2018年8月27日 (月)

かぼちゃの煮物

スーパーで売られているカットかぼちゃが冷蔵庫の隅で暇そうにしていたので、煮物にしてみることにした。これまで一度もかぼちゃの煮物など作ったことはないのだが、これから秋めいてくると、ほっこりした煮物が食べたくなるだろうから試しにやってみた。

カットかぼちゃの一片は結構大きいのでさらに半分にし、ひたひたくらいの水を入れて鍋を火にかける。大さじ1杯半くらいの砂糖を最初から入れてかぼちゃを煮ていく。箸が通るくらいになったら塩を小さじ1杯くらい入れる。あとは中火から弱火に落として、ことことと煮汁が少なくなるまで煮ていく。かぼちゃが崩れないようあまり動かさない。

煮始めから二十分もかからずに何やらかぼちゃの煮物らしきものができた。試食してみる。ほお、このかぼちゃは栗みたいだ。目隠しされて食べたらたぶん栗だと思うかもしれない。味はこんなものか。甘すぎずしょっぱすぎず。砂糖と塩だけであとは何も入れていないが、ちゃんとかぼちゃに味がついている。

それにしても、かぼちゃの煮物とは案外簡単にできるものだ。もっと手間ひまかかるシロモノかと思っていたのだが、これなら誰でも簡単に作れるのではないか。醤油を加えて少し甘じょっぱく煮しめるのもいいかもしれない。

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2018年8月24日 (金)

夏休みが明けて

奥州市の中学校は新学期が始まって一週間になる。来月9月に修学旅行というところもいくつかあるので、新人戦や中間試験や実力テストとともに忙しいひと月となるかもしれない。

テストが続いたりさまざまな行事が入ったりすると、どうしても目先のことに注意が向いてしまい、少し長い時間でものごとを考えるということがおろそかになりがちだ。これは大人でもそうだ。なかなか先のことまでは目が届かない。けれども、夏休み明けから9月にかけての時期は、受験に向けて本格的に勉強を進めていく大事な時期だと思う。

これまで部活などで受験勉強に本腰を入れて来なかった人も、この時期からは言い逃れできなくなる。○○があるから、○○が忙しいからという口実が使えなくなるということだ。勉強は、できることならやりたくない。ラクして入試に臨めるならそのほうがいい。定員割れで倍率も低いから、あまり頑張らなくてもなんとかなるでしょ。そんなふうに考えている人もいるかもしれないが、話はそう簡単ではない。

高校入試というのは、あくまで通過点でしかない。大事なのはその先で、高校に入ってからも勉強は続いていくということ。高校を卒業して進学するにしろ、就職するにしろ、それぞれの進路に応じた学力が求められるということ。この先どこまで行っても、勉強せずにすまされる場面はないのだと思ったほうがいいかもしれない。

だから、高校入試の準備をきっかけに勉強の仕方と習慣づくりができた人は、この先勉強しなければならないところでもあまり苦労することはないと思う。けれども、そうでない人は大変なエネルギーを求められるだろう。下地があるところから始めることとゼロから始めることでは、想像する以上の隔たりがある。

なにごとも経験なので、そういった大変な思いをするというのも、意味のあることだとは思う。しかし、いつかどこかの時点で勉強することに向き合わなければならないのであれば、この高校入試の準備をする時期にその基礎を身につけてしまったほうがよいだろう。

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2018年7月 7日 (土)

あれから二十年以上経つのか

テレビをつけたら、オウム真理教の死刑囚7名の死刑が執行されたというニュースが流れていた。教組もその中に含まれている。

地下鉄サリン事件が起きたのは1995年。もう二十年以上も前の話だ。その後どれくらいの期間オウム真理教についての報道が続いたか、今となっては記憶の片隅にも残っていない。それでも逃亡していた指名手配中の元信者が逮捕されたニュースが出たりすると、遠い忘却の彼方からぬっと異様なものが顔を見せたかのように、何かしら心をざわつかせるものがあった。

