2017年10月17日 (火)

それにつけても…・その3

話を価値の交換に戻す。等価であると見なされれば、本来交換は何を使ってもよかったはずだ。「抜け雀」のところで上げたように、娘を嫁に差し上げるから絵を譲ってくれとか、好きなだけお酒を召し上がって結構ですから絵は私に、ということもありうる。黄鶴楼で酒代に絵を描いていった仙人もいたではないか。けれども、最も普遍的に流通すると思われている価値がお金だから、あれこれ考えなくても済む分だけ簡便である。誰にとっても、分かりやすいという話だ。

だが、だからといって札束で横っ面をひっぱたくようにして交換を迫ることに対しては、嫌な気持ちになる。ひっぱたく方は別かもれないが、ひっぱたかれる方はそう感じる。それは何故か。等価交換だから問題ないじゃないか。問題はない。ないのだが、やはりある。

金払ったんだからいいだろというのは、やはり違うのではないか。たとえば、大道芸に対するお捻りや投げ銭のようなものを思い浮かべると、分かりやすいかもしれない。お捻りや投げ銭は、強要されて出すものではない。強面のお兄さんが強制的に巻き上げる場合もあるかもしれないが、それは例外的な話で、任意のものである。いいものを見せてもらったという謝意をお捻りや投げ銭として表すのだから、そこまでは感心しなかったという人は出さなくてもよいのだ。

つまり気持ちの代替物としてのお金だから、同じお金ではあるが付与されている意味が違う。お金に色がついているわけじゃない、いいお金も悪いお金もおんなじだ。そういう考えもある。気持ちがこもっていようといまいと、お金はお金でしかない。確かにそうかもしれない。だが、気持ちを表すものは、もともとは他のものでもよかったはずである。食事を出す、宿を提供する、洗い物を引き受ける。そういうことでも交換できたのだ。しかし、それではいつでもどこでも交換するというわけにはいかなくなる。だから簡便な方法としてお金がそれらを代替することになったのだ。

交換というやりとりに気持ちという要素が皆無であれば、金払ったんだからという考え方も分からなくはない。大量に生産された製品を買うときに、そこへ気持ちという要素は入りにくい。売る側が気持ちという物語を付加したり、買う側が自分の思いを付加するという場合はあるだろうが、消費物を買うときにその要素は限りなくゼロに近い。だから、スーパーのレジで合計金額を支払うときは、何も感じることなく言われたお金を払うのであり、それに対してレジ係の方でもマニュアル通りにお買い上げありがとうございますと返してくるのである。

マス化されるほど交換の場に気持ちは不要となってくる。これが一点ものに近くなってくると、にわかに気持ちの要素が前面に出てくる。肉筆のたった一枚しかない絵を売る側も、それを買う側も、本来的にはお捻りや投げ銭感覚でやりとりしていたのではないか。だから、絵の雀と鳥屋の鳥を同じ次元で扱う宿屋の主は笑われるのだ。

その一点ものの絵が、描いた当人も買い入れた当人もいなくなると、気持ちの要素は薄くなる。当事者がいないのだから当然とえいえば当然かもしれない。そうなると、その絵は描かれた当初の事情から切り離され、絵画市場で取引される「商品」という性質が強くなる。値上がりが見込まれれば投機の対象にもなる。

ここで逆転現象が起きるのではないか。その絵に内在する価値を認めるからお金で交換したいということから、お金で評価されないものは価値がないということへの逆転。その絵に価値があるのなら値がつくはずである。誰も買いたいと思わないようなものであれば、つまりお金を払ってもいいと思われるものでなければ、その絵には価値がない。理路としてはそうなのだろう。

だが、そう割り切ってしまっていいのだろうか。芸術作品の価値は、ある時代だけで確定されるものではない。伊藤若冲は自分の絵は数百年後になれば理解されると思っていたらしいが、その通りになっているではないか。同時代やそれに続く数世紀に評価されなくとも、はるか後世に「発見」されることだってある。

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2017年10月16日 (月)

それにつけても…・その2

話を元に戻せば、すべての価値をお金という価値に一元化するという拝金主義に違和感を覚えるのは、金銭化できないものだってあるのではないかとどこかで感じるからなのだが、たとえば同じ落語の「井戸の茶碗」という噺などが浮かんでくる。

