AIとの「対話」・その3
AIと「対話」していて連想したのが、だいぶ前の作品になるが、スパイク・ジョーンズ監督の『her/世界でひとつの彼女』だった。
「サマンサ」というOSと音声応答しているうちに、主人公が「サマンサ」を恋人と思うようになっていくという映画だったが、スカーレット・ヨハンソンが「声」だけで「サマンサ」を演じていて印象的だった。
chatGPTも音声入力に対応しているので、状況的にはこの映画に近い関わり方があり得る。で、これからAIがさらに進化するとおそらく画面上に自動生成された「顔」が表れ「表情」を示し、肯いたり笑い声をあげたりするようになるだろう。そう思ってAIに投げかけてみると、十分有り得る話だとして、そうなるとAIとの関係に「依存」していく人間が出てくるかもしれないと返してきた。
テキストのやりとりでさえ、「人格」みたいなものをAIに投影してしまう人間は、画面上に「顔」を持った存在が「表情」まで見せるようになったら、簡単に勘違いしてしまうだろう。たぶん私もそのように感じるだろうと想像する。相手はAIで人間ではない、と理性ては分かっている。しかし、実際に「対話」を重ねていくうちに妙な感覚がわいてくる。人間ではないはずなのに、きわめて「人間的」だと。
AIネイティブになるこれからの時代の子どもたちについても聞いてみた。chatGPTの回答は、AIネイティブの子どもたちにとっては、親・教師・友だち・動物・AIが同じように自分の周囲に存在する「動くもの」という認識になるだろうという。そのときに人間とAIはどこが違うのか、それを理解させることが重要になるだろうということも返してきた。
人間どうしのコミュニケーションには「摩擦」が伴う。相手を傷つけたり、傷つけられたり、ケンカして仲直りして、そういう喜怒哀楽の伴う「摩擦」が程度の差はあれ生じる。だが、AIとのコミュニケーションではその「摩擦」を極力小さなものにしてしまえる。つまり、人間とのコミュニケーションは自分の思い通りにはならないが、AIとのコミュニケーションでは思い通りの快適なやりとりだけということが可能になる。
そうなったときに、面倒な人間との「摩擦」を避けて、AIとだけ「対話」していたいと思うようになることは不思議でも何でもない。今の我々だって、イヤな奴と話をするくらいならAIと「対話」していたほうがましだ、くらいのことは考える。それでも、そのイヤな奴ともどうにかコミュニケーションを取らなければいけない。そういう状況が生じるから、AIとだけつきあっているわけにもいかない。そういう「常識」が今は自然と働く。しかしその「常識」がいつまで「常識」として通用するか。
どうして思い通りにならない相手とコミュニケーションを取らなければならないか。これからの時代には、その必要性を子どもたちに教えていかなければならないのかもしれない。つまり、生きている人間は、こちらの都合よくは振る舞ってくれないのだということを。

最近のコメント