2017年9月20日 (水)

落第生漱石

この間、偶然に漱石の「満韓ところどころ」という紀行文を読む機会があった。ちょうど近現代史の学び直しをしている途中でもあるので、漱石も満洲や韓国へ足を運んだのかと興味を覚えて読み進めた。明治四十二年、1909年に「朝日新聞」に連載されたものだから、日露戦争が終結してからまだ四年しか経っていないころのことだ。

冒頭に第二代満鉄総裁だった中村是公の名前が出てくる。後藤新平が自分の後がまとして据えた人物だが、この人が実は漱石の友人であった。

この満鉄総裁の中村是公は漱石と予備門(のちの第一高等学校、さらに東大教養学部の前身)時代に、神田猿楽町の下宿で一緒だった。予科の三年のころには、家から学資をもらわなくてすむように、二人で江東義塾という私塾の教師をしながら予科に通っていたという仲である。このあたりの事情は、同じ明治四十二年の「私の経過した学生時代」などに詳しい。

「満韓ところどころ」にも予科時代の話がでてくる。「猿楽町の末富屋」という下宿に大勢陣取っていたとあるから、中村是公と一緒だった神田猿楽町の下宿というのは、この「末富屋」のことだろう。この下宿に陣取った連中がことごとく勉強をしない。試験が終わると机なぞは庭に積み上げてしまい、広くなった部屋のなかで腕相撲をするやらなにやら、いつの時代も元気の余っている学生のすることは似たような馬鹿騒ぎだ。

この下宿の連中が連れ立って明治二十年ころ、徒歩で江ノ島まで遠足に行った。これも「満韓ところどころ」に出てくる。金はなくとも暇だけはふんだんにある学生たちが、ぶらぶらと歩いて江ノ島に着いたのは夜の十時ころ。そのまま砂浜で毛布にくるまって、砂だらけとなって朝を迎える。馬鹿である。こんな無茶苦茶なことができるのも学生時代くらいのものだ。

こういう次第であるから、当然のごとく、みな落第坊主になる。漱石も落第する。「落第」という随筆があるくらいだ。あの漱石が落第坊主だったのか、と意外だったが、この落第をきっかけに少し勉強してみるかと考え直し真面目に取り組み始める。実は、漱石の予科時代の下宿仲間は中村是公をはじめ、農学博士の橋本左五郎など、後にそれぞれの分野で活躍する人物ばかりだ。そのほとんどが予科時代には落第坊主というのが面白い。

まるで放し飼いの地鶏のようなものだ。ブロイラーのように鶏舎に閉じ込められて同じ飼料を与えられるのではない。地鶏は地面をほじくり返してミミズをつついたり、自分で好きなように歩きまわって餌をとっている。どう考えても地鶏のほうがうまいはずだ。それと同じように、ありあまるエネルギーが勉強に向くまでは、大馬鹿者であり、勉強し始めるとすべてをそこに集中するという明治時代の学生の姿は魅力的だ。人間の幅というのは、善悪賢愚美醜さまざまな経験を経て生まれてくるものなのではないかと考えさせられる。

随筆「落第」で初めて知ったのだが、漱石は建築科に進むつもりでいたのだという。自分は変人であるが、その変人でも自分から頭を下げなくても向こうから頭を下げて頼みに来る仕事を選べば、飯の種に困ることはなかろうという考えからであった。なるほどとは思うが、建築家漱石というイメージはピンとこない。

それがなぜ英文科へと変わったのか。漱石が落第して同じ級になった中に、米山保三郎という学生がいた。この米山が漱石にこう忠告する。

君は建築をやると云うが、今の日本の有様では君の思って居る様な美術的の建築をして後代に遺す(のこす)などと云うことは迚も(とても)不可能な話だ、それよりも文学をやれ、文学ならば勉強次第で幾百年幾千年の後に伝える可き(べき)大作も出来るじゃないか。
(夏目漱石「落第」より)

 それを聞いて文学をやることに決めたのだという。ちなみに米山保三郎は若くして亡くなるが、哲学科の秀才だったらしい。漱石の友人である正岡子規が、哲学科に進むのをあきらめたのは、米山が哲学科にいるのではとうてい叶っこないと思ったからだそうだ。

