映画「幕末太陽傳」を観る
長年観たいと思いながらなかなか観る機会のなかった「幕末太陽傳」をようやく観ることができた。フランキー堺が主演で、落語の「居残り佐平次」を映画にしたようだということくらいしか予備知識がなかったのだが、予想以上に面白かった。
話の筋は単純で、落語の「居残り佐平次」を主軸に、長州藩士が御殿山の英国公使館を焼き討ちする事件が並行する。
「居残り佐平次」については以前書いたことがあるが、陽気な詐欺師で小悪党の佐平次が品川遊郭の大店に仲間を連れてさんざん飲み食いし、連れは帰して自分だけ居続けをする。そのうち一文も持っていないことがバレて布団部屋に押し込められるが、当人は持ち前のずうずうしさを発揮し、にわか幇間(たいこもち)となってひと稼ぎするという噺。
この「居残り佐平次」をもとにして、落語でおなじみの噺が随所にエピソードとしてさしはさまれる。ざっと気付いたもので、「品川心中」「五人廻し」「文七元結」「三枚起請」「お見立て」が挙げられるが、細かいものまで入れたら、まだまだあるのではないか。石原裕次郎演じる高杉晋作が、フランキー堺演じる佐平次のこぐ舟に乗り、佐平次から舟板の栓を抜いて沈めてしまいますぜとおどされて慌てるシーンなど「夢金」の船頭と浪人のやりとりを思い起こさせる。
つまりこの映画は徹頭徹尾、落語の引用からできていて、落語好きにはたまらないという夢のような作りになっている。もっとも、それゆえ話は単純で、ストーリーはあってもなくてもよいような扱いである。それよりも引用された落語の噺を映像化するとこうなるのかということを楽しめばよい。
特に「品川心中」で遊女のお染と心中する貸本屋の金造を小沢昭一が演じていて、これが落語の世界そのままのハマり役でおかしかった。しかも、落語ではお染に海に突き落とされた金造が遠浅の海で横になって溺れかかっていたことに気付いて悔しがり、ひどい格好のまま世話になっている親分の所へ顔を出し他の子分たちがびっくりする前半の噺でサゲにする場合が多いのだが、映画ではお染に仕返しをしに行く後半まできっちりと描かれていてエピソードが完結している。
それにしても、なぜ幕末「太陽」傳なのだろう。石原慎太郎の小説『太陽の季節』が「文學界」に載ったのが1955年、単行本となるのが翌1956年。映画「太陽の季節」も1956年封切。この映画は1957年封切。そういうことで「幕末太陽傳」を撮った川島雄三監督は、幕末の「太陽族」を描きたかったのだそうだ。まあ、石原裕次郎も出ていることだし関係があるのだろうなという気はしていた。
Wikipediaによると、フランキー堺が演じる主人公が走り去るラストシーンで、そのままスタジオを飛び出し、製作当時の現代の街並みを走り抜けるという演出構想を川島監督は持っていたようだが、現場の反対で断念したらしい。今なら、あまり抵抗なく受け入れられそうな案だが、当時では斬新すぎて理解されなかったのだろう。実現していれば、過去と現在は地続きなのだということを象徴するシーンになったと思うのだが。
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