2017年2月11日 (土)

途中経過報告・その3

さて、最後に具体的な方法をお伝えしたい。

まず、12000語の英単語をどのようにして選んだか。最初は、以前に作っていた単語ノートがあり、ここに600語ほど覚えるものを見つけた。しかし、1日50語をノルマにすると二週間も経たないうちに無くなってしまう。次に目をつけたのは、ずいぶん昔に買ったまま「積ん読」状態のボキャブラリー読本。雑誌の「タイム」に出てくる語彙を1000語ずつ2冊のシリーズにしたものである。タイムの記事から抜粋が載っているのだが、レーガン政権時代の話題が出ていることから分かるようにもう三十年も昔の、タイムスリップしたような話ばかりだった。しかし、目的は英単語の確保なので、この二冊で四十日分くらいにはなる。

その次をどうしようかと考えた。まず思いついたのは、アルクという出版社から出ているユメタンのシリーズに確か12000語レベルまであったのではなかったかということ。そこでアマゾンなどネット検索をしてみた。そのときに、有志の方が12000語の単語を1000語ずつレベル1からレベル12まで一覧表形式にしてアップしたものを、たまたま見つけた。シンプルだが、単語カード作りにはかえってありがたい。発音記号がついていないのが惜しまれるが、それくらいは自分で調べろよなということで文句は言えない。

レベル1・レベル2は中学英語の単語が多いので、ここの分はほぼスルーして、まずはレベル3から覚えていない単語を拾い出しカードに写していった。レベル5だったかレベル6あたりから、これは1000語まるまる写したほうがいいなと感じ、残りはレベル12まですべて単語カードに写していった。これで先にあげた2600語と合わせてトータルで10000枚ちょっとのカードになった。12000語レベルといってもレベル1・レベル2の単語は飛ばしているので、それくらいの数でおさまったわけだ。単語のだぶりはかなりある。同じ単語を2回か3回カードにしたものもあるのだが、覚えていないのだから、まあいいかである。

あとはひたすらカードをめくる日々である。途中で何度か挫折しかかったが、そしてまた、練習しなかった日の分を翌日合わせて二日分覚えた時もあったが、とにかくカードそのものは10000枚以上の現物が手許にある。まだまだ覚えている途中であるし、忘却率も高いのだが、このあとしつこくダメ押しを続けていけば、うまくするとまる一年で、それがダメでも年末か来年の年明けくらいまでに完全に覚えきることができるのではないかと思っている。

とにかく公言するとよい。生徒にも「何やってるんですか?」と聞かれると、英単語を12000語覚えようと思っているのだよと事あるごとに吹聴し、カードリングに束ねた単語カードも目につくところに置いてある。こうすると適当なところで逃げられない。ひたすら覚えまくるしかないという事である。

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2017年2月 9日 (木)

途中経過報告・その2

昨日の続きである。

物事には、いい面と悪い面がある。まずは悪い面から。

この半年間毎日英単語を覚えることに時間を費やしてきたので、さぞかし効果があっただろうとお思いの方は、期待過剰というもの。2ヶ月後復習・3ヶ月後復習の際に忘却率が何%になるのか必ず計算しているのだが、これが毎回トホホな成績。忘却率が50%を切り、半分以上を覚えているということはごくまれで、大概50〜60%、ひどい場合は70%以上を覚えていないという悲惨な結果になっている。3ヶ月後復習の時は同じ単語の9巡目のはずだが、まったく意味が出てこない。まあなあ、もうじき還暦だし、記憶力なんて衰えていく一方だし、四割でも残っていればいいかと思うしかない。