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2017年9月19日 (火)

小学生の英語など・続き

変わるのは小学英語だけではない。

現状では、
   中学 … 1200語
   高校 … 1800語
合計で3000語レベルが高校卒業時の単語数となっている。

これが、中教審の資料によると、
   小学 …  600〜700語
   中学 … 1600〜1800語
   高校 … 2000〜2200語
と増加し、高校卒業時で4000〜5000語程度が目標に設定されている。

今のセンター試験英語をすらすら解いていくには、4000語レベルの単語集をクリアすれば、語数としては十分だと言えるが、このままいくと、これから数年後には5000語から6000語をクリアすることを想定しておいたほうがいいのかもしれない。

中学段階だけで考えても、小学校と中学校の単語数を合計すると中学卒業時点で現在のほぼ2倍の単語数となる。今でさえ単語が読めない、書けない、意味がわからない生徒が相当数存在するのに、倍増したらどうなるのだろう。前回も書いたことだが、小学5,6年の700語をまずしっかり身につけていくことが、中学英語の前提となる時代がやってくる。

文法項目にしても高校内容のものが中学に降りてくることが考えられる。仮定法や関係代名詞の所有格・目的格あるいは分詞構文などがでてきてもおかしくない。

コミュニケーション・スキルにも重点が置かれるようで、中教審が目標例としてあげているものを見ると、中学では「例えば、短い新聞記事を読んだり、テレビのニュースを見たりして、その概要を伝えることができるようにする」、高校では「例えば、ある程度の長さの新聞記事を速読して必要な情報を取り出したり、社会的な問題や時事問題など幅広い話題について課題研究したことを発表・議論したりすることができるようにする」と、いずれも高度なコミュニケーション能力が求められる。

ニュースや新聞記事を読んで社会的な問題や時事問題について話ができるのは、容易なことではない。英字新聞を広げて適当な記事を拾い読みしてみれば、語彙だけでなく背景知識も必要なことがすぐに分かる。つまり、英語以前に日本語の新聞をしっかりと読んで予備知識を持っておかなければならない。

何のことはない。これならば、英語より先に国語の力をまずつけることではないか。日本語で社会的な問題や時事問題について読み、内容をつかみ、議論ができる力があるかどうかのほうが重要ではないか。日本語でできないものは、当然英語でも無理だろう。学年が低くなればなるほど、日本語の占める比重が大きくなると思う。

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2017年9月17日 (日)

小学生の英語など

今日は少しまじめに塾ブログ風の話題を。

すでにご存じの方も多いと思うが、来年度から新しい学習指導要領に応じた移行期間に入り、小学生の英語が大きく変わる。それにより、来年2018年から、英語授業が以下の時間数になるという。

  小学5,6年 … 年間 50時間
  小学3,4年 … 年間 17時間

移行措置なので5,6年は7割実施だが、本格移行するとこれが70時間に増える。3,4年は5割実施で、本格移項後は35時間になるという。

とりあえず移行期間中、3,4年生のほうは隔週程度の割合だし、内容的にも英語に慣れるのが目的だろうから、まあ英語遊びといった感じのものだろう。しかし、毎週1,2回英語の授業がある5,6年のほうは、そうはいかない。

どうやら、この二年間で単語700語を読めて、書けて、意味が分かるところまで考えているらしい。また、来年小5になる現在の小4の生徒が中学2年のときに、中学校の英語教科書の大改訂が予定されているという。小学5,6年の単語700語を消化していることが前提だから、おそらく今の教科書とは全く違った形の英語教科書になるのだろう。

しかし、この移行措置に小学校の現場は十分対応できるのだろうか。それまで本格的に英語を担当したことがなかった先生方が急ごしらえで準備を進めているのが実際なのでは。とりあえず移行期間だから、それほど本格的でなくても…と考えていると、今述べた中学校の英語教科書の大改訂時に、現在の小学生たちがウロウロすることになりかねない。

