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2009年2月

2009年2月25日 (水)

読書メモ・2月(2009)

時間が無くて本を読みたいと渇望している状態の方が本は読めるのかもしれない。

冬休みが終わって少し時間ができると、かえって本を読む時間が少なくなってしまった。1月後半はほとんど読了しておらず、2月に入っても読みかけのままの本が多い。というわけでごくわずかしか読了したものはないが、以下の通り。

1 「文学増刊 圓朝の世界」岩波書店・2000年
2 「忠臣蔵」秋山駿・新潮社・2008年
3 「三国志(三)」吉川英治・講談社(吉川英治歴史時代文庫)・1989年
4 「日本人が知らない恐るべき真実」安部芳裕・晋遊舎・2008年

1の「圓朝の世界」は没後百年に当たる2000年に岩波書店から「文学増刊」として出されたもの。三遊亭圓朝は近代落語の祖と言われている。数多くの人情噺や怪談噺を残し、「文七元結」「牡丹灯籠」「真景累ヶ淵」「芝浜」「鰍沢」などなど現在でもその作品群は演じられている。その圓朝作品の中に「鹽原(しおばら)多助一代記」というものがあり、江戸時代に実在した商人の史実に取材したものがある。この作品の後編にあたる「鹽原多助後日譚」があらたに発見され、その全編を載せている。「芝浜」や「文七元結」の落語を聞いて圓朝の作品を読みたいと思っていたところだったので興味深く読んだ。現代の読者には教訓臭が強くて受けないだろうなとは思ったが、多助がさまざまな出来事に遭遇しながらあわてることなく処理していく手際にはいろいろ学ぶべき所も多い。

2は偶然、移動図書で目にして借りた一冊。秋山駿の名前は文芸評論家としてつとに耳にしていたが文芸誌で評論を読んだことがあるだけだった。たぶん一番新しい単行本なのだと思う。新潮社の「波」に一年ほど掲載された忠臣蔵を巡る考察を一冊にまとめたもので、元禄と平成の時代の類似性に触れながら、「忠臣蔵」という物語が創られていく過程を論じている。
掲載期間の制約からなのか考察は討ち入りまでの物語化に重点を置き、討ち入りそのものには触れない。が、江戸城松の廊下で浅野内匠頭(たくみのかみ)が吉良上野介(こうずけのすけ)に切りつけた刃傷事件を仕組んだのは五代将軍綱吉と御側用人柳澤吉保であるという考察は秀逸である。仕組んだ理由の一半は綱吉母桂昌院の従一位贈位に対する宮中への返礼であるとする。もう一半の理由は不人気な「生類憐れみの令」からいくらかでも世間の目をそらし、もっと劇的なドラマで世間の心を沸き立たせたいという意図からだろうと論を進める。江戸に赤穂浪士たちが集まることを黙認したのも柳澤吉保だとする。確かに大石内蔵助(くらのすけ)が江戸入りするとき要所にある関所や各藩は何をしていたのかと考えると、御側用人柳澤吉保が手配して江戸まで足留めされることなく入れるようにしていたのではないかという説には説得力がある。もう少しボリュームのある論考を読みたかった。忠臣蔵のテーマで同じ作者の本格的な論考が出ることを期待したい。それにしても忠臣蔵はなぜこうもおもしろいのだろう。

3は前回に続き、八巻ある文庫版の第三冊目。ついに呂布が曹操に斬られてしまった。この場面も忘れているなあ。呂布に就いた陳宮を助命したかった曹操だが、逆に陳宮は早く頸をはねろと催促する。劉備が徐州を追われ袁紹を頼り、関羽は曹操の許に一時預かりの客将となる。そういえばそのような場面があった。このあたりは覚えている。禰衡(ねいこう)という毒舌家のエピソードなどはまったく記憶がない。こういうちょっとしたエピソードも吉川英治はさりげなく入れて曹操の人物造型に深みを与えている。吉川三国志のおもしろさは傍流の話をきちんと配置しているところにあるのかもしれない。

4は著者がブログで公開していた内容を刊行したもの。ちなみにブログはこちら 「日本人が知らない恐るべき真実」。リンク集の2005年8月のところに最初の記事が載っている。急速に悪化している経済情勢の中で著者が紹介する「地域通貨」の発想は、雇用を創出し地域が再生する一つの方策となるかもしれない。日本はすでに財政破綻しているのではないかという現状分析から始まり、グローバリゼーションが破壊していくものを考察し、「お金」の本質が何であるのかを明らかにする。自分がいかに「お金」のことを知らなかったかよく分かった。と同時に深刻化する不況の風の中、どうやって新しい雇用を創出し地域の活力を再生させていくかということを思うとき、著者の提唱する「地域通貨」は現実味のある方策ではないかという気がする。しばらく「地域通貨」を巡る書籍をあさる日々が続きそうだ。特に『モモ』で知られるミヒャエル・エンデが注目していたシルビオ・ゲゼルという経済学者の理論と地域通貨の運用の実際に興味を引かれる。