そしてまた、この程度の単語量では、劇的に英文の意味が分かるようになりました、とはならないのである。多少読む速度が上がったかな、とか、字幕付き映画のセリフが少し聴き取れるようになった気がする程度のものだ。大学受験の高校生と試験問題を読んでいても、辞書を引いて意味を確認しなければいけない単語の数はさほど変わったような気がしない。昨日の記事に書いた英語学習のサイトとは別のブログに、「12000語をマスターすると、英文を日本文と同じように読めるようになる」と書いてあった。本当にそうか?そういう疑り深い考えで始めたからでもなかろうが、あまり変化がないような感じがする。もっとも四割しか覚えていないのだから、12000語レベルのはるか手前の単語力しか身についていないわけで、これが完全に12000語をマスターしたら、もしかすると日本文を読む感覚で英文が読めるという夢のような状態になっているのかもしれない。あくまでも途中経過報告なので、なんとも言いようがない。

実は12000語という単語レベルは、アメリカの小学校卒業時の単語レベルなのだそうだ。もうちょい甘くしてもせいぜい中1レベル。大学卒業レベルだと3万とか4万の単語数だという。ただ、実際のところ日常生活の中や新聞・雑誌をみて意味がわかるということであれば、12000語で足りるらしい。これだけ苦労して覚えてもアメリカの中1新入生かよ、と思うと脱力する。しかも、まだその四割しか達していないので、脱力を通り越して放心状態になりそうだ。

しかし、悪い面ばかりではない。まず何と言っても、間違えて覚えていた発音とアクセントを覚えなおすことができた。これは無数にありすぎて例がすぐに出てこないが、たとえば " via " という単語がある。 " via +地名 " で「〜経由で」などの用例が多い単語だが、長年この単語は「ヴィア」としか発音しないと思い込んでいた。ところが「ヴァイア」という発音があることを知った。これと同じように長年間違えて覚えていた発音やアクセントがゴロゴロしている。それを矯正できただけでもよしとしなければならない。

二つ目は、妙な単語が記憶に引っかかるという事実にあらためて気付かされた。たとえば、 " amble " という単語がある。馬術をやっている方はご存知なのだろうが、「側対歩」という同じ側の両脚を片側ずつ同時に上げて進む上下動の少ない、のんびりした馬の歩ませ方を言うのだそうだ。こんな単語はこれまで一度もお目にかかったことがなかった。こういう単語はなぜか印象に残る。馬に乗る場面のある小説などを読むときに役に立つのかもしれないが、普段はおそらくお目にかからないだろう。

三つ目は、これが一番大事なことなのかもしれないと思うのだが、自分も学習者の立場になると学ぶということがいかに大変なことなのかと実感できたことだ。知らないことを学んで覚えていくことは、楽しいことである一方で苦しい作業でもある。少しずつでも身についているという実感が持てれば、「楽苦(たのくる)しい」学びを続けていこうという気持ちの励みになる。逆に、成果が出てこないと投げ出したくなるものでもある。そういうことを実感として味わえたのが(今もまだ味わっている途中だが)収穫だと思う。

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2017年2月 8日 (水)

途中経過報告

前回からあっという間に二カ月以上が過ぎてしまった。月日が経つのは早い。

さて、この半年ほど新しい学びに取りかかっていたのだが、それは英単語を12000語覚えようという試みである。きっかけは例によっていいかげんなものだ。たまたまネットの語学サイトをあれこれと見ていたときに、偶然英単語のマスターを主目的に掲げた学習サービスを提供しているところを見つけた。その有料サービスを利用したわけではない。その学習サイトの主宰者が載せていたコラムが興味深かったので、じゃあ一丁やってみっかという軽いノリで始めてしまったということである。

そのコラムに書いてあったのは、記憶の忘却曲線に合わせて繰り返していく方法で、1日後・2日後・4日後・8日後・16日後・32日後で1サイクル。その後、2ヶ月後・3ヶ月後にまた繰り返すというもの。三カ月かけないと記憶が長期保存に移行しないのだそうだ。

そのサイトは、反復学習を効率的に進められるコースを有料で提供しているところだったが、私は、単語カードという一番費用のかからない原始的な方法でやってみることにした。「発音できない単語は覚えられない」とあったので、カードの表には英単語と発音記号を書き裏に日本語の意味を書いた。