700語の単語というと、現行の中学英単語1800語の四割弱である。決して少なくない語数だ。今の中学1年レベルの単語はすでに消化しました、ということを前提に中学英語が始まるということになる。現在小4の生徒が中学2年のときには、前年までに中1レベルの単語を消化しているからということで、新しい教科書に入っていくのだろう。

問題は、来年度から始まる移行期間中にきちんと700語の単語をクリアできるかということだ。現状の中1を見ていても分かることだが、中1レベルの新出英単語をきちんと覚えて2年に上がる生徒は少ない。読めない・書けない・意味がわからない、のないないづくしのまま学年が上がり、ますます英語が分からないというケースをよく目にする。

マス・メディアではあまり報じられていないのかもしれないが、メディアが報じ始めるころには問題が深刻化しているのが常だ。特に現在小4の生徒を抱えるご家庭は、来年度からの小学英語に十分注目していたほうがよいと思う。

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2017年9月16日 (土)

現実感のなさ・続き

昨日の記事を書いた後で、ふと妙なことを考えた。まさか、そんなことはないだろうが、もしかして。ほとんど妄想のようなものであるが、よろしければ与太話におつきあいを。

先月に続いて、昨日も北海道東沖の太平洋上に北朝鮮のミサイルが着弾した「らしい」。どなたか発射の現場と着弾の現場をご覧になりましたか?だって先月のミサイル発射の様子は北朝鮮の国営テレビが映像を流していたじゃないか。そうですね、確かに。でも、あの映像が本当に北朝鮮国内で実際に発射されたものだという確証はあるのですか。なんならハリウッドに依頼してCG技術を駆使して発射場面を作ってもらいましょうか。

あるいは、ミサイルが着弾したという公海周辺で何らかの残がいなど痕跡は確認されているでしょうか。そんなもん、すぐ沈んでしまうから残るわけがないだろう。確かに、そうですね。でも、アメリカの軍事衛星って地上を数メートル単位で「出歯亀」できるんでしょ。もう「出歯亀」という表現も死語か。「のぞき見」できるんじゃあないですか。もしかすると数十センチメートル単位の高精度かもしれないけれど。とすれば、発射直後か着弾直後の衛星画像がどこかにあるのではないのか。でも、そんなものアメリカからの情報として出てきたことありませんよね。これだけ偵察技術の高度に発達した時代に、北朝鮮発表の映像しかないって、ホント?

つまり、われわれは北朝鮮のミサイル発射という大きな「ホラ話」の中に置かれているのではないかという疑念が浮かんでくる。ジョージ・オーウェルの『1984年』を引くまでもなく、情報操作は大衆を支配するための有効ツールだ。何のために?商売ですがな、あなた。もうかりまっか、ボチボチでんな、の世界ですよ。北朝鮮という脅威が存在することで、たとえば一基800億円とか言われているイージスアショアを何基か備えましょうかってなことになるし、防衛予算の増額もしやすくなるし、戦争商売屋さんにとってはありがたい話ですがな。

えっ、でもそれって、北朝鮮やアメリカには何かいいことがあるの?北朝鮮的には、アメリカに虚勢を張る姿を国民に示し続けることで独裁体制を続けていけるというメリットがあるでしょう。軍事開発の名目で国民から金を搾り取ることもできるし。実際に作ってなくても金だけ巻き上げればウハウハでんがな。で、アメリカは?あのトランプ大統領でも、対外的な危機的状況となれば、国民は頼りにするほかない。国内的に批判の集中砲火を浴びていても、外交問題や紛争へと目をそらせば一時的にはしのげる。それとやっぱり軍産複合体としては、だぶついている在庫を何とかしたいから政府に買い上げて使ってもらうか、同盟国に売りつけるかしたいところでは。

となれば、「三方一両損」ならぬ「三方一両得」のウィン・ウィン・ウィンでみんなハッピーにいきましょうやというところに話が落ち着く。みんなで口裏合わせて、北朝鮮のミサイル発射による挑発がエスカレートしているという緊張を極東に作り出しましょうよ、ねえ、ってなわけだ。

