« 架空対談2「源俊房卿ふたたび」 | トップページ | 「今夜も落語で眠りたい」ってタイトルは上手いなあ »

2008年3月23日 (日)

季節は巡る

今年は北国も春が早いような気がする。

公立高校の合格発表が終わり、合格した生徒もあり不合格に涙した生徒もあり、それぞれの春を迎える。全員合格で終わることが出来れば、心おきなくのんびりと新年度を迎えられるけれど、なかなかそういう年は多くない。考えてみると合格するかどうかぎりぎりの線上にいるから塾に通おうかという気持ちになるのであろうし、そういう位置にいる生徒をどう伸ばし首尾よく合格するように導いていくかということが、われわれ塾講師の仕事なのだから不合格者が出るリスクは毎年負わなければならない。

不合格だった生徒には、必ず連絡を取るようにしている。不合格直後に顔を合わせたり、電話で話したりすることはお互いに気詰まりなものだし、会いたくないと思っている生徒もいると思う。実際、家庭を訪れてみたけれど本人に会えなかったことも何度かある。玄関先で泣かれてしまったこともある。傷口を広げるようなものだということは分かっているのだが、そしてまた直接会っても何も言えるものではないということも分かっているけれど、やはり連絡を取らずにはいられない。

それは自分の戒めのためである。
先に「首尾よく合格に導いていくか」と書いたが、正確に言えば「首尾よく合格できるようにどう動機付けするか」なのだと思う。われわれ塾講師の指導力など実はたかがしれている。すばらしい指導方法とすばらしい指導カリキュラムを看板にしていらっしゃる先生方には申し訳ないけれど、人が人を教えることには限界がある。教える側の「私がこの生徒を合格させた」とか「自分の指導で伸びたんだ」という気持ちは単なる自己満足でしかない。塾の指導がその生徒の学力向上にどの程度寄与しているのか客観的にパーセンテージを指摘することなど不可能なのだから、方法やカリキュラムは絶対条件ではない。もちろん方法やカリキュラムがよいことで生徒のやる気が向上するということはあるが、それが全てではない。生徒が意欲を持つようになる要因は一つではなく、さまざまな要素がからみあっている。

だから、合格してもそれは私の指導がよかったからだとは思わない。たまたま動機付けがうまくいき本来持っている力が出てきたのだろう。教えることには限界があると書いたが、それを受け取る側には、その限界をはるかに超える反応を起こす可能性が秘められている。人が人を教えることの面白さはそこにある。馬を川に連れていくことはできるが、水を飲ませることはできないというよく使われる喩えの通りだと思う。

話を戻せば、それゆえ私は不合格の生徒に連絡を取らずにはいられない。結果的に、あたなのために何もしてやれなかったな、という無力感を不合格になった生徒の辛さとともに身に沁みて味わわないと、私のような根っから極楽とんぼには上っ調子の空騒ぎしか残らない。大験セミナーの金田先生は不合格の生徒にはあえて連絡を取らず、そっとしておくと書かれていた。これも一つの見識だと思う。それぞれの先生が自分の哲学をもって不合格者には対処しているのだろうと思う。そしてまた、それぞれの方針と哲学に沿ったものしか本物として残らないように思う。これが正解という絶対のものはないのだから。

春期ゼミが始まり、4月からまた新年度になる。季節の巡りとともに新しい生徒を迎え、同じようなことを教えているけれど、生徒の顔が違うようにそれぞれの受け取り方も違うから決して同じ授業にはならない。その時々に目の前にいる生徒に何ができるかを探りながら調整していく日々が再び始まる。私は農業の経験はないが、お米を作ったり野菜を育てたりすることと共通したものがあるのではないかと思っている。一つの場に定住し時間をかけて何かを育てていく。狩猟型ではなく農耕型の仕事と言えるのかもしれない。

にほんブログ村 教育ブログ 塾・予備校教育へ 教育ブログ 塾・予備校教育

人気ブログランキングへ 人気ブログランキング(教育・学校)

|

« 架空対談2「源俊房卿ふたたび」 | トップページ | 「今夜も落語で眠りたい」ってタイトルは上手いなあ »

ひとりごと」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 季節は巡る:

« 架空対談2「源俊房卿ふたたび」 | トップページ | 「今夜も落語で眠りたい」ってタイトルは上手いなあ »