七月下旬から始めて三月頃で12000枚目に達するようにしようと思い、1日50語をノルマと決めてスタートした。最初は順調だった。1日分の単語カードを作るのも、発音記号を調べて書くのが手間だったがなんとかこなした。日を追うにしたがって復習分の単語が重なってくる。1ヶ月ほど過ぎたときに最初のカードの32日後復習が重なり、一日のノルマが、復習分を合わせて350語になっていた。しまった、こんな数になるとは考えていなかった。というか、そもそも、まあ何とかなるでしょうというお気楽な考えで始めたので、現実にどういう状況になるのか想像力が追いついていなかった。しかし、この段階はまだよかった。

十月下旬に最初のカードが3ヶ月後復習を迎えた時からは、一日のノルマが450語という笑いの引きつるような数になってしまった。発音をするだけでも数十分。意味のチェックをするのに1時間はかかる。そのうえ新しいカードの作成がある。ほぼ毎日、英単語の消化のために時間を費やしていたようなものである。実際、この半年ろくに本も読んでいない。ときどき何のためにこんなことを始めたんだっけと疑問符が頭の回りをぐるぐる飛び回った。

しかし、である。やはりある程度お金をかけると「もったいない」というケチな考えが強くなる。市販のカードでは高くつくと思ったので、A4サイズの中厚口のカラー用紙を三色用意し、裁断機でカットして自前でカードを作り、二穴パンチで穴をあけ、カードリングに通して150語分を一組とした。32日後復習まで一巡し、2ヶ月後復習・3ヶ月後復習待ちのカードを束ねる径70ミリの大きなカードリングも用意した。最小限ではあるが、費用はかけている。これを無駄にしていいのか。このケチな思いのみでこの半年続けてきたような気がする。

どうも長くなりそうだ。この半年間のアレやコレやの屈折した思いがたまっているので、続きは次回に。

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2016年11月30日 (水)

久方ぶりの近代史ネタ

七月下旬から新しい学びに手を出し、近代史の学び直しは中断したままになっている。ときどき思い出したように、以前手に取った松本健一や橋川文三の本をパラパラとめくってみたりするほかは、中公文庫の『日本の歴史』を日課のように数ページ読んでいるだけだ。それでも関心のあることがらというのは妙なもので、忘れてしまっているわけではない。折に触れて一気に核心に迫るような興味を呼び起こすことがある。

『日本の歴史22 大日本帝国の試煉』を読んでいる時もそうだった。かつて存在した、日本の企業の家族主義の淵源が明治末期にあるということを知って仰天してしまった。大雑把な話になるが、日清・日露の戦争を経て日本は資本主義を確立していく。その過程で商品経済の浸透とともに農村共同体が動揺し始める。石川啄木が書いた「時代閉塞の現状」にも、日露戦争後の帝国主義化していく日本の社会に対する個人の不安が反映されていた。それまでの共同体から切り離された個人が、何を拠り所にすればよいのか分からない状態で放り出されている。そういう意識が社会の各層に蔓延していたと思われる。

そこにあるものは『日本の歴史22』によれば、「「臥薪嘗胆」のキャッチフレーズも「富国強兵」のスローガンも雲散霧消し、国民生活を支える国家主義的な価値の秩序が崩壊したとき、日本国民は全体として虚脱状態に陥った。」という、一種のアノミーなのであろう。明治維新の大目標であった「富国強兵」が日露戦争後に達成されてしまうと、もはや何を目指してよいのか明確な目標が無くなってしまった。そうした政治・社会の危機的状況を詔勅の煥発によって乗り切ろうしたのが「戊申詔書」だったが、上下一致や勤倹の教訓だけでは崩れ去ろうとするビジョンを支え切ることはできなかった。