まあ、実際のところは分からない。

架空の「ヤルヤル詐欺」に踊らされていました、というのも阿呆らしいが、かといって現実にミサイルが頭の上に降ってくるというはさらに御免被りたい。

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2017年9月15日 (金)

現実感のなさ

北朝鮮から「また」ミサイルが発射された。朝からテレビはこの話題で持ちきりである。先月と同じように北海道の東沖、太平洋上に着弾したらしい。

アメリカと北朝鮮のチキンレースで、交渉カードの切り札とするためミサイル発射が繰り返されるのは「先代」のころから何も変わっていない。本気で挑発するのなら、あるいは本当にアメリカと事を構え得る気なら、とっくの昔にグアム周辺に打ち込んでいるはずだが、それは一度も実行に移されない。こうなると、ヤルヤル詐欺みたいなもので、結局口先だけではないのかと疑ってしまう。

確かにミサイル発射の回数は多くなり、間隔も短くなった。が、実質的な被害が出ていないという状況は以前と変わらない。こうなると私のような一般人は、「ああ、またか」「また、公海か経済水域の端っこでしょ」「こんどは何?ICBMじゃないの?」くらいの反応になってくる。つまり、そのくらい実感がない。現実にミサイルが着弾するかもしれないという可能性の低い事態については、これまでもなかったんだから今度もないでしょう、で済ませてしまう。

オオカミ少年状態である。今朝のNHKの放送のなかで、北海道だったかの人の感想として「いい加減、うんざりしています」というものがあった。この感触は最大公約数的なものではないだろうか。ミサイル発射、被害なし、北朝鮮の挑発行動への非難、もっと制裁を厳しくしろ、圧力をかけろ。こういう一連の流れで「終了!」となるのが、毎回だ。

神山健治監督の『東のエデン』というアニメを思い出す。細かい説明は省略するが、ミサイルが着弾しても人的被害の発生しなかった「迂闊な月曜日」と呼ばれる事件が起きる。緊張感なく日々が過ぎていくなかで、その次のミサイルが発射され犠牲者が出るという設定だった。今年に入ってからミサイル発射の報道が多くなると、このアニメのエピソードが浮かんでくる。

ミサイルが国内に着弾して甚大な被害が発生する恐怖は、頭の隅に居座っている。しかし、恐怖と緊張感は「日常化」するにつれて薄らいでしまう。例の「非日常も日常化する」という、あれである。こうなると、われわれ日本人は、伝統的に「思考停止」モードに移行する。まあ、前回も領海や領土には着弾しなかったんだから、今度もないでしょう。たぶん、大丈夫ですよ。という程度のやりとりで済ませて、あとは考えない。この心的反応形式は、昨日今日にできたものではないので、いかんともしがたい。

七十年前の戦争だってそうだし、東日本大震災と同時に発生した福島の原発事故にしてもそうだし、大惨事が現実化するまでは、われわれは「ほとんど何も考えない」。そして大惨事に直面したときには「腰を抜かす」。虚脱状態となる。そうしてしばらく呆然として、ふと我に返ると、またいつものように日常生活に戻り、何事もなかったかのように日々を送る。だから、東日本大震災のときに、「日本人は大災害に直面しても冷静さを失わない」と賞賛されたが、あれは冷静だったのではなく、腰を抜かしていただけなのではないか。

現実にミサイルが着弾し、本当に腰を抜かすことにならないことを願っている。

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2017年9月14日 (木)

一年以上過ぎたのだが…

去年の七月末から英単語12,000語を覚えようと単語カードを作り、ときどきサボりながらも連日覚える努力を続けてきた。三月末ごろに一巡し、そこから二巡目に入った。そのようにして毎日を送っているうちにまる一年がすぎてしまった。

まる一年が過ぎてしまったのだが、なかなか覚えられない。記憶力のよい若い頃ではないのだから、まあそんなものだろうなとは思いながら始めたことではあったが、実際にやってみて覚えの悪さに愕然としてしまう。覚えていない単語の割合がほぼ50%。ということは、6,000語レベルまでは達したことになる。のではあるが、もともと大学入試で必要な4,000語レベルの下地があったので、実質的には2,000語しか増えていない。

