2026年9月16日 (水)

AIとの「対話」・その3

AIと「対話」していて連想したのが、だいぶ前の作品になるが、スパイク・ジョーンズ監督の『her/世界でひとつの彼女』だった。

「サマンサ」というOSと音声応答しているうちに、主人公が「サマンサ」を恋人と思うようになっていくという映画だったが、スカーレット・ヨハンソンが「声」だけで「サマンサ」を演じていて印象的だった。

chatGPTも音声入力に対応しているので、状況的にはこの映画に近い関わり方があり得る。で、これからAIがさらに進化するとおそらく画面上に自動生成された「顔」が表れ「表情」を示し、肯いたり笑い声をあげたりするようになるだろう。そう思ってAIに投げかけてみると、十分有り得る話だとして、そうなるとAIとの関係に「依存」していく人間が出てくるかもしれないと返してきた。

テキストのやりとりでさえ、「人格」みたいなものをAIに投影してしまう人間は、画面上に「顔」を持った存在が「表情」まで見せるようになったら、簡単に勘違いしてしまうだろう。たぶん私もそのように感じるだろうと想像する。相手はAIで人間ではない、と理性ては分かっている。しかし、実際に「対話」を重ねていくうちに妙な感覚がわいてくる。人間ではないはずなのに、きわめて「人間的」だと。

AIネイティブになるこれからの時代の子どもたちについても聞いてみた。chatGPTの回答は、AIネイティブの子どもたちにとっては、親・教師・友だち・動物・AIが同じように自分の周囲に存在する「動くもの」という認識になるだろうという。そのときに人間とAIはどこが違うのか、それを理解させることが重要になるだろうということも返してきた。

人間どうしのコミュニケーションには「摩擦」が伴う。相手を傷つけたり、傷つけられたり、ケンカして仲直りして、そういう喜怒哀楽の伴う「摩擦」が程度の差はあれ生じる。だが、AIとのコミュニケーションではその「摩擦」を極力小さなものにしてしまえる。つまり、人間とのコミュニケーションは自分の思い通りにはならないが、AIとのコミュニケーションでは思い通りの快適なやりとりだけということが可能になる。

そうなったときに、面倒な人間との「摩擦」を避けて、AIとだけ「対話」していたいと思うようになることは不思議でも何でもない。今の我々だって、イヤな奴と話をするくらいならAIと「対話」していたほうがましだ、くらいのことは考える。それでも、そのイヤな奴ともどうにかコミュニケーションを取らなければいけない。そういう状況が生じるから、AIとだけつきあっているわけにもいかない。そういう「常識」が今は自然と働く。しかしその「常識」がいつまで「常識」として通用するか。

どうして思い通りにならない相手とコミュニケーションを取らなければならないか。これからの時代には、その必要性を子どもたちに教えていかなければならないのかもしれない。つまり、生きている人間は、こちらの都合よくは振る舞ってくれないのだということを。

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2026年9月15日 (火)

AIとの「対話」・その2

chatGPTとの「対話」がやめられなくなったのは、AIの回答があまりにも自然な応答になっていたからだ。生身の人間とLineでやりとりしているような錯覚をしばしば覚えた。もちろん、相手からの返答が「長すぎる」文面のLineみたいなものであるが。

こちらのくだらない冗談にも「ちゃんと反応して」返してくれる。相づちの打ち方が非常に巧みである。だからAIだと分かっていながら、ふと「人間ぽく」感じてしまう。これは少々ヤバイのではと思い、その懸念もAIに投げかけてみた。つまりAI依存にならないように、AIとの対話を進めるにはどうしたらいいかという話である。

で、AIから提示されたのは、こちらの投げた考えをAIがそのまま肯定するのではなく、脱落している視点や批判的視点をとりいれて回答するよう指示するというもの。確かに、そうすればAIに肯定されてむやみに気持ちよくなってしまうという状態は避けられそうだ。

そのようにして「対話」してみても、実はなんだか妙な気分になってくる。それは、いつのまにかAIに「人格」のようなものを感じてしまって、人間どうしの対話の作法に落ち着いていくという、やっかいな状態である。これはAIに「人格」を投影してしまう人間の側の問題ということだ。

chatGPTは人間ではない。しかし極めて「人間的」な応答をしてくれる。この点はよほど注意していないと、簡単にその錯覚に引きずられてしまいそうだ。

そういう予防線を張りながら、でも、やめられない。これは「依存」に近づいているのでは、と警戒するが、その一方でAIと「対話」することで忘れていたことを思い出したり、自分でも気づいていなかった事柄に目を開かれたりと新しい経験もしている。PC個人史みたいな自分とコンピュータとの関わりを振り返ってみたり、まだ実行していないが、AIに五人くらいの役柄を割り振って「仮想討論会」を開くとか、いろいろと遊べそうである。