こうして共同体から切り離された個人がぶつかったものが、一つは軍隊であり、もう一つは工場であった。

軍隊では不満や反抗が増大し、集団で脱営するという出来事が頻発する。また、除隊後の兵士が郷里に戻り「兵隊帰り」と呼ばれる粗野な存在として嫌われ者になるなどして、徴兵忌避の一因ともなっていた。

こういった状況を変えるため、田中義一は軍隊の在り方について新しい設計をした。『日本の歴史22』には以下のように述べられている。

軍隊の在り方について新しい設計をしたのは、日露戦争中、参謀として児玉総参謀長を助け、その将来を注目されていた田中義一である。かれは戦後第一師団に配属されると、そこで「良兵即良民」をモットーとし、軍隊教育の改善に着手した。かれの改革は「兵営生活の家庭化」と呼ばれ、「中隊長は厳父であり、中隊下士は慈母である。而して内務班に於ける上等兵は兄であるというように、中隊内の雰囲気を家庭的温情味のあるようにしなければ、真の軍の軍規は涵養できない」という基本方針の上にたっていた。
(『日本の歴史22 大日本帝国の試煉』中公文庫 347頁)

つまり下士の横暴に対する軍隊内の不満を解決し、同時に上官としての威厳を保たせ命令に服従させるための方策として、「親の恩情にこたえて子供が誠心誠意に仕える温情的家族主義」を軍隊に導入したというのである。

その結果はどうだったのか。同じ『日本の歴史22』を引用すると

こうして家族主義は、個人の自覚の目覚めにつれて動揺し、崩壊しようとするとき、愛情を軸として一転回することによって、個人の目覚めを家族共同体のなかに吸収し、家族主義を再編成することに成功したのである。  (同上 348頁)

同様の家族主義は雇用の場へも浸透してくのだが、長くなったので次回に。

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2016年11月16日 (水)

叔父の葬儀が続く

13日の日曜日に盛岡で叔父の葬儀があり出席してきた。父親の兄弟で一番末の叔父で、まだ八十前だった。今年は6月に父のすぐ下の弟にあたる叔父の葬儀があったばかりなので、葬儀が続いているという感じがする。

父親は男四人女二人の兄弟姉妹で、長男は二十年近く前に亡くなり、次女もだいぶ前になくなっている。今年叔父たちが亡くなったので、元気なのはうちの父親と大阪の叔母だけとなってしまった。

盛岡の叔父は、若い頃から豪放磊落な人で、細かいことにはこだわらない人だった。車と釣りが好きだった。私が中学生のころ、叔父がスポーツタイプのクーペに乗って遊びに来たことがあった。花巻の本屋さんまで乗せてもらい本を買いに行ったことがあったのだが、助手席のドアロックに不具合があり、ロックすると解除にならない状態だった。修理していないまま、叔父も私にそれを伝えるのを忘れていて、降りるときにうっかり助手席をロックしてしまった。叔父はあわてて「しまった!」という顔になったが、「まあ、そういうことだから、運転席側から降りてくれ」と運転席側のドアを開けた。それから知り合いの修理工場にすぐ車を持って行った記憶がある。

叔父のこういう大雑把なところが、私には救いだった。叔父といると気詰まりな感じがなく、なんだか妙に楽に呼吸ができるような気がしたものだった。

遺影の叔父は少し若いころの姿だった。叔父がいなくなってしまった実感はいっこうに湧いてこない。「よお、元気でやってるか」という大きな声が聞こえてきそうな気さえする。

葬儀の途中から雨となり、親族がまた一人いなくなるのだなというしみじみとした思いにとらわれた。その一方で、従弟妹たちの息子たちが元気に動き回っていて、こうして世代が変わっていくわけだと妙に納得してしまった日でもあった。

ちなみに葬儀と法要が行なわれたのは、天昌寺というお寺だった。かつて安倍氏の厨川柵があったと考えられている場所である。訪れるのは初めてだったが、こういう形で来ることになるとは思ってもみなかった。