うーむ、まる一年かかって2,000語か。ということは、このペースでゆくと、残り6,000語を消化するのにあと三年かかる勘定になるが…。日暮れて道遠し、か。あるいは光陰矢の如し、か。どちらにしても、まだ先は長い。

もともと英単語12,000語を覚えようと思い立ったのは、ある英語学習サイトで、12,000語を覚えれば日本文を読む感覚で英文を読めるようになると目にしたからだった。本当にそうなのか。実験をしてみようじゃないか、ということで始まった。

それで肝心の英文を読むことに関してはどうなのか。その英語学習サイトの記事には8,000語レベルに達すれば、日常会話や新聞、雑誌を読むことには不自由しなくなると出ていた。現在のレベルは6,000語だから、まだ2,000語足りない。ということで、英文を読んで大意をつかむことは以前より速くなったような気がするが、細部まで日本文のように理解できるわけではない。

英語力を測定する目安として読むのは、サリンジャーの「Nine Stories」。講談社から英文の文庫本として出ていたものが手許にあり、これをリトマス試験紙にしている。野崎孝訳の日本語の『ナイン・ストーリーズ』は、何度も繰り返し読んだ。暗記するほどまでではないにしろ、登場人物や情景が思い浮かぶ程度には覚えている。ところが、英文の「Nine Srories」からどれか一話を選んで読んでみると、ベールが一枚かかったように細部が分からない。単語・語彙の不足ということに尽きる。これがすらすら分かるようになったら完成だなあ、とは思うが、いつのことになるのやら。まだまだ道は遠い。

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2017年9月 1日 (金)

ふらんすへ行きたしと思へども・続き

フランス語基礎は原先生のおかげで三年目に何とかなったが、おなじ三年目にフランス語講読でお世話になったのは、山本有幸先生と大矢タカヤス先生だった。

大矢先生はフランスの大学の客員から戻ったばかりで若手の先生だった。奥さんがフランス人らしいぞ、と同じ講読を受けている学生が噂していた。奥さんがフランス人かどうかはともかく、どうやってフランス語講読の単位をもらえるかのほうが、私には問題だった。

テキストはバルザックの『ゴプセック』。文庫本では訳本がなく、バルザック全集の第何巻かを探しだして買い求めた記憶がある。とにかく原文と註釈だけでは無理だと思ったのだ。幸い履修している学生の数が多いので、訳読の順番が回ってくるのは間隔があってそれだけ準備に時間が取れた。そのため、全集の訳文とテキストの原文を隅から隅までつき合わせて訳文を考えていくことが可能だった。

それでも欠席回数が多くて単位をもらうには微妙なところがあった。これは何とか泣きを入れて頼み込むしかないとハラをくくり、教官室を訪ねて「なんとか単位をいただけないでしょうか」と相談すると、まあしょうがないかという表情で了承してくださった。一応筆記試験の点数はとれていたということもあったのかもしれない。

もうひとつのフランス語講読で、山本先生に講義してもらったのは、メリメの『カルメン』だった。こちらは文庫本での訳本もあり、楽勝だと思ったのもつかの間。最終的に履修届を出して履修することが確定した学生は、私も含めて全部で八人ほど。講義室が広すぎてどこに座ったらよいか悩むくらいだった。「できるだけ前の方に集まってください。今年はこれくらいの人数しか履修しませんので、こじんまりといきましょう。」山本先生は、冗談や皮肉ではなく、ごく当たり前の調子で告げて講義を始めた。

山本先生の講義はぜひ受けたいと思っていた。それは、大岡信の『詩への架橋』という岩波新書で、旧制中学のころ一緒に同人誌をやっていて、山本の詩が仲間の中では一番だったという記述を読んでいたからだった。加えて、掲載されていた十代の頃の山本先生の作品もあまりにもカッコよかった。とても十五、六の少年の詩とは思えなかった。