「井戸の茶碗」では、易で暮らしを立てている長屋住まいの浪人が、くず屋に先祖伝来の小さな仏像を売り払い、中から五十両の金がでてきて騒動になる。仏像を購入して五十両を見つけた細川藩士は、おれは仏像を買ったのであって五十両を買ったのではないからこの金は元の持ち主に返してこいと、くず屋に命じる。浪人は浪人で、手放した以上仏像から何が出てこようと自分には関わりがないと、これまた取り付くしまもない。その後、あれこれと展開はあるが、最後は浪人が自分の娘をその細川藩士の嫁に出すということで落着する。

この噺は徹底的に金銭的な価値で測れないものがあるのだというテーマを反復する。

浪人も、細川藩士も、意地になって金を受け取らない。こまったくず屋が浪人の住む長屋の大家に相談し、仲裁に入ってもらう。くず屋に十両、残りを二十両ずつ折半ということで落ち着く。落ち着きはするのだが、浪人はそれでは相済まぬと言う。では何か気持ちを差し上げてはとくず屋に勧められ、これはワシがふだん使っておる茶碗だがこれしか差し上げるものがないと、浪人が頼む。これが実は「井戸の茶碗」という天下の名器。細川の殿様が三百両で買い上げ、今度は百五十両ずつ折半することになる。百五十両を届けたくず屋に浪人が、その細川藩士は妻帯しているかと尋ねる。独り者だと判ると、では娘を嫁に、という展開だ。

出だしが五十両受け取りの拒否である。浪人も細川藩士も筋の通らぬ金は受け取れないと、頑なに拒む。次が、五十両折半後の、それではワシの気が済まぬという浪人の茶碗進上だ。お金の謝礼にお金では気持ちが表せない。だから、なにかモノを差し上げたい。そういうことだろう。さらに三百両折半の後は、自分の娘を嫁に出すという最上級の謝意である。

金銭のカウンターとして提出されるものが、茶碗であったり娘であったり、いずれも金銭的価値に換算されないものばかりだ。茶碗は細川の殿様が三百両で買い上げたし、娘だって吉原に連れていけば五十両にはなるじゃないか。確かにそうである。が、それは相手が拝金主義者の場合ならそう受け止めるだろうという話だ。それを金銭に換算できない気持ちとして受けてくれるであろうと思ったから浪人はくず屋に託したのであり、細川藩士もまたそのように受け止めたのである。

この噺がうまくできているのは、金銭の折半に対する謝意を何で表すかという構成になっているからだ。交換するものとして金銭が出てこられない場面で、何を提出するか。そこに焦点が当たっている。「お金では買えないものがある、ってえのは貧乏人のやせ我慢だ」と喝破したのは談志だったか。やせ我慢にはやせ我慢の美学がある。武士は食わねど高楊枝。この噺が、浪人者と細川藩士というお侍さん同士でなければならない所以でもある。

拝金主義への違和感は、金でしか交換できないという思想に対して生じるのではないか。人の気持ちだって金で買える。まあ、そうかもしれない。だが、いくら金を積まれてもいやなものはいやだ、そう断る人間だっている。いまどきそんな人間はいないって?それほど世の中捨てたものではない。絶滅危惧種のような存在かもしれないが、金がすべてとは限らないと考えている人間はいるはずだ。落語がいまだに滅びることなく受容されていることが、その何よりの証だ。

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2017年10月15日 (日)

それにつけても…・その1

すべてをお金という価値に一元化する拝金主義に違和感をおぼえるのはなぜだろう。

人であれ、物であれ、お金で測れない部分があるのではないか。おそらくそのように感じるときがあるから、あらゆるものを金銭というひとつの物差しで測ってしまうことに、何か違うのではないかと心のどこかがつぶやく。

「抜け雀」という落語がある。勘当された若い絵師が一文無しで泊まり、宿賃の代わりに白い衝立へ雀の絵を描く。これを形(かた)において後で払いに来るからそれまで取っておけと、主に言いつける。このときのやり取りがおかしい。

絵師は衝立に雀を五羽描く。宿の主は、最初それが何の絵なのか分からない。絵師に雀だと言われてなるほど雀ですなと納得する。絵師は「一羽一両。五羽で五両だ。」と告げる。それを聞いて主は「そりゃあ高いや。高い、高すぎる。おもての鳥屋に行ってごらんなさい。こんな大きな鳥が二十文で買えますよ。」と手を広げる。

