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2009年2月18日 (水)

自称が変わるとき

いつの間にか中1の息子が「ぼく」から「オレ」と自称を変えていた。日頃顔を合わせる時間が少ないので気がつかなかったが、おやいつの間にという感じである。そうかそういう年代になったのかと不思議な気分でもある。

自分のことを振り返ってみても、自分のことを「オレ」といういい方で表すようになったのは幾つぐらいからだったのかはっきりとは思い出せないが、たぶん中学ぐらいからだったのかもしれない。

早く親離れしてくれるといいなと思っていたものの、精神的に自立に向かい始めた息子を目にすると少し複雑な気分になる。昨日まで小さい頃の延長のような気分で見ていたのがいつの間にか成長していたんだなと、うれしいような少し寂しいような気持ちといえばよいか。

今日から学年末試験だからということで、今朝は5時起きで試験準備をしていたようだ。珍しいこともあるものだと苦笑した。日頃はぎりぎりまで寝ていて起こされてもぼうっとしながら朝食を食べているのに、まるで別人である。やるときはやりますよということか、とも思ったが「お笑いレッドカーペット」があるみたいだなと水を向けると、「知ってるよ、スペシャルじゃないの」とお笑い番組はしっかりチェックしていた。

数日前、学校から将来の進路についての志望調査用紙が来ていた。息子の目指しているものは知っていたので目新しいことはなかったが、親の希望を書かなければならない欄を見てハタと困った。どうしてもこうなって欲しいという進路があるわけではないからだ。日頃、三者面談の時に「本人の意思に任せています」という親御さんは多い。いざ自分が同じ質問をされる立場になると同じように答えてしまうものだと妙なところで感心してしまった。健康で自活していけるのであればどういう職業を選んで生きていこうとそれは息子の人生なので、最終的には本人に選択を任せたいと思う。

「紺屋の白袴」という慣用句がある。普段よそ様のお子さんにはあれこれと言葉を掛けられるのだが、自分の子どものことは自信がない。こういう接し方でいいのかと思うときもある。しかし親は親の生き方をすればいいのではないかとも思う。子どもは子どもで時には反面教師としながら親の生き方を見ているはずだ。そう考えるとあまり子どもとの接し方や育て方に神経質になる必要はないのではないか。

「親はなくとも子は育つ」というけれど、「親がいない方が子は育つ」のではないかと言っている人がいた。放任になっては論外だが、一つ一つのことに口を出して干渉しすぎると子はスポイルされてしまうような気がする。本人が苦労しなければ分からないことや身に付かないことだって多くあるはずだ。だから、ということを口実にしているわけではないが、たぶん親の勝手を押しつけるスタイルで当分やっていくことになりそうだ。

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コメント

自称が変わる時で感じるのは、子どもが親を呼ぶ呼び方ですね。
我が家の息子は、小学校の3年生まではパパ、ママでした。それがお父さん、お母さんになり、今は「ちょっと」や「ね~」という不思議な名前に私たちが変身しています。
実は私とてそうですね、妻を結婚前までは、○○(言えね~・・笑い)と呼んでおりましたが、それがいつの日か「お母さん」になり「お~い」になり、そして「おばあさん」になっていくのでしょうか。
時代の変遷は呼称に現れますね。

(学び舎主人)
うちはまだわけの分からないうちから「おとうさん、おかあさん」と呼ばせていたので、今もそのままです。
私がカミさんを呼ぶときの呼称は「お母さん」になっております。ときどき「あたしはあなたのお母さんじゃないのよ」とキレるのが困りものですが、伝統的な日本の家庭習慣に従って一番年が若い息子を基準にした呼び方になってます。

投稿: かねごん | 2009年2月19日 (木) 13時35分

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