オウム真理教の事件は、よく分からない部分が残っているように思われる事件だ。しかし、教組や幹部が逮捕され裁判が長期に渡るにつれ、世の多くの人びとは事件そのものへの関心を失い、とっくに終わってしまった解決済みの事件という分類に収めてしまったのではないか。だから、もしかすると今回の報道に接して「えっ、オウム真理教の死刑囚ってまだ死刑になっていなかったの?」と思った人もいるかもしれない。

事件そのものは社会の中で風化してしまっても、今回のように目の前に異様なものが不意打ちに現れると、ざわざわしてしまうのは何故なのだろう。舗装された地面を一枚ひんめくるとむき出しの黒い土が顔をあらわすように、何事もないかのごとく見える現代日本の社会も一皮むいてみれば、異様なものがそのまがまがしさのままに顔を見せるということか。

異様なものは、しかし、我々の隣人なのであり、異質な存在に見えても実は我々とそれほど大きな違いがあるわけではない。異質なもの、我々とは異なるものとして排除することは容易だ。むしろ多くの人びとは、そうしたものを排除することによって自分が存立している地点を守ろうとする。少なくとも私たちはあの人たちみたいな大それた事件は引き起こさない。そのように思い、彼らを切り離していく。

けれども、どれだけの違いがあるのか。オウム事件の死刑囚の多くは私と同年代だ。文系、理系といった違いはあっても、同じような時代に大学に進み、何かのきっかけでオウム真理教という集団に吸い寄せられ、その中に居場所を見出し、自分の役割だと信じ込んだことに忠実に従った結果犯罪者となってしまった。途中までの経路に大差はないのだが、ある地点から大きく分かれて、一方は死刑囚、一方は平凡な小市民となっただけのことではないか。

彼らの犯罪を擁護しようというではない。許容しようというのでもない。彼らは法を犯したのであり、それに応じた裁きを受け、罰を負うべきだと思う。しかし、彼らは我々とまったく異質な存在なのかと言えば、そうではないだろうと思うだけだ。今でも同じような道筋をたどる人びとが一定数いるだろうということだ。

つまり、オウム事件を引き起こすことになった日本の社会の在り方は、この二十数年を経てもあまり変わっていないのではないか。むしろ状況が見えにくくなっている現在のほうが、ずっとタチが悪いのではないかということだ。現在は過去と地続きだし、現在は未来へとつながっている。無数の可能性の束から選択が繰り返され歴史的事実と呼ばれるものが積み重なっていく。過去に存在したものが目の前から見えなくなっても、消えて無くなってしまうわけではない。だから、蓋をしたと思っていたものがぬっと顔をあらわすと、その地続きの歴史の異様さにクラクラとめまいを感じるのかもしれない。

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2018年5月30日 (水)

あっという間に六月・続き

しつこくダラダラと続けているといえば、英単語の練習を始めてから二年近くになる。七月の下旬で丸二年だ。なかなか12000語の単語は覚えられない。今の時点でやっと六割弱ぐらいになっているだろうか。おそらく6000語から7000語の間だろうと思う。ベースが4000語程度あったのだから一年で1000語くらいずつしか増えていない。この調子でいくとあと五年か六年はかかることになるなあ。それでやっとアメリカの小学校卒業程度の語彙となるのだから、なんだか脱力する。

ではあるが、しつこく単語練習を続けているおかげで少しは英文を読むのが苦にならなくなってきた。これくらいいいことがないと、単なる苦行になってしまうので、やはり何らかの「ごほうび」があるのはうれしいということだ。目に見えて力がついてきたなという実感があるのとないのとでは、やる気に大きな差がつく。してみると、試験で点数が上がるということは、やはり重要なことなのだ。