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2009年2月23日 (月)

春期ゼミのお知らせ(2009年)

今日は塾からのお知らせです。

春休みの期間に、この1年間で学習した項目の総復習をしておくことは大事なことです。特に新中3生になるみなさんは、受験に向けてスタートを切るよい時期です。十分に理解しているところと、そうでないところを自分でもしっかり把握し、これからどの部分に力を入れていけばいいか見通しを立てて新学年を迎えましょう。

また、新学年から塾に通ってみたいけれども、どこを選べばよいか迷っている方は、体験入学を兼ねてゼミを受けてみてはいかがでしょうか。自分に合うかどうかは、ある程度の期間実際に受講してみないとなかなか分からないものです。ふだんの体験入学では時間が少なくて判断しにくいとお考えの保護者の方もいらっしゃるかと思います。塾選びの参考にしていただければということで、春期ゼミは低料金で7回のコースを予定しています。1科目からでも受講できますので、お気軽にご利用下さい。

個別対応の形式で授業しますので、指導時間帯はそれぞれご相談しながら決めていきます。ただ、一定人数までしか受け入れできませんこと、あらかじめご了承下さい。日程等は以下の通りです。

    【学び舎の春期ゼミ】

    対 象  …  新中1生~新中3生

    日 時  …  3/21~28 (計7回)   14:00~20:00
                ※3/22(日)は休講日です

    科 目  …  英語・数学・国語・理科・社会から3科目まで選択できます

    受講料  …  1科目(50分)         6,000円
              2科目(1時間半)    10,000円
              3科目(2時間)       15,000円
                             ※テキスト代も含んでいます

    [ 問い合わせ ]

    奥州市水沢区東大通り3-3-28  タクシー会館3階

        個別指導 学び舎    0197-23-2315

なお、申し込みは3月14日頃で締め切りますのでその前にご連絡ください。新中1生(現小6生)の英語も可能です。

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2009年2月20日 (金)

「音」にまつわる話

塾生の間で、以前話題になっていた事柄がある。何かと思えば「なぜ学び舎の先生は電話が鳴る前にかかってきたことが分かるのか」というものだった。

ずっと不思議に思っていたある生徒が、いつものように呼び出し音が鳴る前に電話の所に行ってきた私に「先生、なんで電話だって分かるんですか?」「ああ、あれね。うーん。超能力…フフフ」「えっ!そうなんですか!?電話が鳴るって分かるんですか?」「そうだなあ、分かるんだよ。鳴る予感がするんだよなあ、なぜか」と私も生徒の疑問に合わせて悪ノリする。

何のことはない。種明かしをすると、呼び出し音が鳴る前に微かに聞こえる「音」で分かるだけの話なのだ。教室の電話はFAX機能をもつコピー機のライン出力に接続している。外からの電話と同時に省電力モードのコピー機が立ち上がる直前、電圧が変わるか何かの関係で「プーン」という微かな短音を出す。この「音」が聞こえると電話だなと分かるので、呼び出し音が鳴る前に電話の前に立つことができるのである。

入塾して間もなくの生徒はたいがい不思議そうな表情を浮かべる。遠慮してなかなかその疑問を口に出来ない生徒もいるのだが、好奇心旺盛な生徒は必ず「何で分かるんですか?」と聞いてくる。よほど不思議に映るようだ。

種明かしをしてからも、「この間から、電話の時に聞こえるか耳を澄ましてるんですけど、例の『音』は聞こえませんよ」といぶかるケースが多い。確かに他の音、たとえば私の説明している声や友だちの声などで聞こえない場合もある。問題演習に集中し始めて静かになると電話に近い席の生徒には聞こえると思うのだが、やはり問題に神経が集中しているので聞こえないのだろう。

それで思い出したのが岩手県の公立高校入試問題にあった英語の対話文。17年度頃の問題だったと思うが、ニューヨークの大通りでコオロギの鳴き声を耳にする日本人の少年の話が出てくる。アメリカ人の友人は「君は何でも聞き取れる耳を持ってるんだね」と感心するが、少年は「ぼくの耳は君のと同じだよ」とある実験をしてみせる。ポケットからコインを1枚出して舗道に放る。チャリンという音を耳にして数人の通行人が振り返る。「ほらね。人は自分にとって大事なものは聞こえるんだよ」

問い合わせや保護者からの連絡など、私にとって外からの電話は大事なものだから例の「音」が聞こえるというわけか、なるほどと納得。これからは種明かしをしないで、Mr.マリックみたいに「超魔術」ですと生徒を煙に巻いていこうかなとよからぬことを考えている。

