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2009年2月11日 (水)

立川談志はマイルスである・まとめ

「居残り左平次」という大ネタの途中、談志は冗談のように「言っとくけどね、これ最後の落語だよ」という一言をはさむ。幾分かは本音だろう。それにしても最後かもしれないと言うネタになぜ「居残り左平次」なのか。

前回古今亭志ん朝の噺と比較して見てきたように、戯画的で陽気な志ん朝の左平次に比べ、談志の左平次はリアルである。等身大の詐欺師。しかも計画性があまり強く感じられない。冒頭で四人組の男に声を掛けたのもたまたま。品川の大きな店で「居残り」になってからの展開も成り行きまかせ。だから最後に居残りを稼業にしている居残りの左平次ってんだ、よく覚えときなという捨てゼリフの見得もない。プロの詐欺師なのに成り行きまかせという印象の噺である。

談志は、落語家としての自分がたどってきた道筋を「居残り左平次」に重ねて表したかったのではないか。そこには「人生、成り行き」という談志の哲学が込められているのだとも感じる。分かったような口をきくんじゃないよ、と談志から一喝されそうだが、体力的にも声の具合からも最後まで話しきれるのかという不安感と闘いながらこの大ネタを最後まで語りきった談志は見事である。プロであるがゆえに成り行きにまかせても最後まで噺をもっていくことができる。論語の七十にして矩を越えずの境地そのものではないか。

自在な話芸である。引用の豊富さ、都々逸やら小唄やらの一節、ありとあらゆる芸のストックが惜しげもなく披露される。三遊亭圓生師のまねも聞ける。談志は若いときのひとり会の頃から先輩の師匠連や講釈師たちの口調をまねるのがうまかった。ところどころに他の落語からの一節も差し込まれる。「抱いてるオレは誰だろう」「のぞいて見るとじいっと餅をながめている」などなど、まるでジャズのインプロビゼーションである。ジャズの演奏が最後にテーマに帰って終わるように、談志の落語も自由奔放に語られているようでいてしっかり噺の枠に収まり本筋に戻ってサゲになる。どう演じても落語になる、談志が落語そのものである。

と考えて浮かんできたのが表題のマイルスである。どんどん自分のスタイルを変え、他の演者に多大な影響を与え一つのスクールを形成し、強烈な個性を振りまきながら光り続けた巨星。電子的に加工しようが何しようがマイルスの音は誰が聞いてもマイルスと分かる音だった。同じように談志の落語は他のどの落語家とも異なる。談志にしかできない落語。だから落語を聞き始めの人にはあまり薦められない。まったく落語を聞いたことがない人に古典落語を薦めるなら、やはり古今亭志ん朝が一番だろう。古典落語のスタンダードがどういうものか知るには、志ん朝の磨き込まれた珠玉の噺の数々が最もふさわしい。談志の噺は、ある程度落語を聞き込んでからでないとその重層的な引用や新しい解釈の面白みが分からない。

落語という話芸は不思議な芸である。弟子の志の輔に言わせると「何にもないから何でもあるんですよ、何でも出せるんです」ということになる。一人芝居と考えるとよいのかもしれないが、テーマの解釈、細部の演出が演者に委ねられる。志の輔は談志から稽古のときに「お前はこの噺で何が言いたいんだ?」とよく言われましたと語る。そのやりとりから垣間見えるのは、常に古典落語のテーマに新しい解釈ができないか考えている談志の姿である。若い頃に取り上げていた「鼠穴」や「鉄拐」というネタは他の落語家はあまり演じていないのではないか。「田能久」は古今亭志ん生も高座にかけていたようだが。そういう演じられることが少ない古典にも光を当てて自分の話にしてしまうことを意欲的に重ねてきたのが談志である。

NHKの番組の中で爆笑問題の二人が、スタジオに並べられた談志の落語を収録した大量のビデオテープを前に「これに火をつけて全部灰にしちゃったらえらいことになるでしょうね」と真顔で言っていた。映像だけでも相当な量があり、CDにしても「談志百席」は10枚組のボックスが五期分、他に「ひとり会」のボックスもあり、談志落語のすべてを聞こうと思ったら生半可なことではすまなくなる。しかしこれだけ多くの噺が収録されているということはファンには幸せなことである。しかも先日の新聞に今年は久々の独演会を考えているという談志の記事が載っていた。まだまだ枯れることなく演じる気持ちが十分あるようだ。

かつて夏目漱石は明治の落語家で近代落語の祖、三遊亭圓朝に触れて圓朝の同時代人であることを幸せに思うと語ったそうだ。われわれは立川談志という希代の落語家と同時代人であることの幸運に感謝した方がいいのかもしれない。

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コメント

このシリーズ圧巻でしたね。小林先生の真骨頂ここにありという立川談志論でした。随所にうならせる論点がちりばめられていました。
音楽も芸術もそうですが、基本が大切だと言うことを実感しますね。フレームが出来ていないとアドリブは生まれませんし、なんと言っても相手を引きずりこむ妙が生まれません。
今回の小林先生の文章に、私のくすぶっていた何かが鼓動した気がします。とてもおもしろく読ませていただきました。ありがとうございます。

(学び舎主人)
コメントありがとうございます。
正月に放送されたNHKの番組を見て以来、立川談志についてぜひ書いておきたいと思っていましたがなかなかまとまりませんでした。どうしても書きたかったことでしたからスッキリした気分です。
立川談志の落語を聞いていて思うのは、人間の持つ「過剰さ」の魅力ということです。以前にも書いたかもしれませんが、その人のその人たるゆえんを形作っているものは「過剰さ」なのではないかという気がします。たとえばマイルスにしても自分が何故あそこまで演奏にこだわって表現したのかと聞かれたら、どうしても表現したかったからというやむにやまれぬ内的な衝動を挙げるのではないか思います。自分の中の「過剰さ」は時に疎ましくなるときもあるのですが、それが自分という人間を成り立たせているのだと考えれば、あながち否定すべきものではないのかもしれません。

投稿: かねごん | 2009年2月11日 (水) 23時24分

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