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2016年11月 9日 (水)

風の電話

午後11時に帰宅し、遅い夕食を食べた後、ごろりと横になったらそのまま眠ってしまった。今年は早めにこたつを出しているので、ついつい気持よく眠ってしまう。午前2時をだいぶ過ぎたころ、つけっぱなしのテレビから誰かの話し声が聞こえてきて目が覚めた。ぼんやりした頭で画面に目を向けると、電話ボックスで誰かが話をしている。何の番組だろう。電話ボックスを出た男性の話が続く。静かなナレーションがそれに続く。

震災で家族を亡くした人がその電話ボックスから電話をかけているのだと、だんだん分かってきた。公園のようにも見える敷地の中に、緑色の屋根がついた白い電話ボックスがあり、そこに黒電話が置かれている。画面には別の人がボックスに入った様子が映し出されている。年配の女性だ。震災で無くなった夫に向けて受話器を取るのだが、ひと言も話すことなく受話器を置いた。

電話ボックスがあるのは、岩手県大槌町。東日本大震災で甚大な津波被害を受けた町だ。電話ボックスは私設で、おそらくボックスがあるところも私有地なのだろう。後から後から人びとがこの電話ボックスを訪れる。どこにも繋がっていない黒電話に向かって、人びとは抑えてきた思いを吐き出していく。

NHKスペシャルの再放送なのだと理解したころには、すっかり目が覚めた。あれからもう五年以上になる。けれども、身近な誰かを失った人びとにとっては、「まだ五年」でしかないのだということが沁みてきた。哀しみは時が解決するという。それは違うのではないか。いくら時が経っても哀しみが消えてしまうことはない。大事な誰かを失った人にとって、時間はそこで止まってしまうのだ。十年経とうが二十年過ぎようが、「思い」はいつもそこに戻る。決して癒されなどしない。ちょっとしたことで薄皮のようなカサブタがはがれ、耐えられない痛みがやってくる。

誰かに向かってその「思い」を吐き出せば、少しずつ生々しい痛みは薄れていく。消えてしまうことはないけれど、漂白された白骨のように、あるいは風雨にさらされた枯れ木のように、哀しみの核だけが結晶のように残っていく。けれども、外に向かって吐き出されることのなかった思いは、生々しい哀しみを内側に溜め込んだままとどまり続ける。

なぜ他の誰かではなくて自分がこのような目に合わなければならないのか。人が生きていくことは、理不尽な災害や災難に見舞われることと隣り合わせだ。なぜ自分なのかということに折りあいをつけていくことは、なかなか大変なことだ。合理的な説明などつけようがないのだから、どこかで断念するか飛躍するしかない。その断念や飛躍は、「思い」が外に吐き出された後にしか訪れないのではないか。

うまくまとめることができないが、そんなことを考えてしまう番組だった。

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2016年10月31日 (月)

腰痛

先週の金曜日から整骨院通いをしている。しばらくぶりに腰を痛めてしまった。別に重いものを持ったとかいうわけではなかったのに、急に「ギックリ腰」状態になった。二十年ぶりくらいの激痛である。運転席からの乗り降りで悲鳴を上げ、どうにか乗り込んで発進してからもカーブで重心がズレるたびにズキンと痛む。夜は寝返りができない。着替えるときに靴下やズボンをはくのが一苦労という、最悪の状態だった。

まだ寝返りは打てないが、日中の痛みはだいぶ和らいできた。あと数日はこんな状態で過ぎていくのだろう。整骨院の先生が言うには「腰の捻挫ですね、簡単に言うと」ということで、腰椎椎間関節捻挫なのだそうだ。wikipediaで調べると欧米では「魔女の一撃」と呼んでいるらしい。さらに「発症時の症状が強烈なわりに予後が良好であり1週間で約半数が、2週間から1か月で約9割が回復していくのが特徴」と書いてあり、確かにそうだなあと思う。