何を寝ぼけたことを言うておるのじゃ、「ぼおっと生きてんじゃねえよ!」とNHK総合の土曜朝に放送されている「チコちゃんに叱られる」みたいな喝が入りそうだが、自分が成長しているのだという感触こそが一番の「ごほうび」なのではないか。これは年齢には関係がない。具体的な物やサービスを「ごほうび」にしてもいいのだが、そのようなものは一時的な満足感しか与えない。深いところからくる満足感は、成長の実感によるのではないか。ひとが学ぶことをやめないのは、それがあるからではないのか。

目的や達成感のないものは、徒労感しか生まない。シジフォスのあれである。小さくてもいいから達成したという感触があるといいのだ。トイレ掃除や洗い物の片付けがきらいではないのは、たぶん同じような心の傾向から来ているのかもしれない。すぐに味わえる達成感。目に見えて確認できる成果。こういうものに弱い、というわけだ。

ということで、英単語の練習はこの先も延々と続いていくことになりそうだ。

おまけにもう一つ。このごろハマっているものといえば「数独」。ナンバープレイスである。「数独」というのはどうやら商標らしいが、ネット上のサイトを見ると「数独」「ナンバープレイス」が同じくらい使われている。ご存じの方には無用の説明だが、9☓9のマス目があって縦列・横列・3☓3の9個のブロックの中のどれも1〜9の数字をダブらせずにすべて使うという、ルールはとても単純だが、始めてみるとなかなか奥が深い。

実は以前カミさんがスマホのゲームアプリで「数独」を遊んでいたのをチラッと見て、ふーんと思っていたのだが、実際にやってみると面白い。私はスマホを使っていないので、プリントアウトした紙と鉛筆、消しゴムで遊んでいる。最も原始的な形だが、いつでもどこでもすぐにできるという点ではこれが一番だ。

論理的に考えていくのが早道なのだと思うが、レベルが上がっていくと、そこからさらにひらめきが必要になりそうでしばらくハマりそうだ。これもまた、すぐに味わえる達成感が共通項だろう。

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2018年5月29日 (火)

あっという間に六月

同じような毎日を迎えては送り出しているだけなのだが、気がつくともう六月である。

新年度が始まってこの二ヶ月、一体何をしてきたのだろうと思う。それなりに教務を片付け中学生の中間試験の準備をし、白ゆりテストの説明会にも顔を出してきた。個人的な生活には大きな変化はないが、ご近所や知人のところに不幸があり、二つほど葬儀に出てきた。

その他は相変わらずである。近代史の学び直しは、韓国併合時の朝鮮半島を集中的に学んでいた。いわゆる日帝支配の三十六年間である。さまざま発見することが多かった。一番近い国なのに何も知らずにいたわけで、複雑な気持ちがする。

しかし、近代史の学び直しだけでは飽きる。このところ小説はあまり読む気にならないので、Yuval Noah Harariの"Sapience --- A Brief HIstory of Humankind"とChris Negusの"Linux Bible ,ninth edition"をちびちびと読んでいる。

ユーバル・ノア・ハラリさんはイスラエルのヘブライ大学歴史学部教授で、この本は『サピエンス全史』という邦題で翻訳もされているようだ。こちらは辞書を引き引き、半分ほど読んだが面白い。なんとなくジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』と似たような感じだなと思ったら、巻末に"Special thanks to Jared Diamond, who taught me to see the big picture."として名前があげられていた。ユーバル・ノア・ハラリさんの議論の中心はどうやら、この著作の次に出た"Homo Deus --- A Brief Histrory of Tomorrow"のほうにあるらしく、いずれこちらも読んでみなければと思っている。