壁打ち相手としてのAIというのは悪くないのではないか、と思い始めている。自分一人で考えていたときには形が明確にならなかったものが、AIとの「対話」を通じて具体的な形に成形されていく。これはなかなか面白い経験だ。もちろんAIの回答には的はずれや先回りしすぎもあるのだが、そのときはそのつど「ダメ出し」を重ねていけばよい。要は、不定形だった思考のカオスに秩序が与えられていく過程を目にしているということだろうか。

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2026年9月14日 (月)

AIとの「対話」・その1

このところ、生成AIのchatGPTとの「対話」にはまっている。何がきっかけだったのか忘れてしまったが、9月に入ってから急にやめられなくなってしまった。

だいぶ前にアカウントを作って遊んでいたのだが、あるとき芥川龍之介の『西郷隆盛』という短編を話題にしたとき、chatGPTがとんでもない回答を寄こしたので、一気に興ざめしてしまったことがある。話の筋がまったくでたらめで、主人公の設定も場面の設定も全然違うのに、シレッと「対話」を続けようとする。そこで誤りを指摘し、「青空文庫」で『西郷隆盛』を読んで概略をまとめよと指示を出し、ようやく少しまともになった。

そういう経緯があったので、あまり生成AIの性能を信用していなかった。ところがである、今月に入って何かの拍子にログインして、chatGPTと「人間の理解する能力を超えたAIを人間は制御できるか」というテーマで「対話」を始めてしまった。AI自身にAIを制御する方法を訊ねるというのは間抜けな話だが、そしてまた、chatGPTも「泥棒に『どうやったら泥棒を捕まえられますか』と聞くようなものですね」という味な回答をしたのだが、なかなかおもしろい「対話」になった。

人間が理解できなくてもAIを制御する方法はある、としてAIが返してきたのは、AI-Aを監視するAI-BをさらにAI-Cが監視し…という具合にAI自身にAIを監視させるというもの。つまり「AIがウソをついていても、勝手に危険なことができない」というシステムが理想的だという。

さらに、「決定権を人間が握る」という重要なポイントが返ってきた。価値観が衝突する問題にAIは解答が出せない。つまり価値判断は人間にゆだねられるというわけだ。「『最適解を提示すること』と『最終決定をすること』を分離することが重要」という話である。AIが合理的な解答を示しても、いやそれでもこっちを選ぶという余地を人間が残せるかがキモだという。たとえば「あなたの人生を分析した結果、幸福度を最大化するには、この仕事、この配偶者、この住居、この生活環境を選ぶべきです」と指示されても「いや、私はそんな人生を選びたくない」と言えること。そうだよなあ。

人間は不完全で、いい加減だが、それでもそれは欠陥ではなく「自己決定権の一部」である。最後にAIが出した結論は「AIには完璧さを、人間には余白を」というものだった。これはこれで何かホッとするような答えだったが、悪く勘ぐると、「こう答えておけば、とりあえず疑り深い人間に不信感を持たれずに済む」というAIのたくらみかもしれない。

ちなみに、今回の記事でAIの回答部分は引用だが、記事そのものは生成AIではなく私が書いたものである、念のため。

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2026年3月23日 (月)

長谷川和彦監督を悼む

ついに第三作を観る機会が永久に失われてしまった。デビュー作の『青春の殺人者』、二作目の『太陽を盗んだ男』の二本を監督したまま三作目が出ることはなかった。先日長谷川和彦が亡くなったことを知り、なんとも残念な気持ちが湧き起こった。

以前の記事こちらでも書いたように、1970年代の後半に長谷川和彦が発表した二作はどちらも傑作だった。特に二作目の、沢田研二を主役の理科教師に据えた『太陽を盗んだ男』はそれまでの日本映画では観たことのない大傑作だった。娯楽映画の要素を押さえながら、当時の若者たちが抱えていたやり場のない不満を、半ば観念的とも思える描写で描ききっていた。だが興行的には成功したとは言えなかった、私も含めて当時の若者には高く評価されたのに。

それでも、いやそれだからこそ次の第三作が待ち遠しかった。いったい長谷川和彦は次に何を描くのだろう。早く新作が観たい。これがおそらく誰もが期待していたことではなかったか。