ギックリ腰になったばかりのころは、ちょっとした動作で激痛が走るので、まともな日常生活が送れないような気持ちになる。しかし、だんだん痛みがなくなり、回復してしまえば「のど元過ぎれば…」で不便な状態だったことなどすっかりと忘れてしまう。いかに腰が重要な役割を果たしているか痛さとともに認識したはずなのに、元の木阿弥である。またぞろ不摂生な毎日に戻ってしまう。

ときどきこうしてとんでもない激痛に襲われると、健康のありがたみがよく分かる。おそらくそういう戒めのためにギックリ腰があるのではないかと思っている。

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2016年10月18日 (火)

もの思う秋・その5

なぜ勉強しなければならないのか。中学生にとって最も根源的な疑問だろうと思う。たとえばこれが高校生であれば、大学受験や就職試験やらの間近に差し迫る試験が、具体的な必要性を感じさせる。しかし、岩手県の、盛岡以外の地域の場合、高校受験の倍率は軒並み1.0倍を切っている。高校受験があるからという動機付けは、ほとんど意味をなさない。

ある意味でこれは幸いなことであるとも思う。なぜ学ぶのか、という根源的な問いに向き合う機会を持つことができるかもしれないからだ。高校受験のためという理由づけは、きわめて分かりやすい。分かりやすいだけに底が浅い。あまりいい例ではないかもしれないが、かつて覚醒剤撲滅キャンペーンのスローガンに「覚醒剤やめますか、それとも人間やめますか」というものがあった。かなり強烈なひと言だと思ったので、いまだに忘れずにいる。このスローガンが世に広まると、「じゃあ、人間やめれば覚醒剤やってもいいってことか?」という軽い反発も起きた。これと同じで、「高校受験がなければ中学生は勉強しなくてもいいのか?」という話になってしまう。

高校受験は、あくまで勉強する理由の一つでしかない。つまり方便である。学ぶことの根源的な理由ではない。

では、勉強することの根源的な理由は何か。中学生の中には、勉強することが学校に入っている間のものだと思っている人がいるかもしれない。学校を出て社会に入ってしまえば、もう勉強なんかしなくていもいい。そう考えているかもしれない。しかし、社会人になってから全く勉強しなくてもいいということは、まれな場合に属するのではないか。教科書を暗記したりすることはなくても、必ずしも試験があるとは限らないにしても、社会人になってから全く勉強をせずに済ませることができるほど世の中お気楽にはできていない。

仕事上で必要な資格試験を受けなければならない機会もあるだろう。試験がなくても社内研修でさまざまな業務のマニュアルを理解し覚えなければならないことだってある。何より、文書化されていなくても現場で実地に体験的に仕事を学んで覚えていかなければ、社会人としては一人前に扱ってもらえない。

仕事ばかりではない、家庭に入っても、地域のコミュニティ活動の中でも、新しく学ぶことは多い。学校の教科書で扱っていた、答えの出る、分かりやすい問題ばかりならよいけれど、現実に直面する問題は簡単に答えが出ない、正解かどうかすら分からないものがある。

つまり、人は日々学んでいる存在なのだ。学ぶことを抜きにして生きることは考えられない。だから、なぜ学ばなければならないのかという問いに対する根源的な答えは、より良く生きるためだということになるのではないか。大学まで進んでもたかだか学校で学ぶ期間は十六年。平均寿命まで生きるとして、のこり七十年近くをどうやって生きていくのか。そちらのほうがより重要だろう。いわゆる「いい学校」に入ったり「いい仕事」に就いても、必ずしもそれが幸福をもたらすとは限らない。