この科白は、同じ次元で比較できないはずの絵と鳥料理を、金額で比べるおかしさなのだが、つまりは芸術作品の価値と消費物の価値を同じ尺度で比べるおかしさであるのだが、宿の主をひとしきり笑った後でふと考えこむ。

では、金銭以外の価値で芸術を測ることができるものはあるのか。「抜け雀」の噺にしても、小田原の大久保加賀守が絵と衝立を千両で買いたいと評価したことで絵師の評価が上がる。これが、誰も買いたいという人間が現われなかったら、いくら素晴らしい作品であろうと評価の低いままで終わってしまう。

だが、ここでもう一度考えは反転する。この絵を大久保加賀守が千両出しても買いたいと思ったのはなぜか。それは、朝日があたると衝立から雀が抜け出るという絵だからだ。つまり、絵そのものに価値があり、それを金銭という尺度で交換してもらうためには、千両出してもいい。そのように評価されたからではないのか。

ということは、交換の尺度は何も金銭に限らないのではないか。たとえば、自分の娘を嫁にやるから絵を譲ってくれ、という展開もありうる。この先好きなだけお酒を差し上げますので、この絵は私のものに、ということだって可能だ。

つまり、もともと交換したいという気持ちを抱かせる価値が作品に内在しており、それを何と交換するのかという話だったものが、分かりやすいから金銭という尺度で交換してもらおうということになったのではないか。分かりやすい、というのは共通した尺度として流通しやすいという意味である。

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2017年10月 7日 (土)

時事的放談・その5

枝野幸男氏が「立憲民主党」を立ち上げたことで、リベラル勢力の受け皿ができ、「自民+公明」対「希望+旧民進+維新」対「立憲+共産+社民」という三極の選挙戦となるのだろう。3ではなく2.5だという見方もあるが、有権者から見ればこの三者のどれかを選ぶことになりそうだ。

videonews.comで社会学者の宮台真司氏が興味深い図式を示していた。「5金スペシャル映画特集 ロクでもない世界の現実を映画はどう描いているか」 のpart1、23分50杪あたりから示される現代政治を分類するマップである。縦軸は経済的な原則、横軸は政治的な原則の軸であり、次のように示されている。

           市場主義
               |
    Eガバメント      |     米国的伝統
    (リバタリアン)      |     (新自民)
               |
参加主義ーーーーーーーーー+ーーーーーーーーーー権威主義
(市民社会)          |          (国家)
               |
    欧州的伝統      |     日本的保守
    (民主党)      |     (旧自民)
               |
           再配分主義

宮台氏の指摘では、かつての政治的対立軸は下段の「再分配主義」的な政治の中で、権威主義的か参加主義的かというものだったという。ところが、グローバル化の進展により再分配主義から「市場主義」へと世界的にシフトし、自民党も小泉・竹中時代から右上の象限へと位置を変えた。今回の民進党の希望の党への合流で何が起こったかといえば、かつて左下の象限に位置していた民主党(民進党)がどうやら右上に移動し、「再配分主義・参加主義」の左下が空白になってしまったということらしい。

問題はどうも日本だけのことではなく、世界的に、この左下の政治勢力が後退してきているようだ。宮台氏によると、それは「どこの馬の骨問題」だそうで、「どこの誰だかわからない奴のためにオレの税金を使うな」「どこの馬の骨かわからない人間にうちの会社が納めた税金を使ってもらいたくない」と考える人間が増えてきたのではないかという。だから再配分などせず、市場に任せればいいという新自由主義的な発想が強くなる。

国民国家の解体期に入っていると考えれば、再配分主義が勢いを失っていくという流れは押しとどめようがないのかもしれない。しかし、それでも当分は国家による手当が必要な国民が存在する。地方に住んでいると、人口減少と高齢化の影響をひしひしと感ぜずに暮らすことは不可能だ。だから、枝野氏の立憲民主党を軸としたリベラル勢には、この左下部分を埋める政治勢力としての期待がかかってくると思うのだが、果たしてどの程度の支持が集まるのか。

videonews.comは有料コンテンツを中心に配信しているサイトだが、金曜日が5回ある月は、「5金特集」という無料放送を見ることができる。今回もpart2は五本の映画を取り上げていて、part1と深く関連する議論が聞ける。

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2017年10月 1日 (日)