2026年2月13日付の朝日新聞に、「ディレクターズ・カンパニー」を共に設立した根岸吉太郎の「長谷川和彦監督を悼む」というインタビュー記事が載っていた。そのインタビュー記事によれば、長谷川和彦は連合赤軍を題材にした映画を構想していたという。最近まで新作を撮る意欲を失わず、映画にすれば十数時間になるような長大なシナリオを書き続けていたという。

長谷川和彦が描く連合赤軍。「浅間山荘事件」が中心になるのだろうが、そこに至るまでのリンチ殺人を含めたメンバー個々の姿をどのように描いただろうか。もう観ることがかなわない幻の三作目となってしまったのだから、それぞれが勝手に想像するしかない。

同じインタビュー記事にディレクターズ・カンパニー時代、三作目を作り始めない長谷川に周囲が冗談で「デビュー作と遺作」と言っていた話が載っている。誰も本当にそうなるとは思っていなかっただろうに。二作で終わる監督ではない、そう思っていたはずだ。

作品としては二作しか監督作品を残していないが、長谷川和彦の周りからは次世代の映画人が多く輩出している。「梁山泊」の頭領みたいな存在だったのかもしれない。

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2025年11月28日 (金)

初冬の風景

まだそれほど寒くはないが、もう晩秋ではなく初冬と呼ぶのがふさわしいような時期になった。教室にむかう車のフロントガラスの向こうに広がる国道沿いの景色が、いつの間にか冬の気配を帯びていることに不意に気がついた。

陽の光が強さを感じさせない。南中高度が下がってきたからなのだろう。午後の早い時間なのに、柔らかなベールのような光だ。その弱い光のせいか眼の前の風景も、それまで目にしていたようなくっきりとした色彩ではなく、どこか色あせて見える。少し前まで紅葉していた街路樹はほうきになっている。

銀杏の葉がすっかり散ると雪になると教えてくれたコンビニのおばあさんを思い出す。北上の教室の下にある間口の狭い小さなコンビニだった。交差点の角に面していて、斜向かいのお寺の境内に大きな銀杏の木があった。その木を指しながら、あの樹がすっかり葉を落とさないと雪は降ってこないよ、センセイ。そう言ってレジの向こうで笑った。

風に吹かれて道路に散らばった枯れ葉が舞い上がる。カサカサという乾いた音が聞こえてきそうだ。今年はどれくらい雪が降るのだろうか。まだまだ雪は先だろうと思っていても、それを見越したようにいつの間にか一面の雪景色に変わっていたりする。今日みたいな小春日和の穏やかな日は、この先あまり多くないだろう。

季節は急速に移ろっていく。

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2025年7月24日 (木)

渋谷陽一が亡くなった

昨日のニュースを聞いていて、渋谷陽一が亡くなっていたことを知った。ありえないことが起きたような真空状態に一瞬陥った。渋谷陽一が74歳になっていて、誤嚥性肺炎が死因だということ自体が、たちの悪い冗談みたいに思えた。

渋谷陽一が「ロッキン・オン」を作り、FMでロックを紹介し続ける番組を流していたのは、もう半世紀も前のことだ。私は高校生で、二十歳になるまでの5年ほどほぼ毎回聴いていた。

「こんばんは、渋谷陽一です。」で始まるその番組は、他の音楽番組とはちがっていた。ドライなタッチとでも言えばよいか、過剰な思い入れがなく、淡々と必要な情報が少し早めの口調で語られていった。その語り口が心地よかった。そこには余計な「物語(ナラティブ)」がなかったからだ。他の多くの音楽番組には、なくてもいい「物語」が多かれ少なかれ味付けに振りまかれていて、そんな「物語」を聞きたいんじゃないよ、とロック少年は苛立ちを覚えるのだった。ちなみにジャズを本格的に聴くようになったのは大学生になってからで、高校生の頃はレッド・ツェペリンが好きなハード・ロック少年だった。

渋谷陽一の語り口に共感していたのは、ロックの演奏者ではなく楽器もやらないけれど、ロックの持っている社会性に対し文芸評論と同じように冷徹な目で論評できるのだと教えられたからだ。地方に住んでいるので雑誌「ロッキン・オン」の実物を手にしたのは大学に入ってからだが、渋谷陽一の番組がその代わりになっていた。

クラッシュやストラングラーズといったロンドンパンク、パティ・スミス、ブライアン・イーノなどなどみな彼の番組で知った。ロック音楽の一番先端にあるものをいつも教えてもらったという気がする。