クリス・ニーガスさんの"Linux Bible"は文字通りリナックスの全解説で、一番基本のところから一番深いところまで網羅されている。つまり初心者が読んでも勉強になるし、上級者が読んでも参考にできるという理想的な本だ。こちらは"Sapience"の倍以上のボリュームがあるので、読み終わるのはいつのことになるのか分からない。ではあるのだが、ひとつひとつの項目がすんなりと頭に入ってくる。いつまで経ってもリナックス初心者で、ほとんど何もわかっていない私のような人間が読んでも、なるほどそうなっているのかと納得する解説だ。本当によく理解している人が書くと、こんなふうに初心者が読んでもすっと分かるように説明できるのだろうな。なんと言えばいいのか、説明の論理がすっきりしているので、その論理の流れに乗っかっていれば肝心な所からはずれないということなのだと思う。これが中途半端に理解している人の説明だと、とたんに難しくなる。

つまり、どちらの本もきわめて論理的な文章なので、その論理の流れがすんなりと入ってくるのだろう。こういう本を読んでいると自分の頭が良くなったように錯覚する。本当は作者が優秀なのだが、自分が論理的になったような錯覚は気持ちがよい。あくまでも錯覚なのだが。

ただ、この二冊もこれだけを読んでいると飽きる。そうすると、近代史関連、特に朝鮮半島の近代史関連の本をまた読み始める。でまた、それも飽きる。すると英文に戻る。この繰り返しである。「三つ子の魂百まで」というが、昔からそうだった。何事かに熱中するとしばらくのあいだはそれにのめり込む。文字通り寝食を忘れるくらいはまり込む。ところがある日唐突に、飽きる。憑き物が落ちたように、ああしばらくはもういいやと投げ出す。そして別のものにハマる。それも飽きる。また元に戻る。この繰り返しで長年を過ごしてきた。だから、たぶんいつまで経っても中途半端なんだろうなと思う。まあそれもしょうがない。今さら変えようとは思わないし、このままダラダラと熱中と飽きた状態を繰り返し延々しつこく続けていこうと思っている。

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2018年4月 6日 (金)

何が違うのか

薬局で薬が調剤されるのを待つ間、BGMに流されているピアノ演奏を聴いていた。聴いたことのある曲だが題名が出てこない。まあいいか。ピアノはとても軽快で耳に心地よく入ってくる。おそらく誰が聴いても不快にはならないだろうと思われるような演奏だ。

母が軽いめまいがするというので、かかりつけのお医者さんに診てもらったのだが、季節の替わり目には三半規管の調子が悪くなってめまいを起こす人が多いという。ここ数日そういう患者さんが多いですよ、と医者は微笑した。とりあえずめまいに効く薬を出しておきましょう、と処方せんを渡してくれた。その処方せんを持って行った薬局での話である。

昔ならイージーリスニングとでも呼んでいたか。今は何と呼ぶのだろう。スムースジャズとか何とか言うんだろうな、たぶん。4ビートだから確かにジャズの演奏ではある。黙って聴いていると、いくらでもするすると入ってくる。一方でするする抜けていく。BGMとしては最高の音楽だろう。

薬を受け取って車に戻りエンジンをかけるとビル・エバンス・トリオの演奏が流れ始める。同じように4ビートのジャズ演奏だ。でも、明らかに何かが違う。何が違うのだろう。家に戻る道々ずっと考えた。

ああ、そうか。糖分の入った缶コーヒーとドリップしたレギュラーコーヒーの違いだ。どちらもコーヒーであることに変わりはない。だが、誰が飲んでもそれなりに美味しく感じる甘くて苦い缶コーヒーと、入れたてを砂糖なしで飲むレギュラーコーヒーでは風味が違う。コーヒー飲料とコーヒーそのものの違いとでも言えばいいか。

BGMのピアノ演奏は何も考えずにすむように流されていた。ひたすら耳に心地よく響いたのは、何も考えなくてよかったからだ。空気のように、存在を感じさせない音楽。それに対しビル・エバンスの演奏は、何かを考えさせる。自分の内側にある何かを引っ張り出す。あるいは自分の内面のどこかに引っかかる。だから、ひたすら快いわけではない。ときに不協和だったりもする。