時事的放談・その4

居酒屋のオヤジ政談状態をもう少し続ける。

ダメながらも変わる可能性があるものに賭けるか、それとも変わる可能性のないダメなものを選ぶか、と前回の最後に書いた。もしかすると、ダメながらも変わる可能性があるものに賭けたらホントはダメだった、という結果になるかもしれない。

今回の衆議院総選挙は、政権交代まで至らずとも自公政権の過半数を阻止するという結果が期待できそうな状勢に見える。つまり、対抗軸になると有権者に思われるような政治勢力が結集し、自公候補の議席獲得を阻むことができるのではないかと思わせる。

この期待感はバブルである。中身が本物かどうか確証はないがとりあえず賭けてみる。その結果、勝つには勝ったがとんだ「フェイク」をつかまされたということもあるだろう。その時点で「カネ返せ」ならぬ「票返せ」と騒いでもどうにもならない。前の政権よりはいくらかましなダメさ加減ではあるが、票を入れてしまったものはしょうがない。前政権よりもさらにひどい目にあわされるのであれば、それを教訓にしていくしかない。痛い目にあって次はしっかり選ばなければならないという実感を有権者に植えつけるなら、それはそれでよいことだ。

つまり、自分たちに見る目がなかったから「フェイク」を「本物」だと思い込んでしまったのであり、そのツケは自分たちに降りかかってくるということを身にしみて噛みしめる経験を重ねたほうがいいのだと思う。投票に行かず丸投げするとこういうことになるとか、ブームに踊らされて空気感だけで選択するとこういう結果になるとか、そういう代価を払って学ぶことでしか民主主義は定着しないのではないか。

安易に受けると芸人は育たない、と昔だれかが言っていた。面白くないものには安易に反応しないという観客が、よい芸人を育て上げる。政治も同じなのだろう。選ぶ側の目が肥えてくるかどうかが、政治家が育つかどうかの大事な要素だ。二世、三世といった世襲議員が何の疑問もなく受け入れられ、本人の実力は問われないという不思議な現象も、それによっておのずと解消されるだろう。

これも誰かが言っていたことだが、国会の本会議や委員会の議場にモニターを設置し、有権者からのコメントが洪水のように流れる中で議論してもらったほうがいいのではないか。ニコニコ動画のコメントのように、質疑応答している議員の映像にかぶせて横殴りの雨のように大量のコメントがスクロールして流れていく。あるいはツイッターのタイムラインが滝のようにスクロールしていくのでもよい。有権者からのコメントにボコボコにされながらもきちんと対応できる人物でないと議員になれない。そういうほうが面白いのではないか。

国会中継を見ながら入れていたツッコミが実際にコメントとして議場に流れるようになれば、国民は何を感じているのかリアルタイムで伝わるだろう。ますます劇場型政治になるではないか。そういう声も聞こえてきそうだが、「炎上」して注目が集まるようになれば、政治へ関心を持つ人間も増える。直接民主制の一つのあり方になるのではないか。それともAIに重要な政治案件を判断させるから政治家は要らない。そういう時代になるのか。

いずれにしても、今回の総選挙に過剰な期待はしていないが、結果がどうなり政治がどう動くのか目を離さずに見ていたい。

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2017年9月30日 (土)

時事的放談・その3

前回の記事で「希望」がフェイクだとして安倍独裁よりましではないか、と書いた。さらに、よく考えてみればどちらもあまり期待はできないが、その中でより我慢できるダメさ加減はどちらかという選択なのだ、とも続けた。

では、共産党を中心とした左派勢力はどうなのか。残念ながら、正論を述べているのにあるいは正論を述べているがゆえに、一部からしか支持されない。中道から右派側が大勢を占めている日本の現状では、左派による過半数の獲得など寝言にしか響かない。なぜ正論を述べているのに、あるいは述べているがゆえに支持されないのか。一般大衆に届く言葉を根っことして持っていないからだろう。自民党が戦後七十年以上の期間に、そのほとんどに渡って政権を維持してくることができたのはなぜか。それは、共産党の場合の逆である。一般大衆に届く言葉を根っこに持っていたからだろう。