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2009年2月18日 (水)

自称が変わるとき

いつの間にか中1の息子が「ぼく」から「オレ」と自称を変えていた。日頃顔を合わせる時間が少ないので気がつかなかったが、おやいつの間にという感じである。そうかそういう年代になったのかと不思議な気分でもある。

自分のことを振り返ってみても、自分のことを「オレ」といういい方で表すようになったのは幾つぐらいからだったのかはっきりとは思い出せないが、たぶん中学ぐらいからだったのかもしれない。

早く親離れしてくれるといいなと思っていたものの、精神的に自立に向かい始めた息子を目にすると少し複雑な気分になる。昨日まで小さい頃の延長のような気分で見ていたのがいつの間にか成長していたんだなと、うれしいような少し寂しいような気持ちといえばよいか。

今日から学年末試験だからということで、今朝は5時起きで試験準備をしていたようだ。珍しいこともあるものだと苦笑した。日頃はぎりぎりまで寝ていて起こされてもぼうっとしながら朝食を食べているのに、まるで別人である。やるときはやりますよということか、とも思ったが「お笑いレッドカーペット」があるみたいだなと水を向けると、「知ってるよ、スペシャルじゃないの」とお笑い番組はしっかりチェックしていた。

数日前、学校から将来の進路についての志望調査用紙が来ていた。息子の目指しているものは知っていたので目新しいことはなかったが、親の希望を書かなければならない欄を見てハタと困った。どうしてもこうなって欲しいという進路があるわけではないからだ。日頃、三者面談の時に「本人の意思に任せています」という親御さんは多い。いざ自分が同じ質問をされる立場になると同じように答えてしまうものだと妙なところで感心してしまった。健康で自活していけるのであればどういう職業を選んで生きていこうとそれは息子の人生なので、最終的には本人に選択を任せたいと思う。

「紺屋の白袴」という慣用句がある。普段よそ様のお子さんにはあれこれと言葉を掛けられるのだが、自分の子どものことは自信がない。こういう接し方でいいのかと思うときもある。しかし親は親の生き方をすればいいのではないかとも思う。子どもは子どもで時には反面教師としながら親の生き方を見ているはずだ。そう考えるとあまり子どもとの接し方や育て方に神経質になる必要はないのではないか。

「親はなくとも子は育つ」というけれど、「親がいない方が子は育つ」のではないかと言っている人がいた。放任になっては論外だが、一つ一つのことに口を出して干渉しすぎると子はスポイルされてしまうような気がする。本人が苦労しなければ分からないことや身に付かないことだって多くあるはずだ。だから、ということを口実にしているわけではないが、たぶん親の勝手を押しつけるスタイルで当分やっていくことになりそうだ。

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2009年2月11日 (水)

立川談志はマイルスである・まとめ

「居残り左平次」という大ネタの途中、談志は冗談のように「言っとくけどね、これ最後の落語だよ」という一言をはさむ。幾分かは本音だろう。それにしても最後かもしれないと言うネタになぜ「居残り左平次」なのか。

前回古今亭志ん朝の噺と比較して見てきたように、戯画的で陽気な志ん朝の左平次に比べ、談志の左平次はリアルである。等身大の詐欺師。しかも計画性があまり強く感じられない。冒頭で四人組の男に声を掛けたのもたまたま。品川の大きな店で「居残り」になってからの展開も成り行きまかせ。だから最後に居残りを稼業にしている居残りの左平次ってんだ、よく覚えときなという捨てゼリフの見得もない。プロの詐欺師なのに成り行きまかせという印象の噺である。

談志は、落語家としての自分がたどってきた道筋を「居残り左平次」に重ねて表したかったのではないか。そこには「人生、成り行き」という談志の哲学が込められているのだとも感じる。分かったような口をきくんじゃないよ、と談志から一喝されそうだが、体力的にも声の具合からも最後まで話しきれるのかという不安感と闘いながらこの大ネタを最後まで語りきった談志は見事である。プロであるがゆえに成り行きにまかせても最後まで噺をもっていくことができる。論語の七十にして矩を越えずの境地そのものではないか。

自在な話芸である。引用の豊富さ、都々逸やら小唄やらの一節、ありとあらゆる芸のストックが惜しげもなく披露される。三遊亭圓生師のまねも聞ける。談志は若いときのひとり会の頃から先輩の師匠連や講釈師たちの口調をまねるのがうまかった。ところどころに他の落語からの一節も差し込まれる。「抱いてるオレは誰だろう」「のぞいて見るとじいっと餅をながめている」などなど、まるでジャズのインプロビゼーションである。ジャズの演奏が最後にテーマに帰って終わるように、談志の落語も自由奔放に語られているようでいてしっかり噺の枠に収まり本筋に戻ってサゲになる。どう演じても落語になる、談志が落語そのものである。