自分が欲しているのはどちらの音なのだろう。毎日でも耳にしたいのは、BGMの方ではなくビル・エバンスの方だ。"inspire"という英単語がある。「鼓舞する、霊感を与える、吹きこむ」などが主な意味だが、ビル・エバンスの演奏を聴くと"inspire"される。その演奏から自分が何かを吸い込んでいるという感触を味わう。

BGMのピアノ演奏をだめだと言っているのではない。あれだけ「気配」や「体臭」を感じさせない演奏をするのは、相当な技量が求められるはずだ。意図的にそういったものを消さなければならないからだ。無味無臭の衛生的な、まさに薬局の待合室向きの演奏なのだ。極力、演奏している人間の顔や体を隠し、まるで自動演奏でもあるかのような滑らかさに到達している。その演奏が、自分の中の何かを引き出そうとしないのは当然だ。引き出さないために演奏されているのだから。

そういえば、このごろBGMをかけながら作業をするということができなくなってしまった。作業をやめて聴き入るか、流れている音楽を「聴かず」に作業するかのどちらかになっている。つまり聴きたいと思えば作業はできないし、作業に集中し始めると音楽が邪魔になってしまうのだ。年齢を重ねるとともにそうなったのか、それはよく分からない。

たぶん残り時間がだんだん減っていくという感触が、多少は切実さをもって身に迫ってくるようになったからかもしれない。若い頃はそういう感触と無縁だったり、あっても漠然としたものだったのだが、時間をふんだんに浪費するという贅沢さを手放しでは喜べなくなった。歳を重ねるというのはそういうことなのだろう。

だから、何かを引き出してくれる音楽に、対話するように向い合って耳を傾けていたい。心底そう思う。

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2018年4月 2日 (月)

「道徳」という教科

今年度から、「道徳」が教科化されるという(平成30年度から小学校で、31年度から中学校で)。政府の資料によると、「教科」というのは従来、  

   ①数値による評価を行う
   ②検定教科書を使用する
   ③中学校以上の担当教員については、教科ごとの免許を設ける

といった原則があったそうだが、それが「道徳」という教科については

   ①数値による評価は行わない。記述式など他の評価の在り方を検討する。
   ②検定教科書を作成するかどうか。しない場合、学習指導要領の指導内容に
    沿った教材を使用する。(各教育委員会で作成されている郷土の教材など)
   ③中学校においても、小学校同様、徳育の担当教員は設けず、学級担任が
    指導することとするかどうか。
   ④中学校については、名称を徳育ではなく、「人間科」にすることなども検討
    する。

このような取り扱いにするのだそうだ。特に①の「数値による評価は行わない。記述式など他の評価の在り方を検討する」というところに関心が集まるのではないかと思うのだが、これは得点で評価するテストではなく、小論文や作文のようなテストで評価するというこのなのだろうか。文部科学省のサイトを見ると、「道徳の評価の基本的な考え方に関するQ&A」という項目があり、そこに回答が載っている。

   ・道徳科の評価は、道徳科の授業で自分のこととして考えている、他人の考え
   などをしっかり受け止めているといった成長の様子を丁寧に見て行う、記述に
   よる「励まし、伸ばす」積極的評価を行います。
   ・このような道徳科の評価は入試にはなじまず、入試で活用したり調査書
   (内申書)に記載したりはしません。

数値評価はせず入試にも活用しない。とりあえずは、なるほどと思う。思った上でなお、「道徳」は教科として指導できるものなのだろうかという疑問が消えない。

このもやもや感は何だろう。小学生はともかく、中学生には材料だけ与えて自分で考えさせそれぞれが自分の道徳観を形作るほうがいいのではないか。「記述による「励まし、伸ばす」積極的評価」すら無くてもいいのではないか。たとえば、指導する教員の道徳観と大きくかけ離れたような道徳観を持つ生徒に対して、「積極的評価」をできるものだろうか。