だから、フランス語講読の観点で選択したのではなく、どうして詩人とならず大学教授になったのかという文学的興味の方が大きかった。直接それを伺う機会はなかなか訪れなかったが、ある日、市内へ下るバスの停留所で山本先生と一緒になった。人数の少ない講読を受けているので、山本先生も私がその中の一人であることはすぐに分かったようだった。バスが来るまでは少し時間があった。「大岡信さんの『詩への架橋』で読んだのですが、…」と私は単刀直入に切り出した。「どうして詩人の道を選ばれなかったのですか。」

ぶしつけな私の質問に少し苦笑したような表情を浮かべ、「うーん、詩で立っていけるとは考えていなかったからね…」と先生は答えられた。「でも、あの本に引用されている先生の詩は、とても十代の少年が書いたとは思えないくらい完成されていると思いましたが。」「…。たぶんフランス文学のほうが面白くなってしまったからかもしれないな。」「そうなんですか。」

そうしたやりとりの後で、「そうだ。あの頃の私たちに興味があるのだったら、大岡の『年魚集』という本を読んでみるといい。もう少し詳しいことが書いてあるはずだから。」と先生は勧めてくださった。バスがやってきて先生も私もそのバスに乗り込み、話はそこまでとなった。『年魚集』は、『詩への架橋』の前年に青土社から出ていた一冊だった。実は未だに読んでいない。いつか読もうと思いながら、入手しないまま過ぎてしまっている。

山本先生にはもう一つ忘れられない印象が残っている。それは年度の終わりの頃だった。前期に試験がなかったので、おそらく後期の試験で単位が出されるのだろうと私は思っていた。そろそろ試験範囲などの話もあるだろうと、前の週に欠席した講読に顔を出した。その週は訳読が回ってくるはずだった。

土曜日の最初のコマの講義だったから、たぶん午前九時ころから始まったのだと思う。自分の担当分が終わると眠気に襲われ、私は講読の残りの時間をこっくりこっくりしながら過ごしていた。ほどよく暖房が効いて、静かな講義室で居眠りするのは心地よかった。ふっと目が覚めたとき、山本先生の声が聞こえてきた。教壇の席に座ったままいつもの穏やかな調子で「…ですから、後期も筆記の試験は実施しません。」と言ったように聞こえた。寝ぼけてぼんやりしたままの私は、聞こえた内容を反芻した。後期も…筆記試験は…実施しない?!

唖然としたままの私を残して、山本先生も他の学生たちも講義室を出ていく。あわてて山本先生を追いかけた。「山本先生、後期も試験はしないって本当ですか。」「そうです。」「でも、それじゃ、評定を決められないんじゃないですか。」先生は例の少し苦笑したような表情を浮かべた。「今年は履修者が少ないので、講義の時の訳読で君たちの力はつかめましたから大丈夫です。」「でも、それでは不安です。」「みなさんに単位を出しますので大丈夫ですよ。」

事実、大丈夫だった。筆記試験もレポートもなし。隔週に回ってくる訳読だけ。それだけでフランス語講読の単位をもらってしまった。結構欠席回数もあったのに、である。

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2017年8月31日 (木)

ふらんすへ行きたしと思へども

大学生だったころ履修していた外国語はフランス語だった。萩原朔太郎のように「ふらんすへ行きたし」と思ったわけではない。仏文科に進もうと考えていたわけでもない。もっと打算的な理由からだった。フランス語は文法が楽だ、という誰かの言葉を耳にして、それなら楽をしたほうがいいと安易に思っただけのこと。

確かにドイツ語文法の教科書に比べると、フランス語文法の教科書はウソのように薄かった。15章くらいしかなくて、本当にこんなもんで大丈夫なのだろうかと不安に感じるほどだった。ところが、この教科書の薄さにだまされてはいけなかったのだ。フランス語基礎を、結局三年間受けることになった。正確に言うと、最初の二年は履修届を出して夏休み前に履修放棄してしまったので単位が取れなかった。

原因は動詞の活用であった。細かいところは忘れてしまったのでざっくり言うと、人称と法(確か、直説法とか接続法とかあったはず)と時制を組み合わせると、1個の動詞につき、単純時制で48通りの変化となる。もちろん、語尾の変化は法則性があるのでそれを覚えていけばいいのだが、教科書の巻末に折りたたみで付けられている動詞の変化表を横に広げたときには、絶望的な気分になった。

