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2009年2月 6日 (金)

立川談志はマイルスである・続き

前回に続き、立川談志の演じた「やかん」「粗忽長屋」「居残り左平次」の三席に触れてみたい。

まず「やかん」。爆笑問題の二人が前半の進行役を務めていたが、太田光は談志の「やかん」しか聞いたことがないからこれが「やかん」という落語なのだろうとずっと思っていると言っていた。談志の「やかん」に入る前に番組では十代目桂文治の「やかん」を一部見せた。実は私も桂文治の「やかん」のイメージしかなかった。

「やかん」という噺は軍学者の所(談志では大家の所)へ遊びにやってきた男が、お前のような者が尋ねることなら何でも答えられると豪語する軍学者に質問を浴びせ、「やかんはなんで『やかん』て言うんですかね?」という質問をするところから佳境に入る。

桂文治の噺では佳境に入るまでの軍学者の白を黒と言いくるめるような答え方も珍妙だ。たとえば「マグロはなぜマグロってんです?」と聞く男に「マグロは真っ黒い魚が群れになってやって来る。ああ真っ黒がきた、真っ黒がきたというところからマグロになった」「だけどマグロの切り身は赤えでしょ?」「マグロが切り身で泳いでくるか!」や、冒頭で浅草の観音様にお参りに行って来たという男に「あれは観音様ではない」「観音様じゃねえってえと何て言うんです?」「あれは金竜山浅草寺に安置し奉る正観世音菩薩だ」「へ~、じゃあ何ですかい、今日の今のところはいい塩梅のお天気で、金竜山浅草寺に安置し奉る正観世音菩薩にお参りに行ってきた、って言えばいいんですかい?」「その通りだ」「ふ~ん、ちぢれっ毛の高島田だなあ」「何だ、ちぢれっ毛の高島田と申すのは?」「結うに結いにくいでしょ(言うに言いにくいでしょ)」などくすぐりが満載である。「ちゃわんってのがあるでしょ?あれはなんでちゃわんなんです?」「ちゃわんと置いてあるからちゃわんだ」というやりとりもある。

しかし談志の「やかん」はこの前半部がまるで違う。まったく別の切り口、別の例を取り上げながら随所に箴言(アフォリズム)がちりばめられる。いわく「好奇心を止められるのは恐怖心だけだ」など。「キリンは何で首が長いんです?」「首を長くすることに決めたから長げえんだよ」とか「世の中で一番大きな動物って何だか知ってます?」「象だろ」「象よりもっと大きなのがいますよ」「もっと大きな象だろ」というやりとりが続く。ちゃわんの話も出てくる。「じゃあ、ちゃわんはちゃわんと置いてあるからちゃわんでいいんですかい?」「いいだろう、馬鹿にされるだけだけどな。それを言う人間によるんだよ、オレのような人間が言えば納得されるがな」と古典的なやりとりのパターンを踏まえて談志の解釈が入ってくる。桂文治の「やかん」と比べると、共通するのは「ちゃわん」の話と「うなぎ」の話くらいで同じ噺とは思えないほどの前半部である。だが、後半部の「やかん」の話は伝統的な型へきちんと回帰し、談志得意の講釈も聞くことができる。

「粗忽長屋」にしてもそうだ。談志の師匠柳家小さんが得意にしていた噺であり、また古今亭志ん生が演じたものでは登場する粗忽な連中のバカバカしさが噺の不条理感をみごとに消し去るネタになっている。

噺はこうである。浅草の観音様へお参りに行った八五郎が人だかりに出くわす。何だろうと首をつっこんでみると行き倒れだという。その行き倒れの顔を見て八五郎は「あ、こいつは兄弟分の熊の野郎だ。今本人を連れて引き取りに来させますから」と申し出る。それを聞いた町役人は「本人ってだれです?ご親族?」とわけが分からず問い返すが、八五郎は「行き倒れの本人だよ、本人。ちょいと待っててくんねえ」と長屋へ駆け出す。となりの熊五郎に「大変だぞ。お前が死んでんだぞ」と告げると「え、そいつは大変だ」と熊五郎もいっしょに浅草の現場に駆けつける。町役人は「おい、また来たよ。あの人はわけが分かんなくてやだよ」と困惑するが、二人はかまわず死骸を抱き起こす。熊五郎が「死んでるのはオレだ。死んでるのはオレだけれども、死んでるオレを抱いてるオレはどこの誰だろうな?」というサゲで噺は終わる。

落語でおなじみの八っつぁんこと八五郎と熊さんこと熊五郎の二人がいっしょに出てくる噺だが、いくらそそっかしいといっても死んでるのが自分なのかどうかくらいは分かるだろうと言えばこの噺は成り立たない。古今亭志ん生が演じたように、理詰めではなく粗忽な連中のバカバカしさで不条理感をくるんでしまうことで成立する噺なのだ。

だが談志の場合、アイデンティティの不確実さという「粗忽長屋」の隠れた主題に正面から光を当てる。町役人にそれは違う人ではないか、と言われた八五郎が答えるセリフにまずそれは現れる。「あのね、割と自分のことがよく分かんないヤツなんだよ、こいつ。自分で自分のことがよく分かんないことがある。だからこうなってることに気がついてないんじゃないかとオレは思う」と確信を持って言う八五郎に町役人はわけが分からず、そんなことはあるはずがないと思いながら反論できない。

長屋の熊五郎の所へ駆けつけた八五郎は、大変だお前が死んでるぞと一気にまくし立てる。だって死んだような気がしねえじゃねえかという熊五郎は、それでも昨夜屋台で酒呑んでイカの足かなんか食って気持ち悪くなり吐いたということを思い出す。屋台を出てから後を覚えてねえんだと言う熊五郎に、八五郎はやっぱりなとばかり「だからそん時にお前は死んだんだよ、それを忘れてお前は家に帰ってきた。だから気持ち悪いだろう、気持ち悪いだろってんだ」「悪いよ」「当たり前だ、死んでんだからな」と畳みかける。

この後「行こう、死骸の引き取りに」「誰の?」「お前の」「オ、オレの?オレの死骸をオレが引き取るの?きまりが悪いや」と不条理なおかしさが続く。現場に着いた二人は見物人をかき分けて前に出る。町役人は「また来たよ、あの人。弱ってんだ話が分からなくて。当人つれて来るって…」とぼやくが八五郎はかまわず当人を連れてきましたと言う。二人で死骸の前にしゃがみ込み、これはオレかなあといぶかる熊五郎に八五郎は「だからオレはお前によく言うだろ。朝、顔を洗えヒゲを剃れって言ってるだろ。そん時に、特にヒゲを剃るときにはいやでも鏡を見るだろ。毎日鏡を見てりゃ見た顔が自分だというのが分かる」と押しまくる。おかしな論理展開ではあるのだが、八五郎の論理に押されて熊五郎は納得して例のサゲへとなだれ込んでいく。

おかしな論理であろうと論理的に一貫性がある八五郎の話は、確信的であるがゆえに熊五郎のアイデンティティに対する自信をぐらぐらと揺さぶっていく。「他のだれが言っても信用しなくてもいいよ。友だちのオレがこの目で見てきてお前だと言うんだから間違いねえだろう」「いいか、オレは毎日鏡を見て自分が分かっていて、自分が分かってお前のことも分かってんだ。そのオレがこれはお前だと言うんだからこれ以上確かなことはねえだろう」というセリフに端的に現れているように、談志の「粗忽長屋」は、確信してるヤツが勝ってしまうんだよ結局はということを言いたいのではないだろうか。

今日も表題までたどり着かない。最後の噺「居残り左平次」とともに、さらに次回に続く。

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