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2018年3月31日 (土)

節目

年度末である。季節感もなく年がら年中同じような毎日を送っていると、また似たような一日が始まるのだなあ、くらいの気持ちにしかならないが、それでも年度が変わるとそれで一区切りがついたような気もするのだから妙なものだ。

大晦日から元日へと年が変わっていくことにさして大きな変化があるわけではないのだが、それでも新年ということになればやはり何か気持ちが改まる、と吉田兼好は『徒然草』で言っていたような気がするが、それに似ている。

のんべんだらりと金太郎飴みたいな日々であっても、どこかで区切りをつけて仕切直ししないとやりきれない。だから、年末年始や年度が変わるというのは、思っているよりもいい効果を与えているのかもしれない。

つまり、変化ということだ。テレビの番組が変わる。クラス替えが行なわれる。担当者が変わる。部署が移動する。何でもいいのである。目先が変わったくらいで中身が変わるわけではなくても、人は外側にだまされる。それで気分が新たになれば、結構なことではないか。

もっとも、忘れないというしつこさや、いつまでも同じことを続けているという愚直さも一方では必要である。ただ、長い時間変わらずに続くと、たいがいの人は飽きる。飽きると繰り返しにうんざりする。ますますうんざりする。この悪循環を切り抜ける手だては、変化することしかないのだろう。

目先を変えることで、気分を変えることで、それまで続けてきたことも新しい意味や感触をもって見えてくるようになる。それでいいのではないか。十年一日、毎度毎度バカバカしい一席をと続けていくために、節目という隠し味は必要なのだと思う。

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2018年3月28日 (水)

さて、ここまで何を読んできただろう

もうじき新年度が始まる。年が明けてから四分の一が過ぎるということになる。すっかり暖かくなり、桜の花も今年は早く咲くだろう。

ところで、今年はここまで何を読んできたのだろう。あれこれ読んだような気もするが、はて何を読んだのかとんと思い出せない。

近現代史の学び直しの途中だから、その関連で読んだものが多いはずなのだが、さて何だったか。特に韓国併合後の朝鮮半島に興味を持ち、朝鮮史関連が増えたような気がする。

『朝鮮史』梶村秀樹、講談社現代新書
『白凡逸志』金九著、梶村秀樹訳、平凡社東洋文庫
『日韓併合小史』山辺健太郎、岩波新書 青版
『パンソリ』申在孝、平凡社東洋文庫
『朝鮮王朝の滅亡』金重明、岩波新書

ああ、そうだ。これに関連して中上健次の評論集を読んだのだった。『中上健次エッセイ撰集 青春・ボーダー編』恒文社。中上健次が朝鮮半島に興味を持っていたことを知らなかったし、パンソリに関心を寄せていたことも初めて知った。

一番近い外国である韓国・朝鮮のことをほとんど何も知らずにこれまで過ごしてきたのだな、と改めて思う。1910年から1945年の植民地時代のことも、それ以前の朝鮮社会のことも、何も学ぶことなく来てしまった。日本史に関連の深い、百済からの渡来人、李氏朝鮮、文禄・慶長の役、朝鮮通信使、江華島事件、甲午農民戦争、韓国併合といった用語は思い浮かぶものの、それだけだ。用語が抱え持っている膨大な細部にまったく思いが至らなかった。

上海に成立した大韓民国臨時政府の主席、金九の自伝『白凡逸志』などを読むと、日帝時代の朝鮮の人びとが支配者である日本人にどのような思いを抱いていたのかよく分かる。もちろん、金九は右派の急進派だから、一方の極端であろうとは思う。日帝時代に親日派と言われた半島の人びともいたのであり、日本に対する思いが一様でなかったろうとも思う。しかし、激烈な反日感情を抱かせるような、植民地支配の実際がそこには存在した。