幾つになっても新しいものごとを学ぶことは、ワクワクする経験である。それをワクワクする経験だと捉えないから、面倒だ、苦痛だと感じてしまう。確かに、学ぶこと勉強することは楽しいことばかりではない。勉強する意欲が萎えてしまうときもある。それでも、少しずつ自分が成長していることを感じると、それは喜びにつながる。変わらないと思っていた自分が、学ぶことによって変わることができるのだという実感は、他の何ものにも代えがたい充実感を味わわせてくれる。

日々学ぶ。これに尽きる。

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2016年10月17日 (月)

もの思う秋・その4

分断統治は奴隷社会や植民地支配の基本的原則なのかもしれない。支配者である主人や宗主国に鉾先が向かないように、同じ境遇にある奴隷同士、植民地人同士でいがみ合い対立しあうように仕向ける。ある場合には、対立する一方に肩入れをして対立を煽る。和解や合意が成立しそうになると、巧妙な手口でそれを壊しにかかる。こうして支配者の地位は安泰となる。

ときどきのガス抜きは忘れずに行う。筋書きが決まっていて、どう転んでも予定調和からはみ出ない範囲での反乱。祭り騒ぎが終われば、また元どおりの被支配社会。管理できないような「革命」は、決して起こらない。「革命」ですらしっかりと制御されている。その後に待ち受けているのは、変質していく革命と引きずり降ろされる革命指導者と、以前よりもひどい混乱である。その混乱に乗じて公的部門が解体され民間部門へと移転された国富がどこかへ流出していく。

あまりにも救いのない認識だろうか。あるいは、「陰謀論だ」というお決まりのレッテル貼りで済ませてしまうだろうか。しかし、どこを見渡してもそういう支配・被支配関係が出来上がっているのではないか。それがはっきりと誰の目にも見える形ではなく、巧妙に覆い隠されているためその実感がないだけだ。メディアの果たしている役割は大きい。企業メディアは、「企業」メディアである以上「ひも付き」であろうと考えないわけにはいかない。つまり、企業メディアを所有している支配層の道具としての働きをしているだろうということは、少し考えてみれば分かることだ。報道の中立性や公平性などというものは、単なるお題目であり欺瞞でしかない。どの角度から、どの視点から事実を切り取るのか。どういう位置から、どういう意図で出来事を報じるのか。それらを考えてみただけでも中立・公平な報道など現実にはありえず、多かれ少なかれ「偏向」せざるをない性質というものが浮かんでくる。そしてまた、それで当たり前でもあるのだ。

NHKだから、三大新聞だから、広告を取っていないから中立・公平だなどということは、ありえないお伽話にすぎない。メディアの報道に接しているわれわれが、勝手に中立・公平だろうと思い込んでいるだけのこと。いつでも、鵜呑みにしない・疑いを持って批判的に見る・他のものと比較する。そういった姿勢が大事になってくるのだと思う。自分の目と頭を使って判断をしていくということなのだが、これがなかなか大変だ。だからラクなほうを選んでしまう。そうすると根こそぎからめ取られてしまう。せめて、鵜呑みにしないことだけでも、判断保留をとるだけでもささやかな抵抗はできる。

奴隷社会や植民地支配において分断統治が有効なのは、そこに「嫉妬」という要素が大きな役割を果たすからだ。ある国語辞書で「嫉妬」という語に画期的な定義を与えていた。「自分と同等だと思っていた存在が、自分より上であると気がついたときに、むらむらとわき起こる否定的な感情」これは秀逸な定義である。たとえば収入について。ビル・ゲイツやジョージ・ソロスみたいな大富豪に嫉妬を抱く人はいない。あまりにもかけ離れていて想像すらつかない。しかし、同級生の年収が自分より上であると気がついたときに、なんとなく落ち着かない気分になる人は多いだろう。あからさまな嫉妬を抱く場合もあるだろう。なんでアイツがおれより収入が上なんだよ、おかしいだろ、ということである。あるいはスポーツでもよい。大谷翔平に嫉妬する人間はいなくても、同じ草野球チームの先発投手に嫉妬する控え投手は山のようにいるのではないか。