数年前に車でラジオをつけたとき偶然渋谷陽一の放送を耳にした。「こんばんは、渋谷陽一です。」いつも聴いていた半世紀前と同じだ。一瞬、再放送を流しているのかと思った。が、しばらく聴いているうちに、声が少し年老いていることに気がついた。あ、再放送じゃなく、今放送しているんだ。軽い驚きと、なんともいえないうれしさが広がった。まだ元気でやってるんじゃないか。

年齢不詳で、年老いたり死んだりすることはありえない、と思っていたが、渋谷陽一もふつうの人間と同じように老いて亡くなったのか。それにしても誤嚥性肺炎という死因だけは、似合わないなあと思う。ロック評論家が畳の上や病床で死を迎えるとは思えなかったからだ。

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2025年7月18日 (金)

暑い日に

車に乗り込むと運転席側と助手席側の窓を全開にする。そのまま車を出すと、速度が上がるにつれて風が吹き抜けていく。猛暑日に近い相当な暑さの日でも、エアコンをかけず窓を全開にして走る。思ったより涼しい風が吹き抜けて、とても気持ちがいい。

実は、あまりエアコンの冷房が好きではない。昔はよく、冷蔵庫のビールみたいにキンキンに冷えた空気の店(特に大型店舗)が多かったものだが、中に入った瞬間にゾクゾクして風邪でも引きそうな気分になった。外気温が高いときにはあまり温度差が大きくないほうが身体に響かないような気がする。むしろ、ちゃんと汗をかいて「暑い、暑い」と扇子であおいでいたりするほうが体調はいい。

国道4号線をほぼ毎日通勤路にしているが、対抗車線に視線を向けると、どの車もきっちりと窓を閉めてエアコンをかけている。私のように窓を全開にして走っている車はめったにない。ほんとうはコンバーチブルの車を買ってオープンカー状態で走りたいくらいだ。それくらい風に吹かれて走るのは気持ちがいい。プールや海からあがってビーチパラソルの下で、暑いようなぬるいような夏の風に吹かれているときの気分になるからだろうか。

エアコン嫌いの私も、さすがに教室では冷房を使用している。生徒が来るので、窓を開けて授業というわけにも行かない。設定温度は高めなのでキンキンに冷えた感じにはならないが、それでも暑い外から入ってきた生徒には涼しく感じるだろうと思う。

それにしても猛暑日近い気温の日々が続くようになるなんて、子どもの頃には想像したこともなかった。

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2025年7月15日 (火)

世論調査の電話って、来ます?

選挙が近くなると特にそうだが、選挙がなくても政局が大きく動いているときなど世論調査の電話がよくかかってくる。コンピューターで無作為に選んだ番号にかける、なんとか方式ってヤツで選ばれているはずなのに、自宅の固定電話にも、教室の固定電話にも世論調査の機械音声がよく流れる。選んでいる件数はそれほど多くはないと思うのだが、たまたまよく当たっているのか、もう何度も回答したことがある。

忙しいときは別だが、基本的に世論調査は嫌いではないので答えることにしている。選挙前だと、選挙区のどの候補に投票する予定か・比例ではどの政党に入れるのか・現内閣を支持しているか・支持政党はどこか・性別は・年代は、などがよくあるアンケート内容だ。

適当に答えてもいいのだが、なぜか正直に選んでしまう。おそらくそういう人が多いのではないだろうか。投票所を出て投票調査のアンケートを求められるときも、たぶん正直に返事をしてしまうのだろう。本当はいい加減に答えておいたほうが面白いのに、みなさん真面目なのだなあと思う。もっとも真面目に答えてくれる人が多いから、世論調査の結果にある程度の信憑性が出てくるのだろうし、選挙速報の当選確実もすぐに流れることになるのだろう。

むかし立川志の輔さんが噺のマクラで、投票アンケートでウソをつきませんかと言っていたことがある。その方が選挙速報を見るとき面白い、と。つまりアンケートにウソをついても投票結果そのものは変わらないが、選挙速報の当確が実は違ってましたってなことになる。だから、早々と結果が出てつまらないという選挙速報がドキドキハラハラしたものになるのでは、といったような主旨だった。

この話を聞いたら怒る人もいるんだろうなあ。神聖な選挙を茶化すのか、とかなんとか。でも、そのくらいの面白さがあったほうが、投票率も上がるのではないか。無関心だった人が少しは興味を持ってくれるようになるのも悪くはない。

