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2008年1月30日 (水)

昔の人は短命?

後冷泉帝の御代、関白・左大臣を務めていたのは藤原頼通でした。宇治の平等院鳳凰堂を建てた人あるいは父道長とともに摂関政治の全盛期の人物として、記憶されているかと思います。

この頼通さん、前九年の役が終わった康平五年(1062)にはいくつだったと思いますか。実は71歳です。前年の康平四年に太政大臣に任ぜられていますが、この五年九月に自ら申し出て辞しています。そして、亡くなったのは83歳になってからです。

最初にこの年齢を見たとき、見間違いかと思いました。平安時代の貴族は、五十代くらいで亡くなっているのだろうという先入観があったからです。ちなみに頼通の父親である道長は62歳で死去しています。それに較べると息子たちは長命です。頼通の異母弟、頼宗が74歳、同母弟の教通が80歳など現在の男性の平均寿命近くまで生きていたようです。貴族だから、食事や何かにつけて庶民とはちがってマッタリ、マッタリナアとおじゃる丸のようなゆったりとしたペースで暮らすことができてこう長生きしたのでしょうか。

実は武士でも意外に長命の方がいました。先ほど挙げた前九年の役で陸奥国国司となって下り、安倍氏と六年以上の戦を続けた源頼義(八幡太郎義家の父親で、頼朝や義経の直系の祖)は、乱が平定された康平五年の時、75歳です。老将軍じゃないですか。しかもその後も長生きし、87歳で没しています。北国で冬の厳しい寒さにさらされ、膠着した戦線に出陣し、兵粮の不足に苦しみながら過ごしたはずなのにこの長命。すごいものです。

もちろん短命の方も多いです。流行り病が起これば草木をなぎ倒すように、バタバタと人が亡くなったのでしょう。現代のように医療が十分発達していたわけではないですから、無理もない話です。大鏡にも藤原行成(三蹟の一人)の父、後少将義孝と義孝の兄にあたる前少将挙賢(たかかた)が、疱瘡にかかって一日の内に亡くなるというエピソードが出てきます。

義孝はわずか21歳の若さで亡くなります。美貌の貴公子で、仏道にも志が深く、法華経を読誦したい宿願があるから必ずこの世に帰って参ります、と母君に言い残します。しかし、息子たちを二人とも同じ日に亡くして呆然としている母君に代わってだれかが普通の作法通りにしてしまい、義孝は帰ってくることができません。後日、母君の夢に現れて
     しかばかり契りしものを渡り川かへるほどには忘るべしやは
あれほど約束していたのに、私が三途の川を帰ってくるくらいの間に忘れてしまうとは。と詠み、母君は後悔します。

その後、賀縁阿闍梨(あじゃり)という僧の夢に、二人の公達が現れます。兄の挙賢はもの思いに沈んでいますが、弟の義孝はうれしそうにしているので賀縁が不思議に思ってたずねると
     しぐれとは蓮の花ぞ散りまがふなにふるさとに袖濡らすらむ
時雨というのはこちらでは蓮の花が舞い散ることをいうのです。母君はどうして涙で袖を濡らしているのでしょう、と極楽往生したことを喜んでいらっしゃる。

さらに小野宮(おののみや)右大臣藤原実資(さねすけ)の夢にも現れ、
     昔は契りき蓬莱宮の裏の月に
     今は遊ぶ極楽界の中の風に
昔は蓬莱宮のような宮中であなたとお付き合いしましたが、今は極楽の中の風に吹かれて遊んでおりますよ、と実資の問いかけに答えたという話が出てきます。

美青年の貴公子が夭折したので、余計にこのようなエピソードが残ったのでしょう。仏道に専心して極楽往生できたという義孝の姿が、もの思いに沈む兄の挙賢と対照的でおもしろいと思います。

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