何かにつけて日韓関係はギクシャクしがちだし、北朝鮮とはまともな対話すらできない。元をたどれば、三十六年間の植民地支配の「感情的精算」ができていないからなのだろう。踏んづけた方は忘れても、踏まれた方は痛みを覚えている。併合という植民地支配がどのようなものだったか、踏んづけた側の子孫は、その歴史の実際に目を向ける必要がある。

これは「自虐史観」とは無関係だ。そもそも植民地支配の実態を教えられることすらないのだから、まずは歴史を知ることそのものから始めなければならない。評価はその後にくる問題だ。歴史的背景を知った上で、嫌韓になるのはそれぞれの自由だが、無知に由来する嫌韓あるいは嫌中は単なる排外主義でしかない。ナショナリストを気取るなら、朝鮮のナショナリストだった金九の「愛国心」に共鳴するのが筋だろう。

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2018年3月15日 (木)

一つずつ

朝、着替えをしながら思う。ものごとは一つずつしか片付かないな。シャツのボタンを止めながら、靴下を履こうと思っても同時にはできない。まず、一つを終わらせてから次に進むしかない。

大概のものごとは、そういうものなのではないか。大震災からまる七年経って、復興が遅々として進んでいないように感じる。しかし、これとて一つずつしか解決していかないのだろう。同時に進めていけることがらにはおのずから限度がある。まずは一つを終わらせる。歯がゆく思っても、そこからしか次のものごとに取り掛かる手だてがない。

あれもこれもと多くを望む。それが人の常かもしれない。あれもやって、これもやってと気持ちばかりが空回りするときもある。けれども、焦ってみてもその時に実際に片付けることができるのは一つなのだ。マルチタスクで処理するコンピュータみたいなわけにはいかない。

地に足をつけるというのは、そういうことだと思う。まだ実現されていない願望の姿を語ることもときには必要だろうが、遠い先ばかりを眺めていても足元がおぼつかなくなるばかりだ。今できること、今続けなければならないこと、今片付けてしまわなければならないこと。それに集中することが遠回りのようで近道になる。

一気に大逆転、みたいな話は気をつけたほうがいい。短期間で成績が確実に上がりますということをうたい文句にしている塾もあるが、宣伝のためのキャッチコピーだと見たほうががっかりせずにすむ。入塾を検討して訪れる保護者には、いつも「成績が上がるのには時間がかかります」と告げている。最低でも三カ月。一カ月目で少し前より分かるようになったかもしれないと感じ、三カ月経過するあたりからはっきり以前より力がついたと実感する。学習に関して言えば、これがまともなところだろう。もちろん個人差はある。もっと短い期間で力がつく場合もある。それは、単に教える技術とか教材とかだけの問題ではない。それまでの本人の蓄積、学習習慣、学習への意欲などなどさまざまな要素がからんでくる。

しかし、三ヶ月間まともな努力を継続すれば、着実に力はつく。成績になって現われるためには、試験の時の解答作成技術も関係してくるから、その部分が弱いと「成績が向上した」という結果にたどりつかない。力はついているのに、表現できないという状態だ。

今年高校受験をした数学が苦手な生徒には、目標点は75点でよいと告げた。他の教科が十分取れているので、一番苦手な数学で八割や九割を目指さなくてもいい。75点満点だと思って、できるだけ確実に得点できる問題に集中するよう指示した。

苦手な教科は、そうやってまず現実的な目標点を達成することが大事ではないか。つまり、「一つずつ」ということである。一つ片づいたらその先に進む。この繰り返しで漸進するのが、誰にでもできる成績向上法だと思う。あるところで一気に理解が進み、飛躍的に分かるということもあるだろう。それとて一つずつ積み重ねていく継続の先にしか見えてこない風景だ。

今日は、午後から公立高校の合格発表。数学が苦手な生徒は、その数学で七割弱を得点していた。まずは想定していた通りの点数だ。いい結果につながるだろうと思っている。

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