生活者としての一般大衆は、まずなによりも自分の生活がどうなるのかに関心がある。明日もちゃんとご飯が食べられるかどうかが最優先事項である。その他のことがらは実はどうでもよかったりする。つまり直接わが身に降り掛かってくるまでは「他人事」で済ませられるから、面倒なことは誰かに任せるのでよろしく、という気分である。そこから、任せて文句を言うだけという姿勢が標準的なものになる。

この大衆のいい加減さ、利己主義的ご都合主義という本音の部分に届く言葉を自民党は持っていた。共産党を中心とした左派勢力は、正論であるが理想論に過ぎない、あるいは建前上はそうであろうが現実的には無理だろうという言葉しか発してこなかったのではないか。だから一般大衆には深く届かない。

小泉・竹中時代に始まる新自由主義的政治勢力(これは、自民党も小池氏も同じだ)か、清潔すぎて力のない左派勢力かという選択以外に受け皿となる政治勢力が存在しない。これが現在の有権者の直面している不幸だ。中道右派から中道左派までを雑居させるリベラルな政治勢力が、確固として存在すればおそらく違うのだろうが、民進党はその期待に答えることなく「解党」へと坂を転げ落ち始めた。

しかし、中道右派から中道左派までを雑居させる確固とした政治勢力、というのは語義矛盾なのかもしれない。雑居状態である以上、求心力のある政治家ないし集団がいなければ政治勢力としての存在感はどんどん薄れていく。小沢・鳩山時代が終わった時点で現民進党はゆるやかにバラけていくしかなかったとも言える。

とまあ完全に居酒屋のオヤジ政談だが、ダメながらも変わる可能性があるものに賭けるか、それとも変わる可能性のないダメなものを選ぶか、これが現状だろう。どこも過半数を取れないと自公民と希望の党の大連立という改憲勢力の大政翼賛会になる、という見方もある。憲法改正、安保法制維持という点では自民党も小池氏も変わらないからだ。前原氏は憲法に反する安保法制は見直すと言っているが、本音はどうかわからない。

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2017年9月29日 (金)

時事的放談・その2

いやあ、そう来るのか。

何がって、あれですよ。民進党の希望の党への合流。これは予想もしなかった。つまり、民進党の前原氏がそこまで肚をくくるとは考えてもみなかった。参議院や地方議会に民進党議員が存在するので、解党したというわけではないのだろうが、衆院選後はどうするのだろう。

「希望の党」に「希望」は持てない、と前回書いた。基本的には変わらない。しかし、民進党の衆議院議員がいなくなり希望の党に合流することになると、候補者の急ごしらえ感は解消される。ただし、方針や意思決定の不透明さがどうなるのかは分からない。まさかこのまま小池代表とその周辺ですべてを決定していくという非民主的な形を続けるのではないと思うが。

そういった不安要素はあるものの、自公政権に対する対抗軸として野党勢力がある程度結集することになると、政権交代は無理でも自公の過半数獲得を阻止できるかもしれない。この点が、一番大きな期待感を引き出すのではないか。人びとの求めるものが、現状維持ではなく変化であれば、この期待感はあなどれない。

政策の違いをどうすり合わせるのだとか、政権担当能力のある政治勢力となりうるのかとか、わからない部分は多い。ただ、現状が変わるかもしれないと期待する空気がふくらむと、投票率も上がり一気に流れが変わる可能性が出てくるのではないか。少なくとも、今回の衆議院解散の大義のなさやこれまでの政権側の姿勢に不満を感じていた人びとに、錯覚だとしても、光を投げかけるのは確かだろう。たとえ、その「希望」がフェイクでしかなかったとしても、安倍独裁よりはましではないか。

つまり、よく考えてみればどちらもあまり期待はできないが、その中でより我慢できるダメさ加減はどちらかという選択なのだと思えばいい。こちらを選べばそれほどひどいことにはならないかもしれない。博奕じゃないんだからと言われそうだが、どうなるか確証がないものに賭けるしかないのだから、そういう感覚的なものを選択基準にしてもいいのではないだろうか。

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2017年9月26日 (火)

時事的放談

都知事の小池百合子氏が、新党「希望の党」の党首になるという見出しが新聞の一面に出ていた。自民党に入れたくない有権者の受け皿になることを期待してのことであろう。「都民ファースト」の都議選での躍進を目にして、総選挙でも期待している有権者が多いのかもしれない。だが、果たしてこの新党に「希望」は持てるのか。

