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2008年5月 5日 (月)

仙人のなりそこね

若い頃、本気で仙人になりたいと思っていた時期があります。

仙人が無理なら、隠者でもいいと世捨て人に強くあこがれていました。仙人のような飄々とした生き方が理想でしたが、現実はそう甘いものではありません。

どうしてまたそんな浮世離れした生き方にあこがれていたのかというと、一つには子どものころから好きだった漢文系の話に、仙術をよくする仙人が多く出てきたということがあります。

漢籍の古典そのものではありませんが、中島敦の小説「名人伝」に出てくる弓の名人、紀昌(きしょう)が師事する甘蠅(かんよう)老師などもただの弓の名人というより仙人の趣があります。不射之射といって、甘蠅老師は弓も矢も使わずに遥か上空を飛ぶ鳶(とび)を射落とす神業を紀昌に見せます。この老師に師事した紀昌もまた仙人のごとき人物となって邯鄲(かんたん)の都に戻ってくるのですが、古今無双の名人となった紀昌は弓を手に取ることもなく木偶(でく)の坊のように老いていきます。そして亡くなる一、二年前知人の許に招かれて行った紀昌が弓の名もその用途も思い出せず、真剣に「それは何と呼ぶ品物で、何に用いるのか」と尋ねるエピソードで小説は締めくくられます。

また邯鄲といえば、唐代の小説「枕中記」の「邯鄲の夢」も思い出されます。この話は茶店で呂翁(りょおう)という道士から枕を借りて昼寝をした廬生(ろせい)という若者が、夢の中で、宰相の位まで上りつめながら、謀反を企んだと濡れ衣を着せられ流罪になります。しかし結局は冤罪が晴れて都に帰還がかない、老齢を迎えて亡くなるという壮大な波瀾万丈の生涯を経験します。ところが目が覚めてみると邯鄲の茶店で、しかも店の主が蒸していた粟がまだできあがらないくらいの、ほんの短い時間でしかありません。廬生は愕然とし、出世を望むことのむなしさを悟るという内容です。

芥川龍之介の「杜子春」に登場する、鉄冠子(てっかんし)という峨眉山(がびさん)に住む仙人も印象的です。仙人になることを希望する杜子春に、自分が天上界から戻ってくるまでの間何があっても決して声を出すな、一言でも口を利いたら仙人にはなれないと告げて、杜子春を試します。いくつかの試練を乗り越えながら、地獄で痩せ馬の姿に変えられた父母を目にした杜子春はこらえきれず声を発してしまい、その途端、夢からさめたようにもとの洛陽の西門の下に立っている自分に気が付きます。しかし、杜子春も鉄冠子も、仙人にならなくてよかったのだという思いを共に持ち、物語は終わりとなります。

最後の「杜子春」の話を初めて読んだのは幾つの時だったでしょう。たぶん小学校の6年くらいのころだったかと思います。非常に強い印象を受けたのを覚えています。同じ芥川の「トロッコ」が視線のジェットコースター的移動を描写しているとすると、「杜子春」は感情のジェットコースター体験とでもいうような揺さぶりをかけてくる小説です。それゆえ小学生には強烈な印象となったのだと思います。

こうした物語の中に現れる仙人たちの像は、いずれも俗世間から超越したものですが、物事を相対化して見る老荘思想や道教の影響を受けているのだと思います。この老荘思想に対する嗜好もまた、仙人にあこがれていた理由の一つです。

荘子に有名な「胡蝶の夢」の話があります。ある時荘子が、眠っているときに自分が蝶になって舞っている夢を見ます。目が覚めて荘子はふと妙な思いにとらわれます。「私は夢の中で蝶になって舞っていたが、はたして私は蝶になった夢を見た人間なのだろうか、それとも人間になった夢を見ている蝶なのだろうか」この話、大好きです。絶対的と思われていた自分の存在の現実感がたわいもなく崩れて曖昧模糊としたものに変容していく。こういう相対化した現実認識にたまらなく魅力を覚えます。

おそらく固定的と思える現実を流動的で可変的なものなのだと示してくれるからなのでしょう。視点を変えることで、絶対的と思えたことがそうではなくなるというのは小気味よいものです。自分を取り巻くあらゆるものが相対的なものなのだと思った方が、私にとってはノビノビとした気分で過ごせるということです。

もっとも、『今昔物語集』に出てくる「久米の仙人」みたいに、下界の若い娘の白いふくらはぎを目にしてクラクラとなり通力を失ってしまう俗情の抜けきらない仙人もいて、これはこれで愛敬があるのですが、やはり仙人は仙人らしく霞を食べて暮らしているような浮世離れした姿の方が落ち着くような気がします。

そうは言うものの、私自身は仙人のごとき達観にはほど遠く、この俗塵の中であくせくしていくのが身の丈にあったしあわせというものかもしれません。廬生や杜子春の姿の方に共感を覚える今日この頃です。

(きまぐれで今月からまたブログのデザインを変えてみました。当分は新しいデザインでいくつもりです。)


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コメント

こんばんは、仙人ですか、なるほど・・・・。かすみを食べて生きて行けるので、仙人は確かにいいですね。私も修行はしたくないけれど、仙人やその他の異界の住人にはあこがれますね。
 今度仙人がいそうな山にでも行って見ませんか。仙人峠なんて言う地名がある岩手のこと、いるような気がするな・・・・・

(学び舎主人から)
コメントありがとうございます。
中野翠さんのコラム集『よろしく青空』の中に、NHKスペシャルで放送された「巨樹 生命の不思議」を見ての感想が載っているんですが、和賀山塊の樹齢百年を越える天然ブナ林を案内する佐藤さんという方が「和賀仙人」と呼ばれているそうです。
和賀仙人という地名もありますが、よく考えると不思議な地名です。むかし仙人でもいたんでしょうね。

投稿: かねごん | 2008年5月 5日 (月) 22時55分

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