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2008年2月18日 (月)

中上健次が健在なら…

中上健次が健在なら、今の日本の社会を見てなんと言うでしょうか。

旺盛な執筆活動の途上で、ぷっつりと糸を切られるように亡くなったので、いくつだったのだろうと思ったら46歳でした。もう自分が中上健次の年齢を越えていることに、軽い驚きを感じます。

主要著作のリストを眺めながら、読んだ作品を確認してみると、『岬』や『十八歳、海へ』などほとんどが短編集で、長編は初期の『枯木灘』と『鳳仙花』しか読んでいないことに気が付きました。

中上健次の作品は決して読みやすいものではありません。抵抗感が先にくるという人もいると思います。しかし圧倒的な「力」を、その文章と物語に感じます。口当たりのいい、無菌化された毒にも薬にもならないような、どうでもいい文章や物語と違い、地面をはいずり回るような土着的、古代的とも言える重厚な物語世界がそこには広がっています。フリージャズが持っているような、攻撃的で不協和音にあふれた世界と言えばいいでしょうか。いつまでも耳に残り続ける、ある種不快でありながら、その不快さが去りがたさをもたらす独特な魅力を中上作品は放っています。生理的に受け付けない、そういう感じを持つ人がでてくるゆえんです。

しかし、人間の魅力というものは、実はその人のその人たる部分を形作っているところにあるのではないかと思います。他の誰とも違う、その人にしかない「過剰さ」。これが人間の魅力なのではないか、と最近とみに思うようになりました。ある場合には、その過剰さはその人間の欠点と映るかもしれませんし、また別の場合にはその過剰さを本人が自己嫌悪しているかもしれません。ですが、平均値ではない、はみ出した部分にこそ面白いものが見つかります。そこまでやらなくてもいいのにと他人には思えるものが、本人には内的必然性があり、やむにやまれぬ表出であったりするからです。

そういう意味で、中上健次の作品は中上健次にしか作り出せなかった世界でしょうし、これからも後に続くような作家は現れないのではないかと思います。以前取り上げた坂口安吾が自分の作品にふれて、「私が書く小説は健康な人間には毒にしかならない。病んだ人間の催眠薬にはなるだろうけれど」という趣旨の文を書いていました。正確な引用ではありませんし、どの文章だったか思い出せないので、もしかすると違っているかもしれませんが、この表現は中上健次の小説にもあてはまるような気がします。小説を読み始めたばかりの人には決して薦められない作品群です。ですが、凡百の似たような小説に読み飽きて、刺激がほしい方にはたまらない世界だと思います。

なにかの対談で中上健次が「宇津保物語」の物語性をとりあげていたことを思い出し、数日前から「宇津保物語」を読み始めました。冒頭の「俊蔭」の巻をめくりながら、そういえば大学のころ国語講読でこの「俊蔭」の部分の影印本を読まされたなあ、ということも浮かんできました。「琴」をめぐる長編の物語は「源氏物語」以前の作り物語として有名ですが、「源氏物語」にも大きな影響を与えていると言われています。音楽を主題とした長編の物語。中上健次とは対極にあるような気がしていましたが、物語の持つ力という点では同じようなものがあるのかもしれません。

同じ頃に作家としてデビューした村上龍や、あの村上春樹でさえ(悪い意味で言っているのではありません)社会的発言をして現実社会にコミットしていこうという姿勢を示しているのを見るにつけても、中上健次が生きていたらなあ、と思うことしきりです。おそらく今の日本の社会に欠けているものについて深い洞察に満ちた発言が聞けただろう、と勝手に想像しています。 

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