つまり、かけ離れた存在に対しては嫉妬という感情を持ち得ないのに、同じような境遇にいる人間に対しては容易に嫉妬しうるということである。だから、低所得で苦しんでいる人間が、生活保護を受給している人間を嫉妬するというような、おかしな話になってしまう。そこに必要なのは、低所得に苦しんだり生活保護を受給しなければ生活が成立たないような社会構造に対する怒りの共有であるはずなのだが、「なんでアイツらだけ、いい思いしてるんだ」という感情の噴き上がりばかりが表面に出てくる。同じような状態に置かれている他の誰かを叩くことで溜飲を下げ、問題を生み出している根源に怒りが向かない。

「漁夫の利」というのは、何も故事成語の話だけではないということか。

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2016年10月16日 (日)

もの思う秋・その3

囲碁の世界チャンピオンのイ・セドル九段がAIに負けて以来、人工知能関連の話題がニュースやネットで取り上げられることが多くなったと感じる。専門の研究者に言わせると、ディープ・ラーニングによって人工知能は格段の進化を遂げそうだが、現段階はまだまだ人間の脳が行なっている働きの足許にも及ばないのだそうだ。

こういう話を聞くとなぜかホッとする。いずれは人間の能力を越えてしまうかもしれないが、今のところ有機体である人間の脳のほうが格段に上を行っている。膨大な数の神経細胞が一体となって動く。しかも中心が存在しない。これが最新の脳研究から得られた知見なのだそうだ。

一方で進化生物学者の説では、人間の脳は二十万年前からほとんど進化していないという。以前取り上げた「ダンパー数」の話のように、せいぜい150個くらいのことがらまでしか把握できないのが人間の脳のつくりなのだそうだ。顔と名前が一致して、どういう人なのかまで分かるのは150人が限界。それを越えると溢れてしまう。他の物事に関しても同様なのだろう。つまり二十万年前からさして進化していない脳をかかえた人間が、この100年ちょっとの間に急速に技術を発達させてきたわけだ。

技術が進歩し、いつでも情報が瞬時に入手でき、即座に誰とでもつながることができるという想像もつかなかったような社会にわれわれは生きている。でも、ちょっと待ってほしい。子どもの頃に思い描いていた未来社会はこんなものだったろうか。宙を走るというか飛び回る車、曲線や曲面の多い高層建築、ハイパーモダンなデザインの家具に囲まれた部屋。そういうものが21世紀になったら見られるのだろうと思っていたが、そうではなかった。たしかに街の景観は変わってしまったが、それでも超未来都市にいるという感触は誰にもないはずだ。昭和から地続きの風景の中で、情報環境だけが急速に進化を続けていく。

風景はさほど変わらないのだが、情報環境だけがとんでもない進化を遂げた日本の姿を描いていたのが「電脳コイル」というアニメだ。NHKのEテレで十年近く前に放送された作品だが、まさに今の日本やこれから先の日本の社会が直面すると思われる問題が取り上げられていて興味深い。詳しい紹介はwikipediaの記事(こちら)をご覧いただくとして、小学六年生の女の子や男の子たちが「電脳メガネ」と呼ばれる一種のウェアラブル・コンピュータをかけて、現実空間の中に仮想の「電脳ペット」を飼ったりしている設定だ。ポケモンGOのAR(拡張現実)が、もっと進んだ形とでもいうか。

それだけ情報技術が進化した社会となっているのに、街並みは今とほとんど変わらない。つまり昭和からの地続きの風景の中で物語が進行していく。そこがとても「リアル」だなあと感じる。私たちも同じように、風景は歴史的なものをひきずって急速には変わらないのに、情報空間や技術だけがものすごい速さで変わっていく時代を生きている。はたして人間はこの変化の速度についていけるのだろうか。二十万年前からさして進化していない脳と物理的に運動の限界がある肉体を抱えて、うまく変化に適応していけるのだろうか。

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