と考えて浮かんできたのが表題のマイルスである。どんどん自分のスタイルを変え、他の演者に多大な影響を与え一つのスクールを形成し、強烈な個性を振りまきながら光り続けた巨星。電子的に加工しようが何しようがマイルスの音は誰が聞いてもマイルスと分かる音だった。同じように談志の落語は他のどの落語家とも異なる。談志にしかできない落語。だから落語を聞き始めの人にはあまり薦められない。まったく落語を聞いたことがない人に古典落語を薦めるなら、やはり古今亭志ん朝が一番だろう。古典落語のスタンダードがどういうものか知るには、志ん朝の磨き込まれた珠玉の噺の数々が最もふさわしい。談志の噺は、ある程度落語を聞き込んでからでないとその重層的な引用や新しい解釈の面白みが分からない。

落語という話芸は不思議な芸である。弟子の志の輔に言わせると「何にもないから何でもあるんですよ、何でも出せるんです」ということになる。一人芝居と考えるとよいのかもしれないが、テーマの解釈、細部の演出が演者に委ねられる。志の輔は談志から稽古のときに「お前はこの噺で何が言いたいんだ?」とよく言われましたと語る。そのやりとりから垣間見えるのは、常に古典落語のテーマに新しい解釈ができないか考えている談志の姿である。若い頃に取り上げていた「鼠穴」や「鉄拐」というネタは他の落語家はあまり演じていないのではないか。「田能久」は古今亭志ん生も高座にかけていたようだが。そういう演じられることが少ない古典にも光を当てて自分の話にしてしまうことを意欲的に重ねてきたのが談志である。

NHKの番組の中で爆笑問題の二人が、スタジオに並べられた談志の落語を収録した大量のビデオテープを前に「これに火をつけて全部灰にしちゃったらえらいことになるでしょうね」と真顔で言っていた。映像だけでも相当な量があり、CDにしても「談志百席」は10枚組のボックスが五期分、他に「ひとり会」のボックスもあり、談志落語のすべてを聞こうと思ったら生半可なことではすまなくなる。しかしこれだけ多くの噺が収録されているということはファンには幸せなことである。しかも先日の新聞に今年は久々の独演会を考えているという談志の記事が載っていた。まだまだ枯れることなく演じる気持ちが十分あるようだ。

かつて夏目漱石は明治の落語家で近代落語の祖、三遊亭圓朝に触れて圓朝の同時代人であることを幸せに思うと語ったそうだ。われわれは立川談志という希代の落語家と同時代人であることの幸運に感謝した方がいいのかもしれない。

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2009年2月 9日 (月)

立川談志はマイルスである・さらに続き

「居残り左平次」は50分を越える大ネタである。しかも今回放映されたものはスタジオ収録であり、観客はいない。談志が一人でカメラに向かってつくりあげたひとつの世界である。

中野翠に言わせると左平次という男は「おそろしく頭がよくて、口が達者で、妙に陽気な小悪党」「落語界最大のダーティ・ヒーロー」(『今夜も落語で眠りたい』文春新書)である。同書で薦めるように、古今亭志ん朝が演じた「居残り左平次」が最高だと思う。何と言っても、左平次という陽気な天才詐欺師の姿は志ん朝の明るい華やかな「声」がピタリとあう。

こういう噺である。吉原での遊びに飽きた左平次が、河岸をかえて品川へ繰り出そうじゃねえかと仲間を誘う。ついては一人いくらいくらの割り前でどうだ。兄貴、そいつは安すぎますぜ、品川は高えって評判ですぜ。いいってことよ、後の分はオレにまかしときな。と話がまとまり一行は品川の大きな店に上がる。散々飲み食いし芸者や幇間(たいこもち)も呼んでどんちゃん騒いだ後、仲間が左平次に「これは大変な払いだぜ」とささやく。左平次は「いいってことよ。お前たちは明日の朝早くに発ってくれ。後のことは万事うまくオレがやる」と請け合い、その言葉通り仲間は翌朝帰る。一人残された左平次に店の若い衆がお勘定をとやってくるが、連中はまた今夜やってくるよ、今勘定しちゃそれきりでお客を逃がしちまうよと煙に巻いてしまう。こうして二日ほどやり過ごすが金を持っていないことがばれて蒲団部屋へと押し込まれ、遊びの代金が支払えず足止めされるいわゆる「居残りさん」となる。