結論から言えば、野党へ流れる票の収容先としかならず、かつての「日本維新の会」同様第二自民党的な党にしかならないのではないか。だから、自民党にとっても何ら脅威ではなく、むしろ反自民票が分断されることを内心喜んでいるのではないだろうか。

小池氏に対する期待は、既存の野党勢力に期待が持てないからだろう。こうすれば日本の政治は変わりますとか、みなさんの暮らしは良くなりますという、それこそ「希望」をかけることのできる政党や政治家が見当たらない。そう有権者に思わせている現状を、もしかしたら何とかしてくれるのではないか。こういう幻想が人気や期待のもとになっているのだろう。

だが、都民ファーストの代表選出の不透明さを見ても分かるように、小池氏が代表する政治勢力は民主的な手続きを重視しないようである。組織そのものも脆弱さを感じさせる。そもそも構成しているメンバーが、取ってつけたようなにわかづくりの急造という印象を拭えない。かつての日本維新の会みたいなものだ。総選挙で当選し、国政の場へ出ても果たして有権者の期待したような働きができるのか。

人気商売の芸能人の場合はイメージだけでもよいが、政治家の場合はイメージではなく政治的な実力で測られる必要がある。AKB総選挙みたいな人気投票に、本物の総選挙もなりつつあるということか。

それならばそれで諦めるしかない。国民の民度以上の政治家は現われない。期待する政治が実現されるためには、政治家を選ぶ国民自身の民度を上げるほかないだろう。民主主義というまだるっこしい、手間のかかる制度を機能させ、時間がかかることも含めてそれを国民に納得させられるまともな政治家を育てて送り出すくらいの気持ちでいないと、変わらないのかもしれない。つまり、任せて文句だけ言うのではなく、自らが主体的に関わっていく気持ちを有権者が持つことで、変化は少しずつ訪れるのではないかと思う。

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2017年9月24日 (日)

大義なき解散

内閣不信任決議案が可決された場合、または内閣信任決議が否決された場合、憲法第69条に基づいて衆議院は解散される。その場合でも、憲法第7条により天皇の国事行為として詔書をもって行われるものだそうである。

今朝の報道系番組で、首都大東京の憲法学者木村草太教授は、「憲法のどこにも解散が総理の専権事項であるという記述はありません。内閣に衆議院の解散権があるというのも、憲法第7条が根拠とみなすことはできるでしょうけれども
とコメントしていた。

第七条  天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。

一、ニ省略
 衆議院を解散すること。

四以下省略

衆議院の解散は、あくまでも天皇の国事行為であって総理の専権事項などではない。しかも木村教授が指摘していたように、「国民のために」衆議院を解散するのであって、政権維持や疑惑隠しのために解散できるのではない。

内閣官房長官を始めとして自民党では「総理の専権事項」と解散の正当性を主張しているが、その当否を争わないとしても、憲法第七条の「国民のために」という条文に照らして、いかなる大義があるというのか。

おそらく有権者の大半は、森・加計隠しの解散だと見ているだろう。しかし、自民党を選ばないと考えた時の選択肢がない。受け皿となる野党が見当たらない。たぶん、そういう考えから自民党をやむを得ず選ぶ、という人がいるだろう。自民党には入れたくないが、といって野党にも任せられるところがないから棄権する。そう考える有権者が相当数いるのではないか。投票率が史上最低の総選挙になるのではないかという、いやあな予感がする。

投票率が下がった場合、確実に組織票を積み上げることができる連立与党の公明党の動員力が大きな意味を持つ。投票率が低ければ低いほど、現政権に有利な結果が出るだろう。仮に投票率40%だったとした場合、過半数を得ても全有権者の二割にしか当たらない。十人のうち二人しか支持していなくても衆議院の過半数を獲得し、民意はわれわれにあると大見得を切ることができる。

では、どうすればいいのか。有権者にできることは投票による意思表示しかないのだから、できるだけ投票率が上がるように、知り合いやご近所を誘うしかない。だが、どこに投票すれば。どの野党も頼りにできないと思えば、白票を投じるしかない。投票率40%で白票率が50%だったとして、残りの有効投票で過半数を得た場合、実質的に全有権者の一割しか支持していないことになる。法律上は問題なくても、政治的に問題ないと果たして言い切れるか。いくらなんでもそこまで図々しく居直ることはできないだろう。とにかく投票に行く。入れるところがなければ白票を投じてくる。棄権した場合は丸投げすることになるので、結果がどのように出ても一切文句は言えない。だから、とにかく投票に行くことだ。