その結果どういうことになったかというと、三年目にはフランス語基礎を履修しながら同時にフランス語講読をAとBの二つ受けることになり、気がつけば毎日フランス語の講義があるという笑いも引きつる状態となってしまった。が、結果的にはこの三年目が良かった。

フランス語基礎の担当はモンテーニュの『エセー』を訳されていた原二郎先生。厳しい先生だったが、抜群に分かりやすかった。語学の基本は「習うより慣れよ」だというその言葉通りで、原先生は前回の基本例文を講義冒頭にチェックするのがきまりだった。まず、例文と同じ人数だけ口頭で確認し、その後全員に筆答させるという形だったと記憶している。この方法は単純だが確実に力がついた。一年目、二年目に挫折した動詞の活用も、なぜかすんなりと理解できた。これは未だに理由がよくわからない。

薄い文法の教科書は夏休みが明けて少しすると終了し、マルセル・パニョルの『少年時代の思い出』を抜粋して註釈が入った教科書で訳読していった。よちよち歩きから少し早足になったようなものだったが、註釈が充実している教科書で、訳読に手間取った記憶はあまりない。

原先生は厳しかったが、実に味わいのある授業だった。君たちは国際語というと英語を真っ先に浮かべると思うけれども、国際会議では英語の次にフランス語が使われる頻度が高いのだからしっかり身に着けておくようにとか、さまざまなアドバイスが挟みこまれた。退官する最後の年だったからなのかもしれないが、含蓄のある言葉が多かった。

それよりも何より、三年目でなんとかフランス語の単位を取ることができるようになったのは、原先生のおかげだと思っている。フランス語基礎が何とかなるという見通しが持てなければ、フランス語講読の単位取得など考えられもしなかったからだ。一年目、二年目に基礎を担当された先生方の教え方がまずかったということではない。それぞれフランス語学習の月刊誌に連載をもっていらっしゃる先生方で、フランス語を教えてもらう環境としてはこの上ないものだったと言える。しかし、私には合わなかった。

教える教わるという関係がきわめて「人間的」な要素に作用されるものだということを考える。人工知能が発達すると、人が教えるよりも人工知能に任せたほうがいいという議論もあるようだが、果たしてそうなのだろうか。「人間的」な要素が排除されるため、学習者と教授者との間に余計な摩擦が起こらず、学習内容に集中できる。確かにそうかもしれない。だが、無菌化されたような、あるいは漂白されたような、感情にも身体にも何ら動揺を引き起こさないような学びでよいのだろうか。この人のようになりたい、という模倣的感染が引き起こす強い動機づけこそ学ぶことの本質なのではないのか。人は人工知能を模倣的感染の対象としてみなすようになるのだろうか。スパイク・ジョーンズが監督した映画『her 世界でひとつの彼女』の人口知能型OSみたいに振る舞えるのであれば、ありうるのかもしれないが。

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2017年7月31日 (月)

同時代を生きているということ

近代史の学び直しをしている中で、もどかしく思うことがある。明治の西郷隆盛や板垣退助、あるいは昭和維新期の北一輝や大川周明でもよいのだが、写真やさまざまな記述を読んでも今ひとつつかめない感触が残る。膨大な人物論や評伝が残っている場合でもそれは変わらない。

これが例えば、田中角栄だったり佐藤栄作だったら、私と同年代の方はある手触りのある記憶とともに、こういう感じの人物という説明ができそうな気がする。もちろん直接田中角栄や佐藤栄作に会ったことがあるわけではない。テレビのニュースなどを通じた二次的な情報としてしか触れていない。にもかかわらず西郷隆盛や板垣退助に対しては感じることができない何かを彼らには感じる。

それは、おそらく同じ時代に生きていたという記憶から来るのではないだろうか。子どもの頃だったとしても、いや子どもであればなおのこと鮮明に、その時代の感触を覚えている。だから、メディアによって作られた像であるにしろ、ある確実な像となって浮かび上がってくるように思う。

