵も感じさせない。ずいぶん変わったものだ。花巻東の監督さんがどういう指導をされているのか知らないが、おそらく自信を持って試合に臨めるようなメンタル面の指導も十分にされているのではないかと思う。岩手のチームだからとか、全国のレベルははるかに高いとか、そういうマイナスの暗示ではなくしっかり練習し力をつければ全国に通用するというプラスの暗示をかけているのではないだろうか。

高校サッカーではすでに盛岡商業が全国制覇を果たしている。サッカーは盛岡商業や遠野高校のように全国レベルの試合ができるというイメージを持たれている高校がいくつか県内にあるため、野球の場合ほど意外性はなかったのかもしれない。それでも盛岡商業が全国の頂点に立ったときはとうとうそういうレベルまできたのかと感慨が深かった。もしかすると花巻東の監督、選手の意識にもサッカーで盛岡商業が全国制覇できたのだから自分たちだってという気持ちがあるのかもしれない。

岩手だから勝てないとか、初戦突破くらいしかできないというマイナスのイメージを払拭する花巻東の活躍は、県内の高校生に大きな自信を与えると思う。スポーツだけでなくさまざまな分野で、自分たちもという気持ちが県内の高校生の間に広がっていくことを期待したい。全国でも互角に戦える。気持ちで負けないことが大事なのだとあらためて思う。今日の決勝で花巻東が優勝できるかどうかは分からない。とにかくいい試合を見せて欲しいものだと思う。

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2009年4月 1日 (水)

えっ、そうなんですか?

「大験セミナー」の金田先生や「釣れづれ物語」のちびやまめさんはご存じだが、実はうちの家内は同業者である。「小林英数教室」という学習塾を自宅の2階で営んでいる。宣伝はほとんどせず口コミだけで細々と続けており、看板すら出していない。

自宅の2階の部屋は元々は子ども部屋になる予定だったのだが、家内が教室に使い始めてそのまま仕事部屋になってしまい、息子の部屋は見かねたジイさんバアさんが下に建て増しをしてくれた。ありがたい限りである。そんな話はどうでもよい。この2階の教室は隣がふだん自分たちのいる居間であり、このブログを発信している古いPCもここにある。

そのため、ごくたまにだが早く帰宅した私がPCの前に座ると隣から授業の声が聞こえてくることがある。家内は私が隣の居間にいることを非常にいやがる。露骨にいやな顔をする。いいじゃねえか、別にじゃまをするわけでもなし、指導の方法にくちばしを入れたり批判めいたことを言うわけでもねえんだ、隣でPCいじってるくれえがまんしやがれと落語に出てくる江戸っ子みたいに啖呵を切りたいところだが、現実は甘くない。早々に退散して息子の部屋に転がり込み2階の授業が終わるのを待つことが多い。

まあ家内が授業をしているときに隣に私がいるのをいやがるのは、分からないでもない。同業者に授業の様子を見られたり、聞かれたりするのは気が進まないということなのだろう。夫婦といえども同業他社だから(実際、家内の教室は学び舎とはまったく関係がありません)、そんなものかもしれない。

昔、金田先生と一緒の塾で教えていた頃、夏期講習や冬期講習が近くなると必ず「模擬授業」というものがあり、これが何となく気が重かった。自分の授業を生徒や父兄ではなく、同業の講師に見てもらい批評を受けるという機会はそうあるわけではなかったから、余計にあれこれ考えることが多かった。特に年数が経ってくると新人の講師にモデルケースにしてもらうような授業を見せなければならず、それも気が重くなる理由の一つだった。

模擬授業ではなく、かえって実際の夏期講習や冬期講習のときに同じ教室担当で入って見聞きした授業の方が、いろいろ刺激になった。金田先生の歴史の授業で「君たちは歴史の暗記が多くて大変だ、大変だと言うけれど、地球ができて45億年という時間を考えてみてほしい。その時間からしたら人間の歴史なんてほんの一瞬にしかすぎないんだよ」正確に覚えていないが、こんな導入だったと思う。うわあ、すごい話から入るんだなあと感心したのを思い出す。他の先生の技術を学び取ったり、自分の指導を見直すいい機会だったなと思う。

家内はこのブログを見ていないはずだから、こうして好き勝手なことを書き散らせるのだが、口惜しいことに家内の方が授業が上手い。隣で行われている授業をなにげなく耳にしていると、ほお、なるほどそう説明しますか。うーむ、生徒の乗せ方が上手い。こう言われたらやらないわけにはいかんよなあ。そんなふうに思ってしまうことがよくある。家内の教室は生徒・保護者の口コミでは評判がよいのだそうである。

ホントに口惜しいけれど、彼女の方が私より授業が上手い。なんとかあの上手い授業を盗まなければと思っているのだが…。

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