しかし、持ち前の口先を生かして店に来たお客に取り入り幇間のようにお座敷がかかるまでになってしまう。客がくれるこづかいをみんな左平次に持っていかれた若い衆たちは店の旦那に追い出しを勧める。旦那が左平次に出ていくように言うと、実は自分はお尋ね者で外に出ると御用となるからまとまった金と新しい着物や帯やら必要だと左平次はでまかせを並べ立て、まんまと旦那からだまし取る。左平次が出た後でだまされたと分かった旦那が「よくもわしをおこわにかけやがったな(だましやがったな)」とくやしがると若い衆が「へえ旦那の頭がごま塩ですから」でサゲになる。

左平次という天才詐欺師のだましっぷりが見事なピカレスク・ロマン(悪漢小説)である。一文無しだとばれても平気な顔でヘラヘラしている。志ん朝の演じる左平次の明るい小悪党は一つの典型になっていると思うのだが、談志の左平次は別の典型になるのではないか。

古今亭志ん朝の左平次と比較しながら述べてみよう。話の冒頭、左平次は仲間を誘って品川へ繰り出そうと話を持ちかける。つまり志ん朝の話の場合、左平次はある意図を持って品川へ乗り込もうとしていると最初から印象付ける。安い割り前に仲間の連中が「大丈夫かい?」という感じを持っても、ハナから払う気がないので「オレに万事まかしときな」と軽く請け合うわけだ。ところが談志の場合はちがう。左平次は見ず知らずの四人組に「よっ、よっ、よっ」と幇間(たいこもち)のような調子で声を掛けて品川へ遊びに行かないかと誘う。うさん臭いヤツだ思いながらも四人は誘いに乗る。志ん朝の左平次に比べ、この時点で談志の左平次は詐欺行為を行おうとする計画性が薄いように感じる。行き当たりばったりという気さえする。四人がのってこなかったら品川へ繰り出すのもよそうかと思っているようにも見える。志ん朝の左平次が仲間を誘って確信的に乗り込むのと対照的だ。

いざ品川に繰り込み、どんちゃん騒いで左平次だけ居残るまでの流れに大きな差はない。噺の中盤、居残りとなった左平次が立て込んで放って置かれている客に取り入る場面に少し違いが出てくる。志ん朝の噺では左平次のヨイショに気をよくした客の姿が描かれる。ほめ言葉に喜んで小遣いを与え酒まで呑ませるような単純な客、つまりはだまされやすい人物造型となっている。だが、談志の「客」はなかなか左平次のヨイショに乗らない。花魁(おいらん)がなかなかやって来ないだけでなく、だれもご機嫌伺いにやってこないことに腹を立てイライラしている気分が納まらない様が随所に顔を出す。志ん朝の造型が戯画的であるとすれば談志の造型はリアルで写実的だ。左平次のヨイショもそれほど熱心にやっているような感じがしない。まあ、うまく引っかかってくれて酒の一杯、小遣いのいくらかでもせしめることができれば御の字という印象だ。

ここから幇間(たいこもち)のようにお座敷がかかるようになり、若い衆が旦那に掛け合うというところまで同じような展開である。旦那から仕立て下ろしの着物と金を巻き上げる最後の部分、志ん朝の左平次は芝居がかった大袈裟なセリフ回しをする。あくまでも戯画的な感じを徹底する演出になっている。志ん朝の左平次が陽気な小悪党という印象を残すゆえんである。だが談志の左平次はリアルだ。リアルなセリフ回しでおちゃらけない。

サゲの直前、志ん朝の左平次は旦那に言われて後をつけてきた若い衆に向かい「おめえもこの稼業で食ってく気ならよく覚えときな。オレは居残り商売をしている居残りの左平次ってもんだ、あばよ」と捨てゼリフを残して消える。談志の噺にはこの部分がない。自分がプロの詐欺師だと左平次が大きく見得を切る箇所であるのだが、あえて入れなかった。その代わり、左平次が旦那の前からいなくなるとすぐに若い衆が現れ「蔭で聞いてやしたが、何だってあんな野郎に着物と金をやって表から帰したんです?」と旦那に不満をぶつけると「あんなもんに裏かえされちゃたまんない」。遊郭に上がった初回の客がすぐに再訪することを「裏を返す」という表現に掛けたサゲである。

うーむ、今日もまた表題にたどり着かない。次回はまとめに入りたい。

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2009年2月 6日 (金)

立川談志はマイルスである・続き

前回に続き、立川談志の演じた「やかん」「粗忽長屋」「居残り左平次」の三席に触れてみたい。

まず「やかん」。爆笑問題の二人が前半の進行役を務めていたが、太田光は談志の「やかん」しか聞いたことがないからこれが「やかん」という落語なのだろうとずっと思っていると言っていた。談志の「やかん」に入る前に番組では十代目桂文治の「やかん」を一部見せた。実は私も桂文治の「やかん」のイメージしかなかった。