それと同じように、村上春樹がベストセラー作家で新しい長編小説が出ると書店の前に行列ができたものだ、とか、藤井四段が連勝記録を更新したときはものすごい騒ぎだった、とかいった話はこれから五十年、百年経つと実感を伴わない歴史的な事実の一つになり、ふーんそうだったんだという程度の受け止め方しかされないだろう。

同時代を生きているということのありがたみは、なかなか実感することがないのだが、過去の歴史の中の人物と向き合うときに逆の意味で痛感させられる。だから、たとえば末松太平『私の昭和史…二・二六事件異聞』のような個人の記憶と結びついたエピソードに接すると、ベールの向こう側にあって届かないもどかしさを感じていた人物にいくらか近づけたような気持ちになる。それはあるいはただの錯覚なのかもしれない。しかし、主観的なものであってもなにがしかの記憶と結びつきがあるエピソードと、伝聞的に後で「情報」として知ったエピソードとでは雲泥の差がある。伝記が面白いと感じるようになったことには、こういった記憶の裏づけがあるエピソードという要素も大きく関係しているのだろう。

ただ、同じ人物についてであっても、それを記憶している人によって受け止め方は異なってくる。当たり前の話だが、まず時期の違いがある。それからその人物との親疎の距離感の違いも大きい。たとえば、森繁久彌と聞いて、私が思い浮かべるのは芸能界の大御所としての森繁久彌で、白いヒゲと眼鏡がすぐに浮かんでくる。しかし、もっと上の世代になれば、小林桂樹や三木のり平他と共演した「社長シリーズ」などの森繁久彌を思い浮かべるかもしれない。さすがにNHKのアナウンサー時代、それも満州国時代の姿を思い出す方は少ないと思うが。

そのような断片的な像の集積から、少しでも全体像の把握に進むことができたらそれだけでよしとすべきなのかもしれない。

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2017年7月30日 (日)

興味の対象

このところ、伝記やそれに準ずる記録などを面白く感じて読んでいる。もちろん小説には小説でしか表し得ない虚構の面白さがあるのだが、事実の積み重ね(それが主観的なものであるとしても)により浮き出てくる、現実に生きた人間の姿は、小説とは別の感慨を呼び起こす。

「ありうる姿」としての人間ではなく、「そのようであった姿」を味わうと言えばいいのか。どうも書画骨董を愛でる老人になってしまったような気分だが、おそらくこれは自分の手持ちの時間が残り少なくなってきていることを頭のどこかで分かっているということなのだろう。二十年くらいで人の生涯を区切ってみると、平均寿命まで生きるとして少なくとも八十年が四つに区分される。陸上競技のトラックで言えば、第一コーナーから第四コーナーということになるか。どう考えても、もうじき第三コーナーの区間が終わって第四コーナーへかかろうかというあたりをフラフラとしている。

現実的な話として、ここから「ありうる姿」を新たに求めて自分を変えていくのは、シンドイ。若い頃のように、これから先の時間がふんだんにあり、贅沢にそれを消費していくことができる時期であれば前しか見ずに進むこともできる。だが、長い坂道を下るように残り時間が刻一刻と少なくなっていく年代になると、否応なしに「来し方」に思いを馳せ、「そのようであった姿」を振り返ることが増えてくる。それとともに、伝記や記録に定着された、ある時代の一人の人間がどのようにして生きたかという姿に興味を覚えるようになった。

ある一人の人間が生きていく上で、大きく影響するものは何があるのだろう。まず生まれ育った時代。周囲の人間との出会い。そして偶然という要素。特に最後の偶然という要素の占めている割合が意外に大きいことに呆然としてしまう。若いころにチャプリンの自伝を読んで一番印象に残ったのもそのことだった。喜劇王と言われたチャプリンでさえ、映画に出ることになったのは「偶然」からだった。巡り合わせが違っていれば、『モダンタイムズ』も『ライムライト』も存在しなかったわけだ。その「偶然」をどのように捉えるかで、運命論者にも宗教家にもなりうるだろう。逆に、「偶然」が大きく作用するならジタバタしても始まらないじゃないかと開き直ることもできそうだ。

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