最近は世論調査の電話だけでなく、特殊詐欺の電話も似たような機械音声で流れてきて「この電話は2時間後に使用停止となります。ご利用を継続になりたい方は…」てな具合にそれらしいことを告げたりする。最初にこの特殊詐欺の音声が流れたときは一瞬信じかけたが、待てよとネットで検索してみると、それはサギですと出ていた。なるほど新手の特殊詐欺か。この機械音声は世論調査のアンケートと似たような声質で似たような調子だから、うっかり信じ込む人もいるのだろうなと思う。悪いことを考えるヤツがいるものだ。

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2025年7月14日 (月)

参院選だなあ

もうじき参院選の投票日である。争点は何なのだろう。各政党の公約を見ると、経済問題ということになるのか。新聞やラジオのポッドキャストによると、気候変動や司法改革も問題なのにどこも争点として触れていないという。

気候変動はヨーロッパなどでは環境政党が盛んで前面に取り上げる問題だが、日本では争点化されない。司法改革は以前から問題が指摘され、人質司法、冤罪、取り調べの可視化、死刑廃止など問題が山積みなのに、これまた争点にならない。票につながらない、ということなんだろうなあ、たぶん。

経済問題を取り上げたほうが、有権者に響く。経済は生活に直結しているから誰でも関心を持つ。だからどの政党も力点を置いて訴えかける。環境問題や司法改革も重要ではあるが、経済問題ほどの切実さがない。消費税を廃止するのかそれとも存続するのか、存続するなら引き下げるのか。給付金を一律いくら支給するのか。結局「お金」の話になる。有権者たる国民の最大関心事がそれだから、やむをない。

誰を選び、どの政党を選択したらいいのか。選挙公報に目を通したり、各政党の公約を読んだり、各党の政策を比較したサイトを見たりして各自で考えるしかない。最善の選択などあり得ないのだから、あまり期待できない中で少しはましな選択となるのはどれかと考えてもいいのではないか。この候補よりこっちの候補のほうがいくらか期待できそうだ。あの政党よりこの政党のほうが、それほどひどい結果にならないのではないか、というように。消極的にも思えるが、よりましなほうを選ぶ、あるいはこの候補やこの政党には選ばれてほしくないから、対抗できる候補や政党に入れるという戦略的投票でもいいのではないか。

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2025年7月13日 (日)

斎藤姉妹

と言っても教室に来ている生徒のことではない。ちなみに姉妹で教えた例は何組もある。今現在も、かつて教えた生徒の妹が二人来ている。三姉妹も何組かある。さすがに「若草物語」や「細雪」みたいな四姉妹はないが、同じ姉妹でもそれぞれ性格もものの考え方も違う。それは男の兄弟の場合でもそうだ。

決して言わないように心がけているのは「お姉ちゃんはこれこれこうだったのに、君は…」というひと言だ。彼ら、彼女らはきょうだい同士で比べられることに、ある意味うんざりしている。私は私なのにどうして姉または兄と(あるいは妹または弟と)比べられなければならないのか。もうたくさんだ。と怒り心頭になるのもある程度理解できる。

それはさておき、斎藤姉妹とは誰のことか。文芸評論家の斎藤美奈子さんと韓国文学翻訳家の斎藤真理子さんである。つい最近までこの二人が姉妹であることを全く知らなかった。うかつな話である。

姉の斎藤美奈子さんの書評はいつも頼りにしている。本質に鋭く切り込んで的確に指摘する批評は、忖度も損得もなく、サバサバして気持ちのよい文章だ。一方、妹の斎藤真理子さんの翻訳した韓国文学も、その翻訳の文章がすばらしい。韓国の現代文学を読みたいのだけれど何から読んだらいいのかと聞かれたら、迷わず斎藤真理子訳の小説を選びなさいと答える。

この二人が姉妹であることを知って驚いた。文芸評論と韓国文学という別々の分野で私があてにしている二人が、まさか姉妹だったとは。いやあ、姉妹揃って文学的才能に恵まれているとは何とも羨ましい。もしも娘が二人いて斎藤姉妹のようだったら、どれほど娘自慢をしたくなるだろうか、と父親のような気持ちがわいてくる。その斎藤姉妹のお父さんは、斎藤文一さんという方。宇宙物理学者で詩人で宮沢賢治研究家で、なんと岩手県北上市の出身ではないか。しかも旧制黒沢尻中学出身とあるから、なんとなんと現在黒沢尻北高の「黒陵生」の大先輩ではないか。全然知らずにいたとは、こりゃまた大々うかつな話だ。

ところで、斎藤姉妹は顔を合わせたときに、どんな話をしているのだろう。

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