「やかん」という噺は軍学者の所(談志では大家の所)へ遊びにやってきた男が、お前のような者が尋ねることなら何でも答えられると豪語する軍学者に質問を浴びせ、「やかんはなんで『やかん』て言うんですかね?」という質問をするところから佳境に入る。

桂文治の噺では佳境に入るまでの軍学者の白を黒と言いくるめるような答え方も珍妙だ。たとえば「マグロはなぜマグロってんです?」と聞く男に「マグロは真っ黒い魚が群れになってやって来る。ああ真っ黒がきた、真っ黒がきたというところからマグロになった」「だけどマグロの切り身は赤えでしょ?」「マグロが切り身で泳いでくるか!」や、冒頭で浅草の観音様にお参りに行って来たという男に「あれは観音様ではない」「観音様じゃねえってえと何て言うんです?」「あれは金竜山浅草寺に安置し奉る正観世音菩薩だ」「へ~、じゃあ何ですかい、今日の今のところはいい塩梅のお天気で、金竜山浅草寺に安置し奉る正観世音菩薩にお参りに行ってきた、って言えばいいんですかい?」「その通りだ」「ふ~ん、ちぢれっ毛の高島田だなあ」「何だ、ちぢれっ毛の高島田と申すのは?」「結うに結いにくいでしょ(言うに言いにくいでしょ)」などくすぐりが満載である。「ちゃわんってのがあるでしょ?あれはなんでちゃわんなんです?」「ちゃわんと置いてあるからちゃわんだ」というやりとりもある。

しかし談志の「やかん」はこの前半部がまるで違う。まったく別の切り口、別の例を取り上げながら随所に箴言(アフォリズム)がちりばめられる。いわく「好奇心を止められるのは恐怖心だけだ」など。「キリンは何で首が長いんです?」「首を長くすることに決めたから長げえんだよ」とか「世の中で一番大きな動物って何だか知ってます?」「象だろ」「象よりもっと大きなのがいますよ」「もっと大きな象だろ」というやりとりが続く。ちゃわんの話も出てくる。「じゃあ、ちゃわんはちゃわんと置いてあるからちゃわんでいいんですかい?」「いいだろう、馬鹿にされるだけだけどな。それを言う人間によるんだよ、オレのような人間が言えば納得されるがな」と古典的なやりとりのパターンを踏まえて談志の解釈が入ってくる。桂文治の「やかん」と比べると、共通するのは「ちゃわん」の話と「うなぎ」の話くらいで同じ噺とは思えないほどの前半部である。だが、後半部の「やかん」の話は伝統的な型へきちんと回帰し、談志得意の講釈も聞くことができる。

「粗忽長屋」にしてもそうだ。談志の師匠柳家小さんが得意にしていた噺であり、また古今亭志ん生が演じたものでは登場する粗忽な連中のバカバカしさが噺の不条理感をみごとに消し去るネタになっている。

噺はこうである。浅草の観音様へお参りに行った八五郎が人だかりに出くわす。何だろうと首をつっこんでみると行き倒れだという。その行き倒れの顔を見て八五郎は「あ、こいつは兄弟分の熊の野郎だ。今本人を連れて引き取りに来させますから」と申し出る。それを聞いた町役人は「本人ってだれです?ご親族?」とわけが分からず問い返すが、八五郎は「行き倒れの本人だよ、本人。ちょいと待っててくんねえ」と長屋へ駆け出す。となりの熊五郎に「大変だぞ。お前が死んでんだぞ」と告げると「え、そいつは大変だ」と熊五郎もいっしょに浅草の現場に駆けつける。町役人は「おい、また来たよ。あの人はわけが分かんなくてやだよ」と困惑するが、二人はかまわず死骸を抱き起こす。熊五郎が「死んでるのはオレだ。死んでるのはオレだけれども、死んでるオレを抱いてるオレはどこの誰だろうな?」というサゲで噺は終わる。

落語でおなじみの八っつぁんこと八五郎と熊さんこと熊五郎の二人がいっしょに出てくる噺だが、いくらそそっかしいといっても死んでるのが自分なのかどうかくらいは分かるだろうと言えばこの噺は成り立たない。古今亭志ん生が演じたように、理詰めではなく粗忽な連中のバカバカしさで不条理感をくるんでしまうことで成立する噺なのだ。

だが談志の場合、アイデンティティの不確実さという「粗忽長屋」の隠れた主題に正面から光を当てる。町役人にそれは違う人ではないか、と言われた八五郎が答えるセリフにまずそれは現れる。「あのね、割と自分のことがよく分かんないヤツなんだよ、こいつ。自分で自分のことがよく分かんないことがある。だからこうなってることに気がついてないんじゃないかとオレは思う」と確信を持って言う八五郎に町役人はわけが分からず、そんなことはあるはずがないと思いながら反論できない。

長屋の熊五郎の所へ駆けつけた八五郎は、大変だお前が死んでるぞと一気にまくし立てる。だって死んだような気がしねえじゃねえかという熊五郎は、それでも昨夜屋台で酒呑んでイカの足かなんか食って気持ち悪くなり吐いたということを思い出す。屋台を出てから後を覚えてねえんだと言う熊五郎に、八五郎はやっぱりなとばかり「だからそん時にお前は死んだんだよ、それを忘れてお前は家に帰ってきた。だから気持ち悪いだろう、気持ち悪いだろってんだ」「悪いよ」「当たり前だ、死んでんだからな」と畳みかける。

この後「行こう、死骸の引き取りに」「誰の?」「お前の」「オ、オレの?オレの死骸をオレが引き取るの?きまりが悪いや」と不条理なおかしさが続く。現場に着いた二人は見物人をかき分けて前に出る。町役人は「また来たよ、あの人。弱ってんだ話が分からなくて。当人つれて来るって…」とぼやくが八五郎はかまわず当人を連れてきましたと言う。二人で死骸の前にしゃがみ込み、これはオレかなあといぶかる熊五郎に八五郎は「だからオレはお前によく言うだろ。朝、顔を洗えヒゲを剃れって言ってるだろ。そん時に、特にヒゲを剃るときにはいやでも鏡を見るだろ。毎日鏡を見てりゃ見た顔が自分だというのが分かる」と押しまくる。おかしな論理展開ではあるのだが、八五郎の論理に押されて熊五郎は納得して例のサゲへとなだれ込んでいく。

おかしな論理であろうと論理的に一貫性がある八五郎の話は、確信的であるがゆえに熊五郎のアイデンティティに対する自信をぐらぐらと揺さぶっていく。「他のだれが言っても信用しなくてもいいよ。友だちのオレがこの目で見てきてお前だと言うんだから間違いねえだろう」「いいか、オレは毎日鏡を見て自分が分かっていて、自分が分かってお前のことも分かってんだ。そのオレがこれはお前だと言うんだからこれ以上確かなことはねえだろう」というセリフに端的に現れているように、談志の「粗忽長屋」は、確信してるヤツが勝ってしまうんだよ結局はということを言いたいのではないだろうか。

今日も表題までたどり着かない。最後の噺「居残り左平次」とともに、さらに次回に続く。

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2009年2月 4日 (水)

立川談志はマイルスである

七十歳を越えた立川談志の姿は「老い」を感じさせた。NHKが昨年BSで放送したものを総合テレビ向けに編集し直した番組で目にした談志は「痛々しい」ほどの姿だった。若い頃の威勢の良い姿を記憶しているだけに、歳月の肉体に及ぼす残酷さというものを考えずにはいられなかった。

喉頭ガンを克服したばかりだったからなのか、声はかすれて聞きづらい。しかも自分の思考速度に言葉が追いつかないのがもどかしいという様子がありありと見える。さまざまに浮かぶアイディアに表現が追いつけない苛立ちが見ているこちらに伝わり、ついに談志も「老い」には勝てないのかと見続けるのがつらくなった。

ところがである。画像を無くして「声」だけにして噺を聞き直してみて驚いた。これは一体何というすさまじい芸の極致であることか。正直にこの人は「天才」だと思った。こんなに深い噺の解釈ができるのか、これほど深い世界が落語という話芸で描けるのか。老いた肉体が痛々しく噺に集中できなかったときには分からなかった談志のすごさが、「声」だけにしたときにまざまざと感じられた。

NHKの番組で放送されたのは、「やかん」「粗忽長屋」「へっつい幽霊」「芝浜」「居残り左平次」の五つだが、このうち「へっつい幽霊」と「芝浜」は若い頃の「談志ひとり会」の録音で耳にしていた。若い頃の談志の落語は、マシンガンのようにあとからあとから言葉がほとばしり出てくる威勢の良さがあり、落語界の革命児というイメージにピッタリのものだった。しかしよく聞くとその噺は古典落語の伝統をしっかり継承したものであり、今の談志の高座とくらべると、その噺の奥に古今亭志ん生や桂文楽、あるいは桂三木助や師匠の柳家小さんといった師匠たちの姿が垣間見えるものだった。思ったほど独創的なものが多く加わっているわけではなかったのだ。

だが「へっつい幽霊」と「芝浜」を聞いて驚いた。どちらも深みがまったく違う。「へっつい幽霊」は、ばくち好きの左官屋が丁半ばくちで儲けた金をへっついに塗り込めてかくしたままひょんな事から死んでしまい、その金を取り戻すために古道具として買い求めた人間の所に「金返せ~」と出て来るという噺なのだが、その幽霊の金を使い込んだ「向こう傷の熊」というお兄いさんと幽霊の間で交わされるやりとりが絶妙で楽しめる。この噺を若い頃はおそらく伝統的な形のサゲのままで終わらせたのだと思うが、新しい「へっつい幽霊」では一度従来のサゲを示して観客もこれで終わったものと拍手を始めたところへ畳みかけるように新しいサゲを提示する。脱帽するしかない。

さらにすごかったのが「芝浜」である。画面を見ながら聞いていたときには、老いた談志の演じる魚屋の女房がどうしても老女にしか見えず違和感があったのだが、「声」だけで聞き直してみると一人芝居を耳にしているようなリアルさが浮かんできた。それは登場する人物の心情のリアルさである。「芝浜」については以前の記事「光と闇」にあらすじを載せているので詳述しないが、今の談志の噺には魚屋と魚屋の女房の人物像がこれ以上無いと思われるほど正確に描き出されている。目の前に二人の生きた人間の姿がはっきり見え、その行動の細部のもつ意味がすべて納得のいくものとして噺の終結部まで語られていく。近代落語の祖と言われる明治の三遊亭圓朝が書いた人情噺「芝浜」をここまで深く解釈し演じたのは、おそらく立川談志だけではないだろうか。ルノワールやモネの晩年の大作を目にしたときのような不可思議な感動がわき起こる一席だ。

この噺の談志の声はかすれて聞き取りにくい。それにも関わらずその声が描き出すイメージの世界はこの上もなく豊かだ。ある魚屋とその女房の人生の一断面をみごとに切り出して見せてくれる。実際に二人の人間がやりとりしているその場に居合わせているような錯覚を何度も味わう。この二人のささやかな市井の生き方には深い感動を覚えずにいられない。

さて、なかなか表題の「立川談志はマイルスである」にたどり着かないが、残りの三席の噺とともに次回に続く。

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2009年2月 2日 (月)

自分を信じる力

公立高校の入試まであとひと月ほどになりました。昨日から毎年恒例の入試問題研究を始めました。これから6週ほどは日曜日も授業です。

いつもこの時期になると生徒たちに伝え、自分自身もあらためて確認することがあります。それは残り1ヶ月の時期に来ると、受験技術や解法テクニックより気持ちの持ち方の方が大事なのではないかということです。

不安に押しつぶされそうになってどうしよう、どうしようと気の毒なくらいあせっている様子の生徒がいるかと思えば、いつもと何も変わらず平気な生徒もいます。不安な気持ちを抱えている生徒は、これまでの実力試験の結果が合格ラインに達していないことが一番の原因になっているようです。

昨日生徒たちにこんな話をしました。

マリナーズのイチローはなぜメジャーで毎年二百本安打が打てるんだろう?打撃の天才だから?でも、イチローが高校を卒業してドラフトのとき何位でオリックスに指名されたか知ってる?実は4位なんだよ。これはちょっと意外だった。あのイチローでさえ1位指名じゃなかったんだ。ということはイチローより評価の高かった選手がいっぱいいたわけだよね。それなのにイチローだけがメジャーで毎年二百本安打を打てるのはどうしてなんだろう?
たぶんそれはイチローが毎年シーズンが始まるときに二百本打つと決めたからじゃないかと思うんだ。打ちたいとか打てればいいなあ、じゃなくて今年は(あるいは今年も)二百本打つと心に決めたからなんだと思う。そして自分には打つ力があると信じ、実現するために何をすればいいかいつも考えて行動しているからじゃないだろうか。自主トレで何をすればいいか、キャンプ中は何が課題か、シーズン中はスランプ気味のときにどうすればいいかというように心に決めた二百本を実現することだけに意識を向けていると思うんだ。
過去の結果がどうであれ君たちは今行動すれば手が届くところにいるのだから、だれが何を言おうと自分を信じていこう。自分が自分のことを信じなくて他のだれが信じてくれる。最後まであきらめず、「私には合格する力がある」という信念を持とう。

さてどれくらい通じたか分かりませんが、程度の差はあってもなにがしかそれぞれの中に届くものはあっただろうと思っています。そう思わなければこういう当たり前のような話をあらためて生徒に伝えたりしません。不安や迷いの方へ傾いていきそうな意識を、どうしたら合格できるか、何をすれば少しでも合格に近づくかという方向へ切り替えることができるようにアドバイスや励ましていくことがこの時期に一番大事なことなのではないかと思います。

冬休み前に実施した塾の三者面談のときに、ある親御さんが「せっかく本人が頑張っているんですからできるだけ応援したいと思いますし、合格できると信じてやりたいと思います」と話されていたのを思い出しました。その時は何げなく聞き流してしまいましたが、子どもにとって何よりの励ましになっているんだろうなと思います。尻を叩いて追い立てることも時には必要でしょうが、残りひと月のこれからは本人も周りも「信じること」がなによりではないかという気がします。

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