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2017年9月20日 (水)

落第生漱石

この間、偶然に漱石の「満韓ところどころ」という紀行文を読む機会があった。ちょうど近現代史の学び直しをしている途中でもあるので、漱石も満洲や韓国へ足を運んだのかと興味を覚えて読み進めた。明治四十二年、1909年に「朝日新聞」に連載されたものだから、日露戦争が終結してからまだ四年しか経っていないころのことだ。

冒頭に第二代満鉄総裁だった中村是公の名前が出てくる。後藤新平が自分の後がまとして据えた人物だが、この人が実は漱石の友人であった。

この満鉄総裁の中村是公は漱石と予備門(のちの第一高等学校、さらに東大教養学部の前身)時代に、神田猿楽町の下宿で一緒だった。予科の三年のころには、家から学資をもらわなくてすむように、二人で江東義塾という私塾の教師をしながら予科に通っていたという仲である。このあたりの事情は、同じ明治四十二年の「私の経過した学生時代」などに詳しい。

「満韓ところどころ」にも予科時代の話がでてくる。「猿楽町の末富屋」という下宿に大勢陣取っていたとあるから、中村是公と一緒だった神田猿楽町の下宿というのは、この「末富屋」のことだろう。この下宿に陣取った連中がことごとく勉強をしない。試験が終わると机なぞは庭に積み上げてしまい、広くなった部屋のなかで腕相撲をするやらなにやら、いつの時代も元気の余っている学生のすることは似たような馬鹿騒ぎだ。

この下宿の連中が連れ立って明治二十年ころ、徒歩で江ノ島まで遠足に行った。これも「満韓ところどころ」に出てくる。金はなくとも暇だけはふんだんにある学生たちが、ぶらぶらと歩いて江ノ島に着いたのは夜の十時ころ。そのまま砂浜で毛布にくるまって、砂だらけとなって朝を迎える。馬鹿である。こんな無茶苦茶なことができるのも学生時代くらいのものだ。

こういう次第であるから、当然のごとく、みな落第坊主になる。漱石も落第する。「落第」という随筆があるくらいだ。あの漱石が落第坊主だったのか、と意外だったが、この落第をきっかけに少し勉強してみるかと考え直し真面目に取り組み始める。実は、漱石の予科時代の下宿仲間は中村是公をはじめ、農学博士の橋本左五郎など、後にそれぞれの分野で活躍する人物ばかりだ。そのほとんどが予科時代には落第坊主というのが面白い。

まるで放し飼いの地鶏のようなものだ。ブロイラーのように鶏舎に閉じ込められて同じ飼料を与えられるのではない。地鶏は地面をほじくり返してミミズをつついたり、自分で好きなように歩きまわって餌をとっている。どう考えても地鶏のほうがうまいはずだ。それと同じように、ありあまるエネルギーが勉強に向くまでは、大馬鹿者であり、勉強し始めるとすべてをそこに集中するという明治時代の学生の姿は魅力的だ。人間の幅というのは、善悪賢愚美醜さまざまな経験を経て生まれてくるものなのではないかと考えさせられる。

随筆「落第」で初めて知ったのだが、漱石は建築科に進むつもりでいたのだという。自分は変人であるが、その変人でも自分から頭を下げなくても向こうから頭を下げて頼みに来る仕事を選べば、飯の種に困ることはなかろうという考えからであった。なるほどとは思うが、建築家漱石というイメージはピンとこない。

それがなぜ英文科へと変わったのか。漱石が落第して同じ級になった中に、米山保三郎という学生がいた。この米山が漱石にこう忠告する。

君は建築をやると云うが、今の日本の有様では君の思って居る様な美術的の建築をして後代に遺す(のこす)などと云うことは迚も(とても)不可能な話だ、それよりも文学をやれ、文学ならば勉強次第で幾百年幾千年の後に伝える可き(べき)大作も出来るじゃないか。
(夏目漱石「落第」より)

 それを聞いて文学をやることに決めたのだという。ちなみに米山保三郎は若くして亡くなるが、哲学科の秀才だったらしい。漱石の友人である正岡子規が、哲学科に進むのをあきらめたのは、米山が哲学科にいるのではとうてい叶っこないと